2025年7月6日日曜日

「植草甚一日記」

J・J師の本を読んだのは学生時代だった。

ジャズはよく聴いたし、名画座で尖がった映画も観てたから。

いわばサブカルチャーの師匠だったわけである。


時は流れて、積極的に暇つぶしをしなくてはならない年齢になった。

漫然と家に籠っていては呆けてしまうのである。

健康のためにウォーキングは欠かさないが、これは単なる時間稼ぎ。

そのうちネコのようにどこかにいなくなって、家族から捜索願が出るだろう。


じゃあどうすればいいかと思いついたのが、J・J師である。

毎日のように街を散歩して、買い物をしたり喫茶店に立ち寄ったり。

とにかく活発に動き回り、小さな楽しみをかき集めている。

これならば、少しは自分にも出来そうな気がしてきたのだ。


「植草甚一日記」は戦中と戦後の散歩記録である。

強く興味を引いたのは戦後編で、今自分が暮らしている街のちょうど半世紀前の様子が克明に描かれている点だ。

あれから街の様子はすっかり変わってしまったが、師が毎日歩いた小道を改めて辿ってみたいと思った。

そして自分なりの小さな楽しみを拾い集めてみようではないか。

 

2025年7月3日木曜日

広辞苑の「パスタ」

 「舟を編む」という国語辞典を題材にしたテレビドラマを、毎回大笑いしながら観ている。

その中で「辞書は世界の入口」という台詞があって、不意に小学生のころ父愛用の広辞苑を内緒で読んでいたのを思い出した。

百科事典もあって子供にはそちらのほうが楽しい要素が多かったのだが、父が書き物をする際には必ず広辞苑が手許にあったので、何となく大人の世界に憧れていたのかもしれない。


いま家にある広辞苑は父の形見だが、これは亡くなる数年前のもので、それまでに何度も買い替えて残った最後の辞書だった。

僕は広辞苑を実用として使っていないが、時折ページをめくって父の残したサイドラインを見つけて、いったいどういう訳でここにラインを引いたのかと想像している。

つい最近も発見したサイドライン付きの項目、、、、「パスタ」。

80歳を超えると、そんなありふれた日常語も新鮮に思えるのだろうか。


そういえば晩年、普段口数の少ない父が酔っ払って「イタリアに行きたいなあ」と言ってたのを妙に覚えている。

イタリアを旅行して、本場のパスタを食してみたいと。

もしや広辞苑の「パスタ」はその伝言だったのかしら。



2025年6月22日日曜日

住みよい街、大阪


 

「世界で最も住みやすい都市ランキング」というのがあって、大阪の街は上位ランキングの常連なんですね。

万博見学のついでに北浜のホテルに宿泊したのですが、街は静かで清潔、魅力的な飲食店も多く、ここで暮らしてみるのも本当に悪くないと思いました。


僕の記憶にある大阪は、人が多くごみごみとして環境劣悪、活気はあるがとても暮らしに適した街ではないという印象でした。

これは前回の万博当時の記憶ですが、半世紀でまあ随分と変わったものです。

しかも、コペンハーゲンやウィーン、ジュネーブといった世界に名だたる豊かな都市と肩を並べているのだから大したもの。


インバウンドさんたちと並んで洒落たカフェで朝食をとった後、中之島を散策しました。

美術館などと並び広大な敷地に手入れの行き届いたバラ園が広がり、先のヨーロッパの諸都市よりもずっと豊かさを感じさせる風景でした。


いやむしろ、物価を考慮ならずば抜けて住みよい街かもしれません。

最近外国人が積極的にマンションを買っているというのも十分に理解できます。

2025年6月15日日曜日

今年の梅

 


昨今の気候変動で、梅の収穫状況が極めて悪化しているという知らせを受けた。

梅干しは昨年のストックがあるから、探してダメなら今年の梅干し作りは諦めようと思った。

ところが品質や分量はともかく意外に店頭に並んでいるではないか。


ただし、金額はびっくり仰天である。

キロ当たり3000円から4000円。

だからといって、品質がいいとも言い難い。

去年はキロ1000円前後だったから、コメとは全然比較にならない値上がりだ。


ちなみに10年前なら4Lの良品が500円前後だった。

言いたくないが、そのまえは更に半額で入手できた。

梅干しや梅酒を作る人がいないせいか、そんなこと全然話題にもならない。

これがコメだったら、コメ寄こせの暴動が起きたかもしれないが。


あちらこちら探し回って、結局キロ2000円弱の2キロの梅を確保した。

むろん高価だとは感じたが、時期的にこれ以下はありえないと思い即決した。

手に入れただけ幸運だったと思いたいところだ。


2025年6月9日月曜日

喫茶店の彼女

 


若い頃は喫茶店によく行ったものだが、中年以降そのような習慣がなくなった。

禁煙を始めたのがきっかけだったか、喫茶店で寛ぐという心の余裕を無くしたせいか、もしくは毎夜酒を飲むのが習慣化したせいなのかもしれない。

何れかの原因があったにせよ、喫茶店嫌いになったわけでないのは確かである。

ただ、喫茶店で目的なくぼんやりと過ごすのが苦手になっている気はする。


しかし旅行という非日常にあっては、そもそもぼんやりと過ごすのが目的なので、喫茶店に入り時間を潰すことも楽しみとなる。

何もせずに、店内の雰囲気を味わったり、追想に耽ったり。

スマホを弄る習慣のない老人には、それが得難い憩いの時間となる。


毎年のように訪れる京都の喫茶店。

外国人客のいない、常連客だけの静かに寛いだ時間が流れている。

そしていつものように、カウンターの椅子に腰かけて、無為の時間を楽しむ。


あれは50年近く前のことだ。

この店で、円形カウンターの対角線上に座っていたのが、当時売り出し中の美人女優だった。

鮮やかな赤いワンピースを着て、周囲の視線を憚ることなく完璧な自信に満ちた表情で周囲を見渡していた。

僕は、世の中にはこういう人も存在するのだと、妙に感心して彼女に見入っていた。


wikiで調べると、あの時彼女は25,6歳だったのか。

その後とんとん拍子にキャリアを重ねたが、その後ちょっとした私生活上のアクシデントが続き、つい数年前にひとり寂しく亡くなったとある。


凡庸な表現だが、天性の華やかさと自信を兼ね備えた、大輪の花のような女優だった。

僕は、あの時座っていたはずの席に腰かけ、しばし彼女のことを思い出していた。


2025年6月3日火曜日

「逝ってしまった」日本

 子どものころから統計を読むのが好きで、小学生に頃は「学習年鑑」なるものを読んで国の姿などを学んだ。

例えば、当時の日本は世界一の造船大国であり、「捕鯨オリンピック」ではソ連やノルウェーと金メダルを争っていた。

国民の生活もぐんぐんと向上して、道路の舗装率は50パーセントを超えてきた。

家の周囲が砂利道からアスファルトに変わりだしたので、その実感は大きかった。


GNPという指標を知ったのは中学一年の時、ドイツを抜いて遂に世界第2位の経済大国になった年だ。

テレビニュースを見ながら、子ども心に高揚感を感じたものである。

でも1人当たりにすると世界で20番目くらいで、イタリアとかフィンランドとかいう垢ぬけない国程度だということで、微かな残念感もあった。

だが家では毎年のようにステレオにカラーテレビやエアコンを購入して、豊かな暮らしをしているという感覚は確実にあったと思う


そして、1人当たりのGDPが史上最高に達したのが2000年で、遂に世界第2位となった。

しかし世間の空気はバブル崩壊に続く金融機関の破綻、アジア金融危機という不吉な出来事にかき消され、ほとんど話題にもならなかったと記憶している。

誰もが世界第2位の豊かさを実感することはなく、ましてやこれ以上暮らし向きが向上することはないことを、それとなく肌身に感じていた。


統計上の豊かさが転げ落ち始めたのは、その翌年からだった。

それからたった25年でアジア諸国に抜かれ、世界で40位という中進国にまで転落するとは誰も思わなかったのではないか。

歴史的にみれば、それはアルゼンチンにも匹敵する転落ぶりだろう。


7年前に書いたメモがある。

「ゴールは「如何に中国に勝つか」では最早なく「如何に出来ればドイツやイギリス、又はフランス、最悪イタリア・スペイン位の地位を確保するか、ポルトガル、ギリシャ、アルゼンチンとまで逝ってしまわないか」なんだろう。」

数字上のレベルで言うと、その最悪予想のポルトガルと同レベルにまで至っているのが現状である。


もはや「逝ってしまった」日本であることを認識している人はまだ少ないのではないだろうか?

自分自身、実感としてとても信じられないでいる。

2025年6月2日月曜日

平成の米騒動から令和の米騒動へ

日本人の正気を疑ったのは、平成の米騒動の時だった。

ジャポニカ米がなければ、何食わぬ顔でタイ米を食べればいいし、それが嫌なら麺でもパンでも食べときゃいい。

食料がなくなったわけでもないのに、まるで飢饉が起きたような狂態ぶりだった。


当時は普通に米を食べてたが、若かったこともあり、和食よりカレー料理に中華料理や東南アジア料理などを好んで作っていた。

だから大喜びでタイ米を買っていたのだか、あまりの不人気ですぐに店頭から消えてしまった。

それで晩飯にバケットを合わせるようになり、30数年後の今もずっとその習慣は続いている。


そして、今回の米騒動である。


コメの小売価格は令和の騒動の時を超えたという。

えっ!?

1993年から30年以上もたっているのに、どうして今まで値段が上がっていなかったのか。

当たり前の社会なら、30年も経てばどんなモノでも値上がりするのが当たり前だ。

そうでないほうがむしろ異常なのに。


パンデミック以降、あらゆるモノが一斉に値上がりし、農家だって燃料、肥料、農機の値上がりで経営が大変だったはず。

だから、コメの値上がりは農家にとっても福音であり、経済が正常化したと喜ぶべきなのだ。

食料自給率の維持にとっても、これは避けては通れない道筋だ。


にもかかわらず、メディアは米を買う人たちの行列風景を垂れ流す。

そして大衆迎合のコメントを並べ、政府の無策を非難している。

日本人の正気を疑ったと書いたが、今では正気どころか意識を失ったゾンビではないかと思う。



あれからずいぶん歳を取った。

脂っこいものを受け付けなくなり、食事の量も少なくなった。

ご飯は毎日一膳ちょっとと汁物一杯。あとはパン食。

どれだけ米の価格が上昇しようが、そんなことは取るに足らないことである。

行列の老人たちも、並んでまで買う必要なんて微塵もないはずだ。

きっと彼らは時間を持て余して、遊んでいるのだろう。

2024年8月9日金曜日

書き残しておきたいこと

 小松左京のSF小説「日本沈没」を読んだのは、高校の春休みだったろうか。

新聞広告で、これは面白そうだと直感して、書店に平積みになってるのを発見し上下二巻をまとめ買いした。

店主が不思議そうに、「これ面白いのかい?」と聞いてきたものだ。

マニア向けのSF小説がいきなり売れるので理由が知りたかったのだろう。

小説は、この年の空前のベストセラーになった。


ぼくにも理由はわからない。

ただ戦後、空前の経済成長を続けた日本人のこころに、この繁栄が未来永劫続くのだろうかという疑念や不安が広がって、何か悪いことが起きるのではないかというモヤっとした気分が「日本沈没」を読むきっかけになったのかもしれない。


その年の秋、国民の不安感は、「オイルショック」という形で現実化する。

長く続いた高度経済成長は終焉し、主婦たちはパニックになってトイレットペーパーを買いだめに走った。

自分たちには何の関係もないと思っていた遥か遠くの中東の戦争が、平和ぼけの日本人に冷水を掛ける結果になった。


あれから50年が過ぎた。

日本は年老いて縮小する、静かで小さな国になった。

安く楽しめるからと、世界中から観光客が押し寄せてきている。

当時、誰も日本がこんな国になるなんて想像しなかったことだろう。

少なくとも、日本の未来を信じていたぼくにとっては、そうなのである。


昨夜、政府が巨大地震注意警報を発令した。

10年以内には起きると覚悟してたが、事態が切迫すると不思議と現実感がないものだ。


もし南海トラフ地震が起きると、ほぼ間違いなく日本経済の息の根は止まる。

国家は破綻し、あのアルゼンチンのごとく、もはや先進国とは言えない国になる。

通貨は暴落し、物価は舞い上がり、国民生活は困窮を極める。


小説の中で、日本が沈没するという極秘情報を得た主人公が、海外へ転勤するという兄に理由を告げず決断を迫るという場面が描かれていた。

自分は老人だから、いまどこかに移住して新しい生活を始めるという選択肢はない。

せいぜい、病気をすることなく、あまりひもじい思いをせずに一生を終えることができたらと願うばかりである。


ちなみに小松左京は東日本大震災の年に亡くなった。

今もし生きていれば、どう思っただろうか。


2023年8月14日月曜日

日曜の午後に

 


連日の猛暑で体力、気力が少しづつ削られていくような気分だ。

ならば楽をしようとすると、結局家に引き籠って一日を無駄にしてしまう。

せっかくの日曜、これではあまりに勿体ない。


それじゃあと、涼しさを求めていつもの美術館にクルマで出かける。

当初のんびりと常設展を見たのち、付属のレストランで昼飯でもと考えていた。

ところが駐車場に入るのに30分、入館してからも人が多すぎてゆっくりできない。

自分と同じように考えた人が多くやって来たためかもしれない。


なんだか面倒な気分になって、早々と予定を切り上げ、丸の内の地下で弁当を買って家で食べることにした。

ところがそっちはそっちで、観光客も含めて店内は大混雑。

平日ならば、オフィス街特有の落ち着いた雰囲気の、いつも気分よく買い物ができる店なのだが、まるで東名のサービスエリアの店みたいになっている。


買い物が終わって地上に出ると、今度は猛烈な雨が降っている。

駐車場は隣のビルの地下なので、どうしても一度外に出るしかない。

動くに動けず、ビルの軒下で小止みになるのを待つ間、ぼんやりと雨に打たれる外の様子を眺めていた。


クルマを出してからも、危険なくらいフロントグラスに雨が叩き付けられる。

こういうの、ゲリラ豪雨と呼ぶのだっけ。

「驟雨」なんて呼べる雨は、近頃少なくなったような気がする。

容赦なく照りつけるか、さもなければ豪雨。

ぼくたちは荒々しい時代に生きているんだなあ。


2023年4月7日金曜日

節電を始めて12年目の春

 2011年の3月11日。

突然、原発が停止して、街灯が消され、東京の街は暗くなった。

途方もない災害を目の当たりにして、これからどのような暮らしをすべきなのか、まったく分からなかった。


取り敢えず、今できることをするしかない。

まず簡単なことから始めよう。

そんなぐあいに、単純に考えて始めたのが節電だった。


エアコンの暖房運転を止めて、折よく拾ったガスストーブを使うことにした。

白熱灯だらけの照明を、可能な限りLEDに交換した。

古くなった家電は惜しまずに交換することにした。


その甲斐あって、2011年の電気使用量は前年2010年比で1割減少した。

翌2012年は同年比約35パーセント減。

2017年には、ついに節電実施前年から半減してしまった。

1年の総電力消費量は1674kWh、電気料金で年間4万円弱といったところだ。


その後は、自分の健康を重視して真夏、真冬は無理しないと決め、若干高めに推移している。

また2年前に広めの家に転居したため、やや消費電力の効率が低下した。

そのため消費電力もほんの少し増加した。

まあそれは許容範囲だ。



ところがここ最近の電気料金の値上がりで、この12年の努力を吹き飛ばすように、統計を取り始めて以来最大の電気料金を記録した。

昨年度1年間で総計8万円弱、最も少なかった5年前に比べて倍に増えてしまった。

とはいえ統計上、2人暮らしの電気代平均額は昨年が14万弱なので、これでも少しは慰めになる数字だ。


そこで、ご褒美というわけではないが、さらなる節電を達成すべくこの度、冷蔵庫を買い替えた。

古いのはまだ十分に使えたが、インフレの影響を考慮すると今買うのが得策だと考えたのだ。

前回の買い替えは、節電を始めた12年前の初夏だった。

そして今年、最新の冷蔵庫で気持ち新たにして節電を続けるつもりである。


2021年4月11日日曜日

おとなの修学旅行 その1

 ちょっとね、人生の一区切りがついたので、3月の終わりに妻と修学旅行に出かけた。

今年の春はコロナの影響でインバンドがないので、桜咲く古都をのんびりと散策するには今しかないと思ったのだ。

京都に奈良、そして伊勢神宮。ホントにありふれた行き先なんだが、大人になってからはほとんど縁がなかった。

国内なのだから行こうと思えばいつでも行けそうだけど、おそらくこんな機会は最後だし、今行っておかないときっと後悔するという気がしたのである。


それで、いの一番に訪ねたのが、定番中の体場、清水寺。

僕は初めてだったのですが、ずいぶんと旧坂を登るのですねえ。思いのほか息が切れる。


妻は途中、キョロキョロと辺りを見回し、この辺でゼミのみんなと写真を撮ったのだけどな   あ、と当時を懐かしく振り返っている。


あとはお互いよく散歩した岡﨑公園とか鴨川の河原とか、改めて歩き回るとこれが結構しんどい。
当時は市電やバスにも乗らず、よくもまあ何キロも歩いていたものだと、その若さに感心するばかりなり。
今回は定額パスを使って、こまめに乗り継ぎながらの市中散策だ。


当時から寺社仏閣には関心がなく、会えば大抵喫茶店でお喋りばかりだった。

だから今回も町中を歩き、懐かしい喫茶店でやっぱりお喋りで時間を潰す。

向学心のかけらもなく、なんとも不真面目な修学旅行。

その代わり余った体力を使い、先斗町周辺の社会見学は充実させました。

観光客の少ない京都は、やっぱりええもんですねぇ。