2015年9月8日火曜日
ウォーキングのお供に
ウォーキングの際は、たいてい音楽を聴きながら歩きます。
たとえ疲れていても、音楽を聴きながらだとなんとか頑張れるものです。
ただ盛夏の頃は、イヤフォンを入れた耳の中まで汗をかくので気持ち悪くて聴きませんが。
週末は9月に入って雨も降らず、久々音楽を聴きながらのウォーキングでした。
選曲は、早めの歩行ピッチに合うような軽快なものばかり。
私の好みは、なんといっても軽やかな女性ボーカル。
声が素直で伸びが良く、しかもチャーミングに発声する人が良い。
曲は何だって構いません。
そんなこんなで、お気に入りのウォーキングのお供は、ステイシー・ケント嬢。
「嬢」って付けたけど、デビューしてから早20年ちかく。
もうすっかりベテランですが、声を聴いているとやっぱりケント嬢と呼びたくなります。
2012年8月7日火曜日
ステファン・グラッペリの曲
新しいスピーカーを音馴らしついでに、PCの音声ファイルやCDの整理をしています。タイトルで一番多いのはジャズとクラシックですね。ロックはあまりないです。民族音楽や現代音楽やらの分類が難しいタイトルも多いのですが、どれも分け隔てなく適当に聴いています。特に誰かのファンという感じでもなく、あくまでも自然体で楽しむのが流儀です。
アート全体についても思うことですが、音楽は人生を豊かにするツールに過ぎないのじゃないでしょうか。それぞれの人が持つ理想や世界観を深めたり、支えたりする道具。ですから、特定のアーティストを信奉したり、その作品を絶対視するというのは本末転倒だと感じるわけです。そもそも道具というのは、目的にかなった使い方をすることで、はじめて価値を持つわけですから。
冬に帰省したときに、母がマイルス・デイビスを聴きながら家事をしているのに驚きました。どういう経路で知ったのかは知りませんが、毎日のように台所で「カインド・オブ・ブルー」なんかを聴いているそうです。音楽なんてラジオで片手間にしか聴かない人ですから、ジャズのこともまるで知りません。そういう母が、マイルス・デイビスで夕餉の支度をするなんて、なかなかやるもんです。
今度帰省する折には、母のためにちょっと毛色の違う音楽を手土産にしようかと考えてます。自然と鼻歌が出るような楽しい曲で、優雅で洒落ていて、しかも上質な演奏のもの。ジャズ・バイオリンの巨匠、ステファン・グラッペリなんかどうでしょうね。どちらかというと古風な演奏スタイルですが、若い頃から大好きなアーチストなんです。蒸し暑い晩にぴったりの、涼しい夜風が吹くような曲を聴きました。
2012年2月25日土曜日
素晴らしい・・・
ついこの間まで、ニュースといえば大雪の光景だったのが、何のかんのと言いながらちょっとずつ春の気配が増している。夜道を歩いていても、肌を刺すような冷たさが消えて、どこかしら空気が丸く、甘くなってきたのを感じる。季節の変わり目というのは、いつだって悪くないね。
変化があるというのは、良い方向だろうと悪い方向だろうと、、、、もちろん良い方がいいに決まっているが、それは幾つになってもワクワクするものだ。だから風呂に入っていても、特に良いことがなくったって無意識に鼻歌を歌っていたりする。季節柄、この時期だと、やっぱり春を題材にした曲が多くなる。まあ湯船の鼻歌なので、フンフンと調子よく歌える曲、わたしの場合ファドの名曲「ポルトガルの四月」なんかが定番なのである。
それで最近のファドはどんな風に歌われているのだろうかと、YouTubeで調べていたら、久々に素晴らしいファドの歌い手を観ることができた。酔っぱらっていたせいもあったのだけど、聴きながら年甲斐もなくホロリとしてしまった。まったく歌の世界は広い。もうぞっこんなのである。
2010年8月11日水曜日
アイリーン・クラールのCD

残念なことに、この人の歌には華やかさがない。多くの観客を熱狂させるカリスマ性もない。若くもなく、そしてたぶん、すれ違う人の視線を奪う美貌にも乏しい。しかし、歌の華やかさや、歌手のカリスマ性とか、移ろいやすい容貌にさほど関心がない人たちにとって、彼女の歌には、それ以上に大切なことすべてが含まれていると感じることだろう。
華やかさの代わりに、一つ一つの言葉を巧みに歌い分ける知性とテクニックがあり、その歌はモノクロの美しい短編映画を見ているようだ。大衆受けしないのは、むしろこの歌手への勲章となるだろう。いつの時代でも、声の大きな騒がしい人たちが主役なのだから。地味で、幾分痩せて聞こえる声だが、そこには人生経験がもたらす成熟がある。さらりとした触感でありなりがら、偽りを嫌う誠実さとしなやかさを感じさせる歌声だ。
静まりかえった深夜に、アイリーン・クラールのCDを掛ける。部屋の薄暗い空間に、ふわりと鮮やかな歌声が立ち上がる。その言葉の美しさ、巧みさといったら、一度聞けば忘れられないはずだ。ちょっとばかり表現に難渋するが、癒されるとか励まされるとかではなく、歌に込められた魂にただ寄り添う幸せ、そういう密やかな感動で満たされる。そして選曲も凡庸でなく、そのどれもが素晴らしい出来だ。大袈裟で、けばけばしい歌に食傷気味の人たちに、特におすすめしたい歌手なのである。
2010年3月15日月曜日
春の歌
春先の陽気に誘われて、自転車で隣町まで買い物に行く。クルマが滅多に通らない、住宅街の狭い街路をゆっくりとペダルを漕いで走る。垣根の日溜まりでは老いた猫が昼寝をし、その傍を子どもたちが駆け抜けていく。空に向かって咲くモクレンの花が神々しく輝いて、真っ青な空に浮かんでいるかのように見える。季節の巡る度に繰り返される命の営みの、なんと神秘的なことか。
隣町には小さな釦屋があり、そこで着古したカーディガンの釦を探した。だが、あまりにも種類が多く、混乱して暫く呆然としていると、静かな店内にジャズボーカルのBGMが低く流れているのに気がついた。ミリー・ヴァーノンの歌う"Spring is here"である。中年男にはもはや縁もゆかりもない清純な歌だけど、無防備に空いた心の隙間を優しく満たすような旋律だ。ぼんやりとその曲を聞きながら、釦屋のショーウィンドウ越しに、人々が軒先を行き交う光景を、どこか幻を見るような気分で眺めていた。
春を題材にした曲というと、わたしは"April in Paris"を真っ先に思い出す。春を迎える高揚感と、憂いや戸惑いの混じる複雑な感情が洒落たメロディで表現されている大人の曲だ。とりわけ、セロニアス・モンクのピアノで演奏されるそれが素晴らしい。静かで、孤独で、しかし飛び切り豪華な春である。それは、花びらが舞い散る夜桜に、一人酔いしれるという喩えでどうだろうか。歌が付いたものとなると、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングがデュエットしている"April in Paris"が素敵だ。もちろんエラは十分に申し分ないが、それ以上にサッチモの歌が冴えている。低く唸り、ため息を絞り出すような彼の歌声は、幾つになっても心を捕らえて放さない。
隣町での買い物をしたその日の夜、テレビでリスボンの酒場の様子を観る。彼の地では夜になると老いも若きも、ファドを聴きに酒場にやってくる。狭い店内一杯に客が詰めかけ、開け放たれた扉の外まで立ち見が出ていた。いつかはきっとと思いながら、未だに実現しない憧れのリスボン行き。私の一番好きな春の歌は、「ポルトガルの四月」、そしてもちろん、ファドの女王、アマリア・ロドリゲスで楽しみたい。
隣町には小さな釦屋があり、そこで着古したカーディガンの釦を探した。だが、あまりにも種類が多く、混乱して暫く呆然としていると、静かな店内にジャズボーカルのBGMが低く流れているのに気がついた。ミリー・ヴァーノンの歌う"Spring is here"である。中年男にはもはや縁もゆかりもない清純な歌だけど、無防備に空いた心の隙間を優しく満たすような旋律だ。ぼんやりとその曲を聞きながら、釦屋のショーウィンドウ越しに、人々が軒先を行き交う光景を、どこか幻を見るような気分で眺めていた。
春を題材にした曲というと、わたしは"April in Paris"を真っ先に思い出す。春を迎える高揚感と、憂いや戸惑いの混じる複雑な感情が洒落たメロディで表現されている大人の曲だ。とりわけ、セロニアス・モンクのピアノで演奏されるそれが素晴らしい。静かで、孤独で、しかし飛び切り豪華な春である。それは、花びらが舞い散る夜桜に、一人酔いしれるという喩えでどうだろうか。歌が付いたものとなると、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングがデュエットしている"April in Paris"が素敵だ。もちろんエラは十分に申し分ないが、それ以上にサッチモの歌が冴えている。低く唸り、ため息を絞り出すような彼の歌声は、幾つになっても心を捕らえて放さない。
隣町での買い物をしたその日の夜、テレビでリスボンの酒場の様子を観る。彼の地では夜になると老いも若きも、ファドを聴きに酒場にやってくる。狭い店内一杯に客が詰めかけ、開け放たれた扉の外まで立ち見が出ていた。いつかはきっとと思いながら、未だに実現しない憧れのリスボン行き。私の一番好きな春の歌は、「ポルトガルの四月」、そしてもちろん、ファドの女王、アマリア・ロドリゲスで楽しみたい。
2009年8月18日火曜日
今夜の一枚
夕暮れが早くなった。いつもより短かった今年の夏も、もう終わりである。仕事して、ビールを飲んで、ほろ酔いで音楽を聴き読書をし、最後にシャワーを浴びて寝る毎日。ほかの季節との違いはビールの量くらいだろう。
季節によって聴く音楽にもくせが出る。この季節は蒸し暑いから、適度な緊張感を必要とされるジャンル、クラシック音楽とか現代音楽は聴く気がしない。やっぱりジャズかなあ、酔って、適度にうたた寝しながら聴いて楽しいのは。別に無我の境地で聴いているのではなく、いろんなコトを思い出しながら、たとえば夏のオールナイトコンサートの様子や、「大文字の送り火」を缶ビール片手に見上げていたことや、真夏に見た映画のことや、そんなとりとめもない記憶の切れ端をパッチワークしているのだ。
今夜聴いているのは、ビル・エヴァンスの「アフィニティ」である。新譜の輸入盤が出たとき、ジャケのデザインは最悪だったが、トゥーツ・シールマンスが入っていたので、迷わず買った記憶がある。最初の頃は手持ちのアルバムが少なくて、飽きもせず繰り返しよく聴いたものだが、そのうちに夏専用になってしまった。このアルバムを色で表すと、限りなく黒に近い紫、もしくは深く沈み込む群青かもしれない。甘くロマンチックなシールマンスのハーモニカとアイロニーを含んだエヴァンスのピアノとの優雅な絡み合いが、たとえようのない魅力を醸し出している。きわめて辛口でありながら、しかも芳香豊かな、晩夏にこそ似合うジャズの名盤だと思うのだ。
季節によって聴く音楽にもくせが出る。この季節は蒸し暑いから、適度な緊張感を必要とされるジャンル、クラシック音楽とか現代音楽は聴く気がしない。やっぱりジャズかなあ、酔って、適度にうたた寝しながら聴いて楽しいのは。別に無我の境地で聴いているのではなく、いろんなコトを思い出しながら、たとえば夏のオールナイトコンサートの様子や、「大文字の送り火」を缶ビール片手に見上げていたことや、真夏に見た映画のことや、そんなとりとめもない記憶の切れ端をパッチワークしているのだ。
今夜聴いているのは、ビル・エヴァンスの「アフィニティ」である。新譜の輸入盤が出たとき、ジャケのデザインは最悪だったが、トゥーツ・シールマンスが入っていたので、迷わず買った記憶がある。最初の頃は手持ちのアルバムが少なくて、飽きもせず繰り返しよく聴いたものだが、そのうちに夏専用になってしまった。このアルバムを色で表すと、限りなく黒に近い紫、もしくは深く沈み込む群青かもしれない。甘くロマンチックなシールマンスのハーモニカとアイロニーを含んだエヴァンスのピアノとの優雅な絡み合いが、たとえようのない魅力を醸し出している。きわめて辛口でありながら、しかも芳香豊かな、晩夏にこそ似合うジャズの名盤だと思うのだ。
2009年4月5日日曜日
大貫妙子の歌
オッサンは、電車の中ではイヤホンして目を瞑っている。何を聴いているのかと興味を持たれることもなく、車内の吊革ほどの関心さえ払われない。だから、気分はとても自由。できることなら缶ビールを片手に、このまま終点のずっと向こうまで揺られていきたいと、ときどき思う。
このごろ、突如として大貫妙子のうたを聴き始めている。若い時のはちょっとつまらなく感じていたけど、年輪が加わってからのがいい。表現が多彩で、それぞれが深く咀嚼され、加えてどこか冷めて余裕のある様が、オッサンの年頃とちょうどいい距離にある。決して夢中にはならないが、だからといって知らん顔するわけでもない、まあそれが大人の付き合いだよと言える程度のものだ。
いま、携帯プレーヤーに入れているのが「ensemble」というアルバム。たとえば神社の長い階段を登り、最上段に到達してから後ろを振り返ると、その下に広がる黒い瓦屋根が濡れたように光り、吹き抜ける風がなんともいえず清々しい。そんな誰もが体験する、小さな感動をふいに思い出させる、そういった種類の音楽である。
なかでも、Rendez-vous なんか聞いていると、小高い丘がどこまでも広がっているスペインの平原を、特急列車で突き抜けていくような、穏やかで満たされた気分になってくる。いつか行かなくちゃと思いつつ、どうしても時間が取れなくて、仕切りにため息の増えるこのごろである。いわばオッサンの煩悩というやつだ。
このごろ、突如として大貫妙子のうたを聴き始めている。若い時のはちょっとつまらなく感じていたけど、年輪が加わってからのがいい。表現が多彩で、それぞれが深く咀嚼され、加えてどこか冷めて余裕のある様が、オッサンの年頃とちょうどいい距離にある。決して夢中にはならないが、だからといって知らん顔するわけでもない、まあそれが大人の付き合いだよと言える程度のものだ。
いま、携帯プレーヤーに入れているのが「ensemble」というアルバム。たとえば神社の長い階段を登り、最上段に到達してから後ろを振り返ると、その下に広がる黒い瓦屋根が濡れたように光り、吹き抜ける風がなんともいえず清々しい。そんな誰もが体験する、小さな感動をふいに思い出させる、そういった種類の音楽である。
なかでも、Rendez-vous なんか聞いていると、小高い丘がどこまでも広がっているスペインの平原を、特急列車で突き抜けていくような、穏やかで満たされた気分になってくる。いつか行かなくちゃと思いつつ、どうしても時間が取れなくて、仕切りにため息の増えるこのごろである。いわばオッサンの煩悩というやつだ。
2008年10月17日金曜日
ステイシー・ケント
最近お気に入りの歌手、ステイシー・ケント。声に独特の癖があるが、のびのびとして、肩の力が抜けた洒落た歌い回しをする。ジャズクラブの湿った空気の中で聴くというより、さわやかな高原で風に吹かれて楽しむ野外コンサートが似合いそうな歌手だ。
休日に料理をしながらとか、部屋の片づけをしがらとかしつつ、頭を空っぽにしてふんふんと鼻歌で応えながら聴くのがわたしの楽しみ方。心のマッサージを受けたみたいに、気持ちが軽くなるのが嬉しい。最新アルバムも悪くはないが、それ以前のジャズのスタンダード集の方が好みである。
2007年8月14日火曜日
ニューポートで避暑
めげてしまうくらい暑い日が続くので、今夜はニューポートに避暑に行ってきます。ちょうど今ジャズの野外コンサートが開かれていて、アニタ姐さんのチャーミングで切れ味のいい歌声が聴けるのです。またセロニアス・モンクの生演奏も聞き逃せません。それから夜の部のダイナ姐さんのソウルフルなステージも楽しみです。
ステージばかりでなく、周囲の風景やコンサートに来ている女性たちの、華やかで寛いだ雰囲気もとても素敵ですよ。やっぱり遊ぶ時は、ファッションにも気を遣って、きっちりと楽しまなくては面白くないですし。よろしければご一緒に。あっ、帽子とサングラス、缶ビールをお忘れなく。
・「真夏の夜のジャズ」----- これがあればYouTubeのお世話にならないで済むんですが。
2007年8月4日土曜日
「イントロデューシング」
封建趣味的なことを言うと、わたしは「分際」という言葉が好きだ。子供は子供らしく、大人は大人らしくすべきであり、大人の世界に子供を引き入れたり、逆に子供の世界に大人が首を突っ込むということが嫌いである。とりわけ子供の趣味に大人が迎合することなど、大人社会に対する裏切りとすら感じる。何でもかんでも柔らかくなって、砂糖甘くなった近頃の料理と同じで、映画やドラマなども単調で歯ごたえのないものが多くなったの感じる。
翻って昭和の最後の10年間は日本のテレビドラマの歴史の中で、もっとも豊かな時代ではなかっただろうか。昭和の文化が爛熟し、大俳優や名女優が最後の光を放った時期である。そして忘れられないのが、向田邦子の「阿修羅のごとく」だ。登場人物のキャラクターが深々と彫り込まれ、様々な色合いを持つエゴがぶつかり合う大人の世界を描く味わい深いドラマだった。そしてわたしにとって、それが向田作品に親しむきっかけに、更に昭和30年代の日本映画にのめり込む契機になったのである。
このミリー・ヴァーノンのCDは、向田邦子の幻の愛聴盤だったことで知られ、向田ファンとしていつか聴いてみたいと思いながら、長年その機会もなくすっかり諦めていたものだ。ところが最近になって、先日のジャッキー&ロイのアルバムとともに再発売となり、それを知ったファンたちが買いに走ってちょっとした話題になったのである。わたしがそれに気づいたときにはすでに在庫も後わずか。慌ててAmazonから貴重な残りを取り寄せたのは言うまでもない。そしてミリー・ヴァーノンを聴き終わり、なぜかやり残した宿題を、やっと終えたような気になったのである。
さて、このミリー・ヴァーノン、歌唱力はまあ及第点という程度だが、向田邦子の愛聴盤というだけに、確かに魅力あるボーカルだ。それは何かというと、大人の愛嬌なのである。決して大作とは言えないが、ミリー・ヴァーノンの普段着をまとったような精神の軽やかさが心地よく感じられるアルバムだ。向田邦子は水ようかんを楽しむ際の音楽と言ったが、蕎麦でも白玉ぜんざいにでもよく合う音楽。押し付けがましくなく、さっぱりとした緑茶のようなボーカルとでも言えようか。
向田邦子が不慮の死を遂げて、はや26年目の夏である。
2007年7月11日水曜日
ジャッキー&ロイ

Amazonから注文していたCDが届いて以来、このところそればかり聴いている。半世紀にわたり、夫婦でジャズを歌い続けたジャッキー&ロイ初期の作品である。それなりにジャズボーカルを聴いてきたなかで、これはわたしにとってベスト10には入れたいほど愛着のあるCDなのだ。
もちろん歌唱力は文句のつけようがなく、むしろそれ以上に、二人のコーラスからにじみ出る温かい情感に魅了される。夫唱婦随というと嫌われるだろうが、ロイの誠実なリードやジャッキーの深い信頼が、聴き手にえもいえない安心感と幸福感を与える。そしてなんといっても、ジャズボーカルの楽しさを満喫させる、小粋で洗練されたコラースの完成度はちょっと類を見ないほどである。さらにもうひとつ、ジャケットのデザインも見逃せない。中身に負けないほど、垢抜けていて、そして少し尖った感じがかっこいい。
以前、同じものをLPレコードでも持っていたのだけれど、レコードをまとめて処分して以来、不用意に二束三文で売り払ってしまったことをずっと後悔していた。それが偶然、再発売されていることを知り、本当に久しぶりに愛聴盤との再会を果たすことが出来たのである。蒸し蒸しとした不快な天候が続く毎日だが、そんな時こそ楽しい音楽を聴いて心の除湿といきたいものだ。
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