2008年1月2日水曜日

古い写真


誰の本だったのか忘れたが、人が見たい写真というのは、特別な記念写真のようなものでなく、そのとき自分が暮らしていた様子を写した写真だ、と書いていた。わたしも、このごろ本当に、そう感じることが多くなった。たとえば、たまに深夜に放送しているドキュメンタリーのアーカイブスを観てたりすると、それが撮影されている瞬間、自分はどこで何をしていたのだろうと、回想モードに入ってしまうことがしばしばなのだ。

ストックしている写真を調べると、やはり当然というべきか、普段の暮らしぶりを撮った写真はほとんど見当たらない。しかし時折、フィルムを装填する際に何枚かシャッターを切っていて、そこに偶然暮らしの様子をとどめた写真が残っていたりする。これが、意外に面白のだ。何時のか分からない机の写真があり、そこに写っている積み上がった本や、失った文房具などを眺めてると、普段は底に沈んで上がって来ない過去の記憶が、その小物たちの映像がきっかけとなって、ふっと蘇ったりする。

冒頭の写真も、特別の意図なく、おそらく新しいカメラの写りをみるために、試し撮りした中の一枚である。所帯を持って数年後、高台の見晴らしの良いマンションに暮らしていた頃の、夕食のあと片付けを終えて就寝するまでの暫しの時間だ。8畳分の広さしかないダイニングキッチンには、とうの昔に廃棄した家電があり、割れてしまったコーヒーカップがあり、いまでは作業台になっているテーブルがあった。そして写真の端には、当時は珍しかった種類の花が、ちょっと萎れ加減に写っている。たったこれだけのことだが、ひとつひとつに記憶のタグが付けられていて、その当時の暮らしに関わる、細々としたことを思い出すのである。

モノと暮らしの関わりは、わたし達が想像する以上に、濃密なものかもしれない。そして人生の実体が、日々の暮らしの記憶の集積にあるとすれば、その豊かさは、人とモノとの付き合い方にも左右されるのではないかと考えるのだ。

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