投票箱の前で

昨夜、駅近くの投票所で期日前投票を行いました。
この数年、期日前投票の人が目立って増えてきてませんか。
投票所の入り口で、初めて列に並びました。
もしかすると、前回より投票率が上がりますかね。

ちょっと考えました。
政治に対するどうしようもない無力感について。

近代政治のメカニズムについては習った人も多いことでしょう。
大衆の意見や要望が多様なルートを辿ってリーダー層にくみ上げられ、それに対応する政策が打たれる。次に、これに対する大衆の反応が再びリーダー層にフィードバックされ、更に適切な政策が提示される。
この流れがスムーズに循環するならば、政治に対する信頼が生まれ、国民は安心して暮らすことができるわけです。
人の体でいえば、世論という血液が心臓から送り出され、リーダーたる頭脳に運ばれ、国家という体が動かされるというイメージ。
そして心臓に当たるのが、民主体制なかんずく選挙というシステムなのでしょう。

小さな国ならば、このような政治のモデルが妥当しやすいと思う。
それが証拠に国民の幸福感が高いのは、現に小さな国々ばかりです。
つまり大衆とリーダーの距離が近いため、政治が機敏に活動しやすいという長所がある。
だから政治上の不満というのが少ない。

逆に大国になると、大衆とリーダー層とは生まれも育ちも違い、大衆はメディアを通じてしかリーダーたちとの接点がない。
そうなってしまうと、政治に信頼感など持ち得ないですね。
憲法の教科書に書いてある「投票箱と民主政の過程」なんて、そりゃどなたが政権を担当しようとフィクションです。
ただ、大衆にとって最後の砦が投票箱なんですから、やはり無視しちゃだめなんですけどね。

このような観点からすると、巨大な人口を抱えた国家が投票箱で民主政を実現するなどといったことは、本来あり得ないことだと考えるべきです。
そういう国はアメと鞭でしか統治できないし、国民自らもアメと鞭を上手に使い分けるリーダーを望むはず。


「フィールド・オブ・ドリームス」というアメリカ映画ありました。
若い農民の夫婦が主役ですが、作中、村の公民館で図書館の本の選定を巡って議論するというシーンがありました。
道徳的に好ましくない本は図書館から排除すべきだという保守派の動議に対して、その夫婦たちが舌鋒鋭く反論し、動議を否決するわけです。
これがアメリカン・デモクラシー。
そして、その先にあるものが、大統領選挙というわけです。
つまり地域コミュニティをはじめとする様々な中間団体で執り行われる討議と多数決が積み重なって、あの国の民主政が維持されていると考えて良いでしょう。
大統領選挙が金権選挙であることはもちろんでしょうが、しかしその結果に対して反対派が暴動を起こすというようなことは起きない
それはやはり、日常レベルでの討議と多数決があってこそ、国民に民主主義への信頼が共有されているからですよね。

翻って我が祖国。
戦争後、国の形が大きく変わり、経済成長一本槍で来た結果、地方から都市へ人が移動し、地方は寂れ都市は肥大化、多くのサラリーマン家庭は地域コミュニティを形成することもなく高齢化する一方、子供たちは結婚することなく職場や地域で孤立化する。
日本社会に存在する中間団体は、もはや企業と宗教組織くらいしか残っておらず、討議と多数決の育つ土壌を欠いた社会になってしまっている。
ちょっと名の売れたお笑い芸人が知事になるのは悪いこととは言わないが、そういう人しか選べないくらい、私たちは孤独で寂しい国になってしまったということに気づくべきじゃないだろうか。
こんな寂しい社会で、いのちだ平和だ立憲主義だといわれてもね、なんかぜんぜん的外れじゃないでしょうか。
果たして、その空虚なスローガンで心の灯を点せますか。

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