2018年8月12日日曜日

これから我が身に降りかかる、ほぼ確実にやってくる不都合な事態について

まずは、労働人口の加速的減少と高齢者人口の増大(2025年問題)。かねてから想定されたことなのに、社会にはそれに相応しい危機感の共有がない状況です。
つぎに現在進行中の気候変動、地震、とくに東南海地震はその物理的周期性から逃れることはできないのでかなり切羽詰まる深刻な事態。
最終的には日本の国力喪失で、地政学上の均衡が不安定となって安全保障が揺らぐ。ただし多国間の複雑な力関係なのでいかなる事態になるかは予測困難だし、そのころはすでに生きてはいない可能性大なので、個人的には気にしないでいいのかも。

以上予想しうる2つもしくは3つの不都合な事態に対して、せめて20年若ければ、選択肢として海外に新天地を求めることも可能性としてはあったのだけど、いまや夫婦ともどもに体力、知力の衰えすでに微かな兆候あり。自らの老齢化とともに、激変の大波を被ることを覚悟しつつ、とりあえず個人がなし得る対策はないかとない知恵を絞っている次第。
もちろん権力者や超富裕層と異なり、平凡な市井の人にできることは限られる。
実現すべき目標はささやか・・・。これからも変わらず、病気になったら適切な治療を受け、腹が空いたら食事が摂れて、空調の効いた部屋の快適なベッドで眠れることくらい。そのハードルは、意外に高いのかもしれません。

では、なにを、どうすればいい?
自分でできることから少しずつ考える。

まずは家族全員の健康を維持増進し、日常の生活能力を高めておくこと。つまり低コストで長期間(90年以上)健康に暮らせる環境を整える。
なぜなら少子高齢化はあらゆる場面で継続的なコストアップ要因になるので、個人の対応としては限りなく低コストの暮らしを追求せざるを得ない。
また、たとえお金はあっても必要なサービスが提供されないという不都合な事態が想定できるからです。
つまり人手不足で医者がいないとか、地域で商店がなくなり毎日の買い物ができないという状況が、現に人口過疎地で起きている問題が、将来は都市部でも普通になるということ。最近では人手不足で路線バスの運行本数が縮小している、バス賃が上昇しているという報道がありました。たかが引っ越しだって、人手不足で自由にできないという時代です。
とすれば暮らしに必要な多種多様のあらゆる技能を、誰もが身につける必要がある。生活全般のことを、当たり前に何でも自分でする、つまり「一億総セルフサービスの時代」が確実に到来します。

福祉社会というのは、困ったときには誰かに助けてもらえることの引き替えに、その膨大なコストを負担するために、逆に個人ができることは何でもしなくてはならない社会だ。それが証拠に、福祉国家といわれる国の人たちは家庭科教育をしっかりと受け、性別年齢を問わず家事全般何でもこなすというのが通例です。皮肉なことに、我が国も社会が切羽詰まって、ようやく他の先進国並みの福祉社会に到達するということなのです。

さらなる不都合。それは核家族化と長寿化に伴い、誰もが認知症や寝たきりになって介護を必要としているのに、誰もが家族の介護を単独で担うべき事態が到来しているのです。
すでに親子、夫婦間の老老介護は常態化して、さらには要介護者同士の介護すらあるといいます。
今でさえ介護家族の負担は大変なのに、要介護者が激増し、介護の人手不足が深刻化すると、ぼくらの社会はどうなるのだろう。
これからあと数年後の2025年、団塊の世代が全員後期高齢者入りして医療施設や介護施設を満杯にし、もはやその下の世代の施設介護は望めなくなることを想定すべきだ。
なにしろ後期高齢者の数が前期高齢者の倍にふくれあがり、そのような危機的状況が長期にわたり継続するといいます。特に三大都市圏では、人口比率からいって、その後の世代が同じ医療、介護サービスを受けられる余地がないのですから。

われわれがなすべきは、できるならば家族が認知症にならないよう健康管理に最大限気をつけ、今のうちから自宅介護に備えて人数分の資金を十分に蓄える、また互いに何でもできるように知識、技能を身につけておくことが最低限の準備です。

退職後は年金暮らしの気ままな隠居生活という昭和世代のあたりまえは、平成の時代が終わるとともになくなってしまった。つくづく亡くなった親父を羨ましく感じます。私たちは、二極化した分断社会の中、大部分の人が体が動くうちは、生活のための労働をしなくてはならないという新しい時代を迎えるのでしょうね。

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