2009年8月9日日曜日

どうすりゃいいのか総選挙

社会の運営のあり方として一番に考えなくてはならないのが公平性だ。この社会が公平でないと感じる層が増えると、社会はバランスを失ったコマのように左右に激しく振れだし、その結果、経済活動は鈍化し社会の活力と富はどんどんと失われていく。南米諸国によくある例だ。この悪循環を正すには、とてつもなく長い時間がかかるだろう。

人々に不公平感が募り、嫉妬心が刺激されると、不法に手を染めても鈍感になる。そういう人が増えると、損な役割を引き受ける人が減り、結果として闇コミュニティや利権グループを生み出すことになる。真っ当な社会を維持するのに、莫大なコストがかかるようになり、社会は少しずつ分裂していく。分裂した社会は、よほどのことがない限り元には戻らない。

だから、政治の基本はなんといっても公平、平等な社会を維持し続けることにある。それがあってこそ、福祉だの平和だのを論じることができる。仮に不公平な社会に福祉政策がなされても、ローマ皇帝が只飯と娯楽でローマ市民の歓心を買ったように、それは社会の不満を宥めるための偽りの政治だ。そして歴史の示すごとく、そのような社会は長続きしないものだ。

日本の国を思うに、まだまだ社会が分裂している状態とは感じない。最近はやりの階級社会という言葉は、職業や居住地が違えば、生まれも育ちも全く相容れない人々が混在する社会を指すのであり、そこまで極端になっていない幸せを感謝すべきだろう。せいぜいあるのは、貧富の差。政策次第でいくらでも対応できる段階である。

しかし、ことさらに民衆の不満や繰り言を代弁する政治家が増えてくると危険を感じる。老人の愚痴、利権団体の不満を言いつのり、弱者というとらえどころのない階層の利益を口にする人々は、一方において未組織の踏みつけにされる市民の存在は眼中にはない。政党交付金を手にするような政党の本心は、支持団体以外のサイレントマジョリティはただのノイズに過ぎないようだ。そんな政党の政策綱領に、私たちはどこまで信頼を寄せられるだろうか。

国民が将来に不安を感じ、だから政権交代を望むという気持ちは理解できる。民主主義国家としては、健全な政治行動ともいえる。だけども、要は、民意が平等に国政に反映されるシステムになっているかどうかが重要なのだ。最低限、一人一票の価値が等しく対等でなくては、とうてい公平な社会とは言えない。私たちの意見が、利権団体の人々ともに等しく国政に反映されて、ようやく政策の議論ができるというものだ。特に、今後数十年の社会の変化を睨み、国のあり方をどのようにデザインするかという課題に直面しているとき、目先の小銭を欲しがるような人たちの声が大きくなるというような事態は避けたいのである。

じゃあ、どうすればいいのか。私たちに残された手立ては、即効性はないものの運良くまだ残っている。議会に期待できないなら、最高裁判所に圧力をかければいい。民主主義の名の下に一人一票の価値の異様な不平等を追認し続ける裁判官に対して、拒絶の意志を明確にすること。功成り名遂げ、自分の地位を名誉職か何かと勘違いしている裁判官に、猛省を促すために冷や水を浴びせること。今を生きる自分たちだけのためでなく、未来の子供たちに対する義務として、国民審査をまじめに考えるべきだと思うのである。

地味でぱっとしない提案だけど・・・。

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