2008年7月31日木曜日

「モンテーニュ私記」

先日のこと、雨宿りがてら入った本屋で、よく冷房の効いたコーナーの書棚を眺めていて、なにげなく手にした本がわたしには衝撃的だった。それはモンテーニュの生涯を描いた本で、以前より漠然と想像していたこととはまったく異なり、死と常に隣り合わせの激動の時代を生きた文人の思索の記録であった。残酷な宗教戦争やペストが猛威を振るった想像を絶する困難な時代を、家族や臣民を守るために心を砕き、その苦闘の果てにモンテーニュは次のように書き残したと。「もし人間がその一日を生きたとすれば、それはその人間の仕事の中で、根本の仕事であるばかりか、一番輝かしい仕事である。」「われわれの務めは日々の生活態度を作ることであって・・、賢明に生きることのほかのいっさいのことは・・、補助的なことに過ぎない。」モンテーニュの「エセー」は、その退屈極まりない題名からずっと触れる機会のない本だったが、わたしにとって今読むべき本だということを、強く示唆する内容だった。

世界中が落ち着きを失って、右往左往しているように見える。昨日まで意気軒昂に未来を語っていた者達が、ずぶ濡れのネズミのようになって、身を潜める巣穴を探して走り始めている。これまで危機に直面した人々がパニックに陥るのを幾度となく見てきた。巻き込まれないためには、冷静な対応ができるよう周到な準備をしておくしかない。しかし降りかかってくる火の粉をかわすことばかりを考えていて、肝心なことをすっかり忘れていたようだ。すなわち、わたしたちは何のために生きているのか、いかに生きるべきなのか。その問いかけを忘れた一切の努力は、いわば脊髄反射のようなもので、確かにその場凌ぎにはなるかもしれないが、決して人生を豊かにする努力ではない。

困難な時代の到来を予感させる今だからこそ、ネズミの一生ではなく、人間としての一生を全うするため、わたしは少しずつゆっくりと「エセー」を読んでいきたい。宗教に頼ることができない孤独な現代人にとって、「エセー」は「よく生き、よく死ぬため」の格好の羅針盤になると思うからである。そして本書「モンテーニュ私記」は、初めてモンテーニュに触れる人たちにとっての、その全体像を見渡すための格好のガイドブックなると思う。

「モンテーニュ私記」 保苅瑞穂(著)

2008年7月20日日曜日

「フード・セキュリティー」

食糧危機が現実的なものとして心配される昨今である。ただ、専門家でもない我々には、この地球規模の厄災を把握するには、基礎的な知識が決定的に不足している。そこで世界における食糧の需給状態、今後予想される事態、食糧危機の回避策などを、簡潔にまとめられているのが本書「フード・セキュリティー」である。

食糧供給は余剰の時代から慢性的に不足する時代に入った。グローバリズムの影響で中産階級が飛躍的に増加したことによる需要拡大と、水不足や耕作地の減少、温暖化による供給の減少がその原因だ。食糧の需要は急激に伸びているのに、それと同じ原因により、供給能力そのものが減少している。工業化社会を推し進めると、命を支える水や土地は儲けの良い工業に奪われる。モータリゼーションの到来は、道路や駐車場、巨大ショッピングセンターの需要で、少ない耕作地をより減少させる。ついさっきまで一汁一菜で満足していた人々が、グルメグルメと騒ぎ出し、その結果耕作地を荒廃させて農業の疲弊に拍車をかける。そして食糧自給率は低下して、世界規模で食糧の争奪戦を繰り広げる。これまでの大量消費社会を肯定し続ける限り、この恐ろしい連鎖反応の解消はない。

今日にあって国家レベルでも、農業生産者レベルでも、食糧増産の手立てがないのが現状である。だからといって食糧危機に手をこまねいていては、世界的な飢餓状況を引き起こし、社会不安や国際紛争の火種になる。ではどのようにして危機を回避すべきなのか。総論的には、食糧需要を抑え供給力を保全するため、各国政府や国際機関が連携し、強力なリーダーシップでもって、即時に社会改革のための具体的行動に出るべきと訴える。改革には痛みを伴うが、放置することで発生する厄災を考えれば、これを避けて通ることは許されないのである。

これを個人のレベルに引き直して考えると、必要とされる改革はすでに多くを手にしている人たちにとって愉快な話ではないだろう。先進国が独り占めしていた食卓に、何倍もの人たちが加わるのだから、それは以前の簡素な食生活に戻ることを意味する。大量消費社会のあり方を見直せば、産業構造が激変し、失業率を上昇させ、一時的には経済的混乱を招くだろう。またクルマ社会との決別は、人の暮らし方、働き方を変える。野放図に欲望を満たすことを良しとした現代社会は、一転して人々に質素に、そして賢く生きることを要求することだろう。はたして、わたしたちはその変化を受け入れることができるのだろうか。「フード・セキュリティー」を読んで、人間の知恵や勇気を試されるときが、目前にやってきているということを強く感じた。

2008年7月12日土曜日

ソーサー

暑くなってくると、レギュラーコーヒーよりエスプレッソが欲しくなる。冬場と違い、水分を十分に補給しているので、水腹にコーヒーを飲む気にはならないが、疲れて気分をリフレッシュしたいというとき、苦みの利いたエスプレッソはもってこいなのだ。ただそれだけでは物足りない。わたしの場合、レギュラーコーヒーはいつもブラックだけど、エスプレッソに関しては砂糖を足すか甘味のものを一緒に摂りたい。十分な糖分と刺激の強いコーヒーのエッセンスが絶妙に混じり合い、口中を華やかな香りで満たすとき、心の風鈴が優しい音を立てるような気分になるのだ。

先日のバーゲンでふと目についた、波佐見の皿。縁がシャープに立っていて、和食器の重さを感じさせない、すっきりと現代風のデザインである。何か良い用途がないものかと思案していて、エスプレッソカップ用のソーサーを持っていないことに気づいた。エスプレッソには少量の甘味が欠かせないのに、それを添える適当な大きさのソーサーがない。

そこでエスプレッソカップ専用のものよりずっと大きな、18センチ径の丸皿を買って帰った。で、実際の様子は、写真のような感じ。ドイツ生まれのエスプレッソカップと、最初から対だったように、自然に収まっている。そして本来のソーサーよりずっと使いやすい。カップに合わせて、同じ柄のソーサーなんて、そんな必要どこにもなかったわけなのである。

2008年7月9日水曜日

パソコンモニターの取替え

長年の液晶モニターが劣化し、画面が見辛くなってきたので、思い切って取り替えることにした。評判の良い機種を調べると、挙がるのは大画面もしくはプロ専用の高級機種ばかりで、安価な普及品は散々である。店頭で実際に見比べてみるが、正直なところ、どれがいいのかさっぱり分からない。大画面で派手な絵が映っていたりすると見栄えはいいものの、地味なデスクワークでの使いやすさには繋がらないのだ。探せば探すほど混乱するのが、液晶モニター選びである。

そこで頭を冷やし、改めてどのようなパソコンモニターが必要なのかを考え直す。頻繁に利用するスプレッドシートやデジタル写真の管理などを考えると、ワイド画面であることを必須条件としたい。だからといって大画面にすると、机上の利用では圧迫感が強いので避けるべきだろう。普及価格帯の製品では、むしろ小さめ画面の方が粗が目立たないという話なので、これらの点から幅広かつコンパクトな液晶モニターを選ぶのが無難かも知れない。加えて、すっきりとした描写が好みなので、デジタル出力が可能なことも条件か。そして古いモニターはマルチモニターのセカンダリとして、今後も活用することを予定しているので、2台並べて違和感のないデザインであることも重要。

これだけ条件を並べると、混乱していたモニター選びも数種類に絞られて、結局購入したのは、今のと同じメーカーの19型ワイド画面の製品である。性能的には平凡だが、不満な部分は設定を変えたり、使用環境を工夫すれば何とかなると割り切った。何を選んでも完全は期待できない以上、自分なりの価値基準をほどほどに満たせば良しとした結果なのである。

実際に使ってみた印象は、事前の予想通り、描写能力そのものは可もなく不可もなしだが、ワイド画面の効果は十分にある。そして、中年向けの目に優しい画面表示を選択できる機能があるため、負担が幾分軽くなったのもうれしい。と同時に、それ以上に、結果的に新旧モニター取合わせてマルチモニター構成となったことの方が、わたしにとっては恩恵であった。特に、セカンダリに格下げした古いモニターを、テキスト専用に設定し直して使うアイデアは我ながら大正解だったように思う。