2007年11月19日月曜日

「名画を見る眼」

ブログを続けていていつも思うことは、自分の感動を上手に伝えることの難しさだ。ロジックの組み立てはさほど苦にならないが、それは全然自分の伝えたい部分ではない。誰かに伝え、そして共有したいのは、通常ならば言葉以外の手段で表現したい、柔らかでとらえどころのない感情の部分なのだ。

とりわけ難渋するのがアート系のものを紹介したいとき。これは大好きなんだけど、どうすればこの「大好き」をうまく伝えることができるだろうか。ありきたりな表現は本意でなく、かといって適切な表現をするには力が足りない。いろいろと考えているうちに、最後には面倒臭くなって投げ出してしまうことがたびたびなのである。

そこで考えたのは、表現のプロに学ぶことだった。できるならば表現に普遍的であり客観的なスタンスが求められる評論家の文章を読んでみようと思った。そして本棚の奥から引きずり出したのは、高階秀爾の名著、「名画を見る眼』である。前回読んだ際は大雑把に美術史を概観する目的だったので、表現の細かな部分には注意を払ってはいなかったが、改めて読み返すと、高階の文学的素養の深さに瞠目するのだ。以下は、フェルメールの「画家のアトリエ」の章に現れた、読者の心に切り込む渾身の数行・・・。

「そして、その光の効果の表現において、フェルメールほど調和のとれた魅力を湛えている画家は、おそらくほかにない。・・・ザルツブルグの塩坑のなかで、水に投げこまれた枯枝にきらきら輝く塩の結晶が一面に付着するように、この室内に溢れる北国の光は、金色の結晶となってシャンデリアに取り付いているのである。」

フェルメールは、わたしの「大好き」のひとつだが、これを言おうとするとカタチの定まらない感情で、ぐっと言葉が出て来なくなる。しかし、短くも切れ味のいい、この高階の文章で、わたしは何か胸のつかえが降りるような開放感を味わった。「名画を見る眼」が名著と言われる所以は、まさにこの開放感にあると思うのだ。

今日の写真は、夕方の散歩で目にした、どこか懐かしい空の風景。伝えたいのだけど、それがどのような感情なのかは言葉にならない。なので写真で適当に誤摩化す。

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