「なぜデザインなのか。」

デザインとはおよそ無縁のわたしにとって、一体デザインとは何ぞやということが気になって仕方ない。最近特に目にすることが多くなった、「デザイン家電」や「デザインホテル」という言葉の居心地の悪さ。「デザイナーズマンション」にいたっては、一体全体何が言いたいのか理解不能なのだ。「デザイン」の代わりに「色もの」という言葉を当てても、十分に成立するじゃないか。「おィ、誰か出てきて、俺の目を見て説明してみろ」という気分だ。そんなわけで、ことしもデザイン関係の本をかなり読んだ。

その中の一冊、「なぜデザインなのか。」は二人のデザイナーが、異文化の問題、資本主義と社会構造の変遷の問題、そして自身の暮らし方の話まで、デザインという眼鏡で「現在」を読み解くディアローグである。ここで非常に印象的だったのは、対話者の会話がきわめて分析的であり、言葉の輪郭が明確に機能しているということである。それはつまり、デザイナーという仕事の本質は、現実を言葉を用いて分析し、それを更に第三者と共有することで成立するものだということを暗示している。逆に言うと、寡黙を好しとして、理屈っぽさを嫌う風土からは、優れたデザイナーは生まれにくいのではないかという疑問も生じるのである。

さて、この本のタイトルは「なぜデザインなのか」であり、「デザインとは何か」ではない。そこのところがミソなのだ。つまり、デザインについて対話者に共通の理解があり、それを前提に話が進むわけで、ダイレクトに「何か」を知りたい向きには隔靴掻痒の思いであろう。しかし「なぜ」という問いの立て方は、固定されたデザイン概念を前提としてるのではなく、むしろ社会のニーズによってデザインは流動的だという理解を前提にしているのかもしれない。とすれば、この本は、「何か」を棚上げにして、デザインのかかわるフィールドで生じるあれやこれやを、楽しい雑談として楽しむのが正解なんだろうと思う。残念なのは、書籍という制約のためか、それぞれのエピソードが入り口で終わり、それからの展開がないのが少し物足りない。この手の話は、むしろ飛躍したり脱線した部分にこそ、美味しいものがあるのだが。

特に記憶に残ったのは、原研哉の家庭の話。あれほどの仕事をする人の家の中はさぞやと思いきや、電話やノブなど、あちらこちらに布カバーが掛かっていると愚痴る。決して本書のテーマでないが、人生侭ならないものである。

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「デザインとは、有限な資源を適切に配分するプランそのものだ」と数年前のブログに書いた。資源の有限性がこれまでになく意識され、また同時に富の偏在が顕著になってきた現在、この意味でのデザインはますます重要になっていると思う。そして、資源の適正配分という面でデザインをとらえるとき、生活者自身も「デザイナー」としての役割を持つと言える。人が情報や資産を適切に活用して、人生という限られた時間で、できる限りの豊かさを追求すること。つまり、日々の暮らしそのものがデザイン活動なのだ、と言えなくもないが、どうであろうか。

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