2018年8月15日水曜日

おとなのお絵かき


宅配便の品物を包んでいた大きな紙を一枚用意します。紙質に難ありだけど、ここに自分の未来を描きます。

最初に、将来が確定している事柄、たとえば自分や家族の年齢、人口動態などを横軸に記す。ほぼ確かだろうと思える社会問題も。縦軸は自分の体力、収入、資産等のリソースをあらわし、それがどのように変化するか書き込む。もちろんこのグラフは死に向かって右下がりに。次に、生活に必要なコストを、おおざっぱなイメージで書き込む。このグラフは70くらいまではダラダラと増加、そこを過ぎると90に向かって更に上昇するというイメージ。そのうえで、これから起きるであろう自分や社会環境の変化が、これらのグラフにどのような影響を与えるかを想像する。

たとえば後期高齢者になったら介護リスクが一気に高まるので、現実化すると家族の生活コストは2、3割以上は増加するだろう。最悪、夫婦ともに要介護者になったら、という想定も当然だ。生活コストのグラフは、その瞬間上方に飛び跳ねる。
しかしこの時点で収入を増やすことは不可能。国家財政の逼迫状況は悪化するだけなので、国からの給付は減ることはあっても、増えることはない。とすればそれまでに、元気な内にどれだけ余裕をもっておくべきかが重要になる。
後期高齢者入りするまでは、健康と十分な収入を確保して、その後は残った体力と財産を活用して90過ぎまで生活を維持するという未来が描けます。

それから横軸にはもう一つ、忘れてはならない大震災リスクがあります。世の中には、起きるかどうかわからない事柄を考えても仕方ないという、ある種の正常性バイアスにとらわれた意見もありますが、遅くとも30年以内というのが専門家の見立ててです。そうすると私の場合いやでも直面するということになりますが、さてどう対処したものでしょうか。

地図には、書き込んだ項目からさらに関連項目へ、また連想ゲーム的に思いついたことも書き込みます。レベルの異なる概念でも、気にせずに並列したってかまわない。重要なことは一枚の紙の上に書いて並べて眺めて、自分たちの置かれた状況を明確に把握することです。関連し合うものはマーカーで結びつけ、事実関係や論理関係を明らかにする。そうこうするうちに、自分の解決すべき課題は何なのかが、自然と浮かび上がってくると言う算段です。


大して楽しくない、おとなのお絵かきの話でした。

2018年8月12日日曜日

これから我が身に降りかかる、ほぼ確実にやってくる不都合な事態について

まずは、労働人口の加速的減少と高齢者人口の増大(2025年問題)。かねてから想定されたことなのに、社会にはそれに相応しい危機感の共有がない状況です。
つぎに現在進行中の気候変動、地震、とくに東南海地震はその物理的周期性から逃れることはできないのでかなり切羽詰まる深刻な事態。
最終的には日本の国力喪失で、地政学上の均衡が不安定となって安全保障が揺らぐ。ただし多国間の複雑な力関係なのでいかなる事態になるかは予測困難だし、そのころはすでに生きてはいない可能性大なので、個人的には気にしないでいいのかも。

以上予想しうる2つもしくは3つの不都合な事態に対して、せめて20年若ければ、選択肢として海外に新天地を求めることも可能性としてはあったのだけど、いまや夫婦ともどもに体力、知力の衰えすでに微かな兆候あり。自らの老齢化とともに、激変の大波を被ることを覚悟しつつ、とりあえず個人がなし得る対策はないかとない知恵を絞っている次第。
もちろん権力者や超富裕層と異なり、平凡な市井の人にできることは限られる。
実現すべき目標はささやか・・・。これからも変わらず、病気になったら適切な治療を受け、腹が空いたら食事が摂れて、空調の効いた部屋の快適なベッドで眠れることくらい。そのハードルは、意外に高いのかもしれません。

では、なにを、どうすればいい?
自分でできることから少しずつ考える。

まずは家族全員の健康を維持増進し、日常の生活能力を高めておくこと。つまり低コストで長期間(90年以上)健康に暮らせる環境を整える。
なぜなら少子高齢化はあらゆる場面で継続的なコストアップ要因になるので、個人の対応としては限りなく低コストの暮らしを追求せざるを得ない。
また、たとえお金はあっても必要なサービスが提供されないという不都合な事態が想定できるからです。
つまり人手不足で医者がいないとか、地域で商店がなくなり毎日の買い物ができないという状況が、現に人口過疎地で起きている問題が、将来は都市部でも普通になるということ。最近では人手不足で路線バスの運行本数が縮小している、バス賃が上昇しているという報道がありました。たかが引っ越しだって、人手不足で自由にできないという時代です。
とすれば暮らしに必要な多種多様のあらゆる技能を、誰もが身につける必要がある。生活全般のことを、当たり前に何でも自分でする、つまり「一億総セルフサービスの時代」が確実に到来します。

福祉社会というのは、困ったときには誰かに助けてもらえることの引き替えに、その膨大なコストを負担するために、逆に個人ができることは何でもしなくてはならない社会だ。それが証拠に、福祉国家といわれる国の人たちは家庭科教育をしっかりと受け、性別年齢を問わず家事全般何でもこなすというのが通例です。皮肉なことに、我が国も社会が切羽詰まって、ようやく他の先進国並みの福祉社会に到達するということなのです。

さらなる不都合。それは核家族化と長寿化に伴い、誰もが認知症や寝たきりになって介護を必要としているのに、誰もが家族の介護を単独で担うべき事態が到来しているのです。
すでに親子、夫婦間の老老介護は常態化して、さらには要介護者同士の介護すらあるといいます。
今でさえ介護家族の負担は大変なのに、要介護者が激増し、介護の人手不足が深刻化すると、ぼくらの社会はどうなるのだろう。
これからあと数年後の2025年、団塊の世代が全員後期高齢者入りして医療施設や介護施設を満杯にし、もはやその下の世代の施設介護は望めなくなることを想定すべきだ。
なにしろ後期高齢者の数が前期高齢者の倍にふくれあがり、そのような危機的状況が長期にわたり継続するといいます。特に三大都市圏では、人口比率からいって、その後の世代が同じ医療、介護サービスを受けられる余地がないのですから。

われわれがなすべきは、できるならば家族が認知症にならないよう健康管理に最大限気をつけ、今のうちから自宅介護に備えて人数分の資金を十分に蓄える、また互いに何でもできるように知識、技能を身につけておくことが最低限の準備です。

退職後は年金暮らしの気ままな隠居生活という昭和世代のあたりまえは、平成の時代が終わるとともになくなってしまった。つくづく亡くなった親父を羨ましく感じます。私たちは、二極化した分断社会の中、大部分の人が体が動くうちは、生活のための労働をしなくてはならないという新しい時代を迎えるのでしょうね。

「正常性バイアス」の罠

震災や水害など自然災害の発生時に、避難警告が出ていたのに、多くの犠牲者を出してしまったという事例が多い。どのケースも、少しでも過去の災害に関心があったら、直ちに行動すべきことが当然であったにも関わらず、である。もし警報が出たら、多少面倒でもとりあえず避難するという選択をすれば、ほとんどの人は助かっていたはずなのです。

その原因として、人が「正常性バイアス」という心理傾向にとらわれることが指摘される。緊急事態が到来しているのに、たいしたことはないだろうと自分に都合よく事態を過小評価し、現状維持を選択する行動である。今この瞬間、自分の生命が危ないとリアルに感じられるなら誰だって逃げるのだが、危難に直面するまでわずかでも空間的時間的な余裕がある場合、その場で目や耳を塞いで安心しようとするのが、ごく当たり前の人の習性なのです。

私たちが、これら過去の事例から学ぶべきは、いかにすれば人の習性である「正常性バイアス」から逃れるか、それに尽きるといってもいい。

私の実践している方法は次のようなことです。
前提として、誰かが助けてくれるだろう、なんとかしてくれるだろうという、他人依存的な思い込みは捨てる。すでに老人ばかりの社会、緊急時は誰の救援もないというのが前提です。

そのうえで、自分や家族に降りかかる危難を想定して、どうすれば避難できるかを事前に考えておく。避難のシミュレーションである。たとえば普段から立ち入る地域のハザードマップを調べておき、その危険度を確認するなど。いざという時、どこに駆け込むべきかを把握しておく。

日頃から、今ここで突発的に緊急事態が発生したとき、どうすればベストなのかを習慣的に意識する。意識過剰と思われるだろうが、電車の先頭車両には乗らないとか、交差点で安全な立ち位置を考えるとか。毎日報道される事故や事件を聞き流さず、当事者意識を強く持つということを心がけます。外面的には些細な行動だけど、えてして生死の境目はそういうことで変わってくる。

準備すべき装備は、ひとつ残らず十分にストックし、いつでも使える状態にしておき、定期的にチェックしておく。きちんと準備しておけば、いざというときパニックにならず、冷静に対処できるだろうと考えるからです。
先の大阪の地震後、すぐに防災チェックをしたところ、家具の転倒防止策が不十分だということに気づき、慌てて転倒防止器具を追加注文しました。ところが皆さん一斉に行動したようで、数ヶ月先まで手に入らない状況になっています。防災準備は大勢が行動し始めると、すでに手遅れなのかもしれません。

この程度のココロとモノの準備であっても、何か突発的な事態が生じた場合に、「正常性バイアス」による思考停止を避け、割と淡々とシミュレーションどおりの避難行動に移れるようです。
7年前の原発事故の際は、避難の必要性を考える前に、まずガソリンスタンドに直行して避難態勢を整えたことが、その後の心理的な余裕につながりました。実はそれ以前、震災による原発事故は御前崎で起きるだろうと考え、もしもの時はまずはクルマに給油しようと計画していたのです。翌日から近隣のガソリンスタンドでは給油のための大渋滞が起き、給油したくてもできない状況に陥りました。


さて、ここまで書いた自然災害、その他の危難に対する備えは子供でもできるし(「釜石の奇跡」と呼ばれる子供たちの避難行動など)、むしろできていない方がどうかしているくらいのレベルです。
難しいのは、社会全体の規模で起きている変化が、それが確実なのは間違いないのに、いつどのように自分や家族に深刻な影響を与えるのか、もしかすると社会のあちらこちらにすでに兆しがあり、それに呼応するように避難警報といえるような情報が出ているとき、どうやってそれを的確に捉え、対する準備を実行するか。
目前まで迫っている社会的危難に対して、強固な「正常性バイアス」の罠を振りほどき、社会がスローパニックを起こし一斉に動き始める前に行動すること、ここが一番難しいことなんだと思います。
例えば、石油ショックのパニック、平成の米騒動、そして先の震災時の放射能パニック。日本人は自分で考えず、一斉に他人の行動に盲従する癖があります。それが不必要に大きな混乱を呼び、さらに被害を拡大します。
だからこその準備です。

自分にとっては、年齢的にいって、残された時間はもうありません。
貴重な夏休みの時間を使い、真剣に答えを出そうと思います。

2018年5月19日土曜日

100年の人生

テレビCMで”人生100年”という言葉が出てきて、ちょっとびっくりしました。数年前から、100年を前提に人生設計すべきということが語られるようになってきましたが、もはや常識のレベルにまで上がってきたということでしょうか
人が当たり前に100歳まで生きる時代が到来するなんて、少し前には想像すらしなかったことが、いよいよ現実になってきているようです。

もとより急激な科学技術の発達で、がんは治療可能な病気になり、再生医療も道筋が見え、更に支援ロボットを用いた手術も普及しはじめている。AIを用いて、研究者が気づかない新しい治療法が発見されたという話も聞きます。このように日進月歩どころでない、とてつもない早さで医療技術が進歩し、そのため私たちはたとえ死にたくても容易には死ねない時代を迎えています。
現実に、先日100歳を過ぎた科学者が、安楽死を求めてスイスに行ったというニュースもありました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180512/k10011435981000.html

誰もが100歳以上生きる時代なんて、想像すると空恐ろしく感じる。自分が100歳を迎えるころ、親しい人たちは生きているのだろうか、誰にも頼らず一人で暮らせるのだろうか、果たして暮らせるだけのお金はあるのだろうか。

そのくらいの不安ならまだいい。ひょっとして早めに認知症になってしまい、周囲の人たちを長い間苦しめるのではないだろうかという不安もある。やはりそれだけは、どうしても避けたい。そうなるくらいなら、早めにスイスなりオランダなりに行きたいものだと本気で思います。

このところ、残り半分の人生をどのように過ごすべきなのか、繰り返し考えています。100年時代を迎えるのに、どのような準備をすればいいのか。今から出来ることは何なのか。人間関係、健康、お金、その他いろいろ。人生をリセットするつもりになって考えています。

2017年5月30日火曜日

「雨あがりの街」


昭和もそろそろ終わろうかという頃だったか、新聞の投書欄に面白い記事が載っていたことを覚えています。投書主は会社勤めの女性で、ランチタイムにときおり蕎麦屋で日本酒を飲むという内容でした。

ストレスの強い部署にお勤めなのか、その日はいつもの社員食堂ではなく、敢えて誰も知らない蕎麦屋でひっそり仕事の疲れを癒やしている。そんなランチの光景を想像すると、嫌でも物語は広がっていきます。場所はもちろん新橋、風情の残る路地裏に10席程度の静かなそば屋。平日の昼間っから卵焼きを当てに酒を飲んでいても少しも違和感のない店で、入り口に背を向け目立たないように座っている中年の独身女性の姿がある。少々酒を飲んでも顔に出ないだろうし、仮に気づかれても文句を言われない立場の人かもしれない・・・。蕎麦が運ばれてくる暫しの間、呼吸を整えるようにゆっくりと杯を傾けるのでしょうか。そのシーンはどこか向田邦子のドラマの一場面を彷彿とさせます。

かようにわたしの妄想は続くわけですが、そんなシーンが自然と湧き出てくるのは、投書の内容がまさに都会の物語だから。様々な人生が交差する場所だからこそ、ある種の感慨を持って未だにその記事を思い返しているのです。


常盤新平のエッセイ集、「雨あがりの街」がいい。先の投書と同時期の本で、その中の何編かは東京のビジネス街で働く女性たちが主人公になってます。とりわけ「6月の街」というタイトルのエッセイが味わい深い。あたかもスナップ写真のように、たまたま雨あがりの夕方にすれ違った、仕事を終えたばかりの若い女性の姿を簡潔に描写しています。彼女はこれからどこに向かうのだろう。買い物だろうか、デートなのか。もしかすると簡単な夕食をとってひとり映画を見に行くのかもしれない。そういう想像が広がるのも、やはり都会ならではの場面設定だからでしょう。

春が終わりを告げ、夏の気配を感じるこの時分になると、なぜか読みたくなる本です。わたしはずいぶん以前に本をなくしてしまい、幾度も図書館から借りて読んでいます。

2017年5月7日日曜日

連休のお楽しみ。

連休を利用して部屋の片付け、ガーデニングに勤しむのはいつものこと。
あとは昼間っからビールを飲んだり、本を読んだりと、勝手気ままな時間を過ごしている。
例年、まったく代わり映えのしない過ごし方だが、しかし今年はほんの少し、お楽しみを付け加えた。
それは、「世界一おいしいご飯が炊ける」という気合いの入った炊飯器でいろんな料理にチャレンジしてみること。


気になるデザインは可もなく不可もなく、ホーロー鍋とIHヒーターを合体させたらやっぱりこうなりましたというカタチ。
どっしりとした重量感があり、それなりに場所を取るのは仕方ないか。
狭い台所では、存在感がありすぎかな?


世界一、世界一と呟きつつ炊き上がりを待ったご飯に、やっとご対面。
最初に撮影した写真はピンボケだったが、現物のご飯はシャキッとした粒立ちが素晴らしい炊き上がり。


そして肝心の味はどうかというと、食感が少し硬めかなという感じる以外は正直よくわからない。
きっと上等のお米なら違うのだろうけど、普段使いの安いお米なので、まあそれなりにというところだね。



ご飯を炊くことよりむしろ、IHヒーターの温度管理が容易なことを利用して、ずぼらな煮込み料理を作ることに関心がありました。
低温で長時間、コトコトと気長に煮込む料理だと、途中で火が消えたり、逆に焦げ付かせる心配もなく、その時間をほかの用事に回せるからです。

早速に手がけたのが、手羽と大根の煮物。
まずは手羽に焼け目を付け、次に大根と調味料を放り込んで蓋をして、後は低温にセットしてのんびりと出来上がりを待つ。
ずぼらの極みですが、これがいいあんばいに仕上がります。


お次はスジコン。
下調理したスジにコンニャクと調味料を合わせ、気長に気長にコトコトと煮詰めるだけ。
なのに、あんまりにも美味くて、思わず日本酒を買いに走りました。



低予算で、しかも手間を掛けずに美味しい料理を作る。
そういう目的にぴったりの、理想的な調理器具です。
更に、ホウロウ鍋自体が、直火でも使えるというのも、また嬉しい誤算でした。

2016年10月3日月曜日

金沢散策


関西での用事を済ませたあと、遠回りして二度目の金沢を訪れました。前回は学生の時で、当地の学生寮でゴロゴロしてただけでどこにも行った記憶がありません。なので実質今回が初訪問。


たまに小京都などと呼ばれますが、実際に歩いてみると京都とは全然違いますね。街の中心に巨大な城址があり、しかも武家屋敷が多く残り、京都などよりずっと古都の風情を色濃く残す堂々たる城下町でした。


かつては駅の近くにぽつんと高層ビルが一つだけやけ目立つ、斜陽の地方都市という印象があったのですが、今回は様相一変で成長する北陸の拠点都市という印象かな。
念のため統計をみると、実際に前回時より1割方人口が増えている。
もちろん福岡や仙台などの発展とは比べられないが、それでも寂れる一方の私の故郷と比べると、ずっと伸び代があるように思えます。


金沢は観光客が多いと聞いてましたが、もしかして9月末は時期的にオフシーズンかと期待してたのに大外れ。やっぱり観光客が多くて、どこに行って行列に並ぶことが多かった。楽しみにしていた美術館も、入館まで何十分待ちで、館内もすし詰め状態。有名な見所だし、こればっかりは仕方がないか。


そんなわけで、本命の飲食店だってどこも予約がいっぱいで、当日に連絡したのでは全然間に合わない様子。予約を受けない店を見つけ、時間的に少し早いが開店と同時に飛び込んでやっと席を確保しました。そしてこの日は猛烈な暑さで、冷えたビールが本当に美味かった!


当地で私が一番気に入ったのは、食事が美味くて安いこと。味付けが、関西出身の自分にとってちょうど良い感じ。地元産の魚も野菜も酒も、いろいろと目移りして困りました。しかし、名物のノドグロだけはがっつりと食べてきました。


今さら意外感はないのですが、金沢の街も外国の観光客が多く目に付きました。やはり個性ある文化、豊かな歴史、そして美食が楽しめる場所には、少々不便なところでも世界中からお客さんがやって来るんですね。

2016年9月30日金曜日

いま時の大衆実用車に驚く



「大衆車」を意味する海外ブランドの、その中で最も実用的なクルマを購入しました。
つまり、「大衆向け実用車」という色気も素っ気もないクルマ。
というのも、見栄やはったりとは一切無縁の、日常生活の道具として相応しいクルマが欲しかったからです。

前回も述べたところですが、急に買替えが必要となり、感情ではなく論理を詰めればこれしか選べないだろうという、ある意味きわめて消極的な判断で決まったクルマでした。
おまけに我が家の周囲でも、同じ理由で選ばれたに違いない同じクルマがごろごろと生息しており、なんとなく諦め半分の買い物でした。

ところがいざ運転を始め、次第に慣れていくにしたがって、すべてが感心することばかり。
試乗時の印象以上にずっと軽快で、走る曲がる止まるの動作に何の不満もない。
いや不満がないという言い方は不適切か。
感覚的に言うと自分の運転技術が、3割程度上達したような気分を味わってます。
もっとも、つい先日まで20年前のクルマを運転していたのだから、それより悪いということはあり得ないわけですが、何の違和感もなく乗り替えられ、かつ運転が楽しいと思えるのだから、自分にはこれ以上望むことは何もありません。


良いクルマの条件とは、煎じ詰めればたった一つ、長距離を運転しても疲れないことです。
そこで今回、遠方での用事にかこつけ1500キロの長距離ドライブを行いました。
結論から言うと、期待通りほとんど疲れを感じることがありませんでした。

最大の理由は、高速道路を自動走行したので無駄な労力を使わなかったこと、また視力を酷使する夜間走行が信じられないほど楽だったことです。
また、車両の加減速、車間距離の調整、ブレーキ操作が自動で行われるため、足を常時操作ペダルに置く必要がなくなり、悩みの種だった足の疲労がなかったことも大きい。
走行レーンを外れないようにハンドルに手を添え、突発的な事態だけに注意を払っておけば良いだけなので、体力、集中力が落ち気味の中高年にはぴったりのクルマと言えるでしょう。

ここでの技術的な解説はこちら

ちなみに燃費は、高速道路を平均時速100キロで走って、リッター20キロという驚異的な数字。
人の感情混じりの運転でなく、コンピュータが計算尽くで運転するのだから燃費が良いのは当たり前でしょうが、いくら走っても燃料計の針が少ししか動かないというのが不思議な気分でした。
そして、効率的な社会を作るには、人工知能に委ねるべき分野も多く、もっとも非効率な人によるクルマの運転がまさに該当すると感じました。

体に優しく、しかもお財布にも優しいという、驚くべき今どきの実用大衆車。
これまで前世紀のクルマしか知らなかった自分にとっては、文字通り理想的と言って差し支えないレベルのクルマでした。
これから更に10年後を想像するなら、市街地での自動運転が当たり前になり、たぶん人々はクルマへの関心を失い、自分で自動車を所有する意識も無くなるだろうという気がしています。

2016年8月14日日曜日

三代目のクルマ

春を迎えて急に調子が悪くなってしまった「前世紀号」、夏に入ってもはやこれまでという状態に至りました。近所ではすでに同型のクルマを目にすることもなくなり、何ヶ月かに一度、たまに路上で遭遇することがあると、何となく互いに意識して併走、追走することも度々でした。そんな楽しい体験も、今夏でおしまいです。

いつかは今日の日がやってくるのを予想して、折を見ては三代目候補の試乗を繰り返していました。条件は3つ。サイズはできる限り小さいこと、普通に美しいこと、運転して楽しいこと、です。前回にも書きましたが、左足ブレーキが前提なので、以上の条件を満たすものを輸入車の中から探すことになりました。

小さいクルマであることについては、言うまでもなくクルマは社会によって支えられているのだから、社会の迷惑になるようなサイズであってはならないという考えからです。普通に美しいということも同様で、社会に不快感を与えるような、たとえば町並みと調和しないようなデザインは、自分にはとうてい許容できません。運転の楽しさは・・・・、もし運転が楽しくなければ、もはやクルマを所有する理由はないのではないかと。レンタルでもシェアでも不都合がないというか、経済的合理性で考えればむしろそうすべきだと思うからです。

これらの条件を満たすようなクルマばかりならいいのですが、そこは大量生産を前提とした耐久消費財の悲しさよ。多分に少数意見的な自らの価値観と一致する都合のよいクルマなどありません。逆に、デカくて、ラグジュアリーで、セクシーで、自己顕示欲を十分に満たすような素晴らしいクルマならばいくらでも。特に発展途上国で激増するお金持ちに望まれるようなクルマを売ることが、企業にとって最重要課題になってしまった今では、古い価値観を持つ人々が満足するクルマを探すことは一層難しいのではないでしょうか。


これまでに試乗して記憶に残ったクルマを記しておきます。最初に、サイズにも美しさにも目をつむり、それでも買いたいと思ったのは、運転そのものが非常に楽しかったフォードのクルマ。ドライバーの思いのまま機敏に動作する爽快感は、今まで乗った中では出色、ダントツでした。これがもし国産メーカーから出てたらヒット間違いなしだったと断言してもいい。それで迷わず三代目のクルマとして決めたところが、会社の突然の撤退でいきなり梯子を外されました。日本市場では、有名じゃなし、オシャレでもなし、地味さが取り柄のブランドは消えゆくのみ。そういえばオペルなんかもそうでした。


つぎに、3条件はなんとか及第点だけど、それでも不安感を払拭できなかったのがフィアットのクルマ。近所をコロコロと転がすだけなら全然問題ないですが、高速道路の追い越し車線を突っ走るとなるとどうなんでしょう?むろん高速は走らないという選択もありますが、ウチの場合むしろこれから高速道路を使う機会が頻繁にあると予想しているので、やはり性能の余裕は欲しいところです。それでもやっぱり惹かれます。


自分も高齢化することを踏まえ、老人が安心して運転でき、使い勝手も良さそうなクルマとしてピックアップしたのがルノーの新型車。乗り込んでハンドルを握ることは出来たものの、実際に試乗して走り回ることはできませんでした。フィアットと同じく、日常の足としては最高、しかもデザインが威圧的でなく楽しげなところが気に入りました。しかし、安全装備の不足感は否めず、それがかなり残念。もし自分が20代の若者なら、最初に買うクルマとして迷うことなく選んだでしょうに!


初代と二代目は、何の迷いもなく直感的に決めることができ、その後も少しの後悔もなく、最後の最後まで愉快に付き合うことが出来ました。そして三代目。クルマに対する社会のニーズは変化し、私たち自身も年齢に応じたニーズの変化があります。その両者のズレの大きさが、選択肢を狭め、積極的に選択することの難しさを招きました。それで今回は、これまでのような直感ではなく、理詰めの、消去法的な選択です。そしてもちろん、理詰めだの消去法だのといった後ろ向きの選択は、それはたいてい誤っているという経験則を飲み込んだ上での判断でした。

悪いクルマじゃないのですが、自分にはどこかよそよそしく愛嬌がない。愛嬌がないということは、無意識に粗探しをしてしまう、選んだのはそういう種類のクルマです。なのに世間ではけっこう人気があるらしいのです、たぶん運転しやすいからでしょうかね。


2016年8月5日金曜日

左足ブレーキの憂鬱

細くて見通しが悪く、入り組んだ道ばかりが毛細血管のように広がっている街に暮らしています。
こんな場所でクルマを運転していると、十分に注意していてもヒヤリとすることが頻繁にあります。
特に最近は、高齢者やスマホに夢中の若者が操る自転車が増え、左右を確認することなく無自覚に交差点に入ってきます。
窓を開けて見えない自転車の音に耳を澄ませ、慎重に交差点を通過するのですが、それでも目の前に突然姿を現し仰天することがしばしば。
夜はライトを点灯するので相手も気づく可能性がありますが、明るい昼間はほとんど対処のしようがない。
普通の街では考えられないでしょうが、これが我が街の現実です。

それで、いざという時に備え、少しでも早くブレーキを踏むため左足ブレーキを実践しています。
左足は常にブレーキペダルに乗せ、右足はアクセルを踏む以外は外しておくという習慣です。
咄嗟の場合、混乱してペダルを踏み間違えるという指摘もありますが、普段からAT車しか運転せず、長年左足ブレーキを実践していると、緊急時には反射的に左足が動くのでそのような不安はありません。
もし、万が一パニックを起こして両足で両方のペダルを踏みしめても、近年のクルマはブレーキを優先するようにプログラムされているので、やはり停車することには変わりないと言われてます。
すべてのクルマがそうだとは断定出来ないですが・・・。

ペダルの踏み間違いを原因とする自動車事故が増えてます。
どういう仕組みで踏み間違いが起きるのかわかりませんが、そもそも片足で異なる操作を要求する点に無理があるような気がします。
自分が不器用だからなのでしょうが、片足でアクセルとブレーキを交互に踏み換えるというのは、ずいぶんと器用なことだと思う。
まして緊急時に、瞬間的にペダルを踏み替える芸当となると、反射神経が鈍くなってきた自分にはとても無理。
もちろんこれは慣れの問題でしょうが、ならば両足での操作だって慣れの問題であり、だったら自分の慣れた方法で操作するのがベストではないだろうか。

ただ左足ブレーキ派には一つ見過ごせない問題がある。
それは多くの国産車で、ブレーキとアクセルペダルが、右寄りに配置されていることです。
この状態で左足ブレーキを実践すると、体をわずかに右側にねじったようになり、不自然な運転姿勢になります。
国産車は安価で性能のいいものが多いのですが、どれだけ性能がよくてもペダル位置の問題で諦めざるを得ないのが現状。
せめて輸入車並みに、もうちょっと中央寄りにペダルが配置されたらどれほど選択肢が広がるか。
またそのことこそが、自分にとって嫌でも輸入車を選択せざるを得ない理由になってます。

2016年7月12日火曜日

「無料お試し」を利用する

いきなりハードディスクレコーダーが不調になり、新しいモデルを買うはめになりました。
私は主に、ニュースにドキュメンタリー、情報番組などを録画して、夕食後にまとめて飛ばし観をするという使い方。
ゆっくりと番組を観る時間がないので、エッセンスを拾い上げる必要があるからです。

そこで面倒なのは、おそらく誰でもそうでしょうが、番組表から予約録画するという作業。
数日おきに、番組を取捨選択しながら、リモコン片手に指の運動をするのが苦痛で仕方がない。
しかも古い機種なので、操作時の反応が遅く、これが結構ストレスになっていました。

たまたま、指定したチャンネルを24時間丸ごと録画するという便利な録画機の存在を知りました。
これで面倒な予約が不要になり、後から必要な番組だけをピックアップして鑑賞すれば良いのです。
私の場合は、公共放送だけでも丸ごと録画すれば、かなり予約の手間が省けるということに気づいた。
しかし便利な代わりに値段が張るので、いきなりそっちに飛びつくのは、ちょっとした冒険です。
それでメーカーの無料お試しサービスを使って、約3週間、実際に使い心地を確認しました。

http://panasonic.jp/diga/campaign/brx4020/rental/

実際に使用した感想ですが、確かに予約の手間はなくなります。
しかし今度は、録画した番組を探すのが大変でした。
およそ2週間分の番組が常時録画されていて、その中からお目当てを探す手間は、意外にも予約の手間とそれほど変わらない。
操作に習熟すれば、もっと要領の良い方法があるみたいですが、半月以上使って使えなければいくら時間をかけても自分には無理。
これまで長らく使ってた機械だって、その能力の半分も使えなかったのですから。
もっと単純に直感的に操作できたならよかったのですが、多くの機能を望まない私にはかなりハードルの高い機械でした。
値段からすると高級機の位置づけになるのでしょうが、高級だから多機能という古くさい価値観にはついていけません。
割り切って、デザインや使いやすさにコストをかけるという途だってあるのと思うのですが。

それで結局、同じ会社の単純なレコーダーを購入することになりました。
前の機種とは機能的に変わりませんが、基本的な性能は格段に向上してます。
予約の際に動作がもたついた従来モデルと違って、さくさくと動いてほとんどストレスはありません。
くわえてハードディスク容量が大きいので、少しでも気になる番組があれば、残容量を気にせず気軽に予約できるというメリットもありました。

私にとって「無料お試し」ははじめての体験でしたが、未体験の商品を知る上でかなり得るところが多かったです。


おとなのお絵かき

宅配便の品物を包んでいた大きな紙を一枚用意します。紙質に難ありだけど、ここに自分の未来を描きます。 最初に、将来が確定している事柄、たとえば自分や家族の年齢、人口動態などを横軸に記す。ほぼ確かだろうと思える社会問題も。縦軸は自分の体力、収入、資産等のリソースをあらわし、...