2007年12月23日日曜日
カタログギフト
いつの頃からなのか、贈答品をカタログでもらうことが多くなった。初めてもらった時は、虚礼とはいえ、いかにも事務的な雰囲気がして、あまりいい気分でなかったが、最近ではそういう抵抗感もすっかり薄らいでしまっている。たしかにつまらないと言えばそれまでだけど、虚礼を廃止するわけにもいかず、さりとて互いに迷惑になるものをやり取りするのも不合理だ。そのような状況で、カタログギフトは、世間のしがらみを断つことのできない我々の、一番洗練された贈答品かもしれないと思う。
そのカタログギフトだが、当初は正直なところ、自腹を切ってでも欲しいものなど皆無で、結局何も注文せず放りっぱなしになることもたびたびあった。ところがここ最近、カタログのリストの中にも、積極的ではないにしろ、これなら有難いなと思えるようなものが増えてきている。そしてとくに、昨今のデザインブームのおかげなのか、種類こそは少ないが、結構楽しいものが目につくのである。
写真のエスプレッソカップは、先日もらったカタログに小さく出ていた商品である。デンマークの会社が販売しているが、製造はバングラディシュ。決して高価なものではないが、ハンドメイドであり、しかも売上の一部は教育基金に寄付されているということだ。こういうセンス、ちょっと素晴らしいと思う。途上国の雇用を増やし、かつ子どもの福祉にも役立ち、そしてもちろん、選ぶ側の満足度も大きい。このカップが届いてから毎日のように使っているが、手書きの人魚の柄にバングラディシュの職人や、トタン屋根の教室で勉強に励む子どもたちを想像するのは、なんだかとても楽しいのである。
本来ギフトというのは無償の行為であった。そして無償だからこそ共有できる豊かさがあった。カタログギフトという、経済的合理性に乗っかったものであっても、その仕組みによっては、見ず知らずの誰かと豊かさを共有できる方法があるだ。当のそのカタログは、この事実にまったく気付いていない風だったが、そのようなシステムを明示したカタログビジネスがあれば、積極的に使いたいと思う。
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