2008年5月24日土曜日

新聞を読む人

業界団体の調査では、新聞購読者の割合は調査回答者の92パーセントに及んだという。数字には嘘がないと信じたいが、だから新聞は依然として有力なメディアであるとの解釈はいかがなものであろうか。こういった調査につき合う人たちは、時間のゆとりとマスメディアに対する敬意を失っていない高齢者くらいだろうから、そうした結果は集計しなくても容易に想像がつく。

わたし自身の感覚では、むしろ新聞の購読者割合は明らかに減少している。ほんの一時期だけ新聞配達した経験があるが、その当時は配達地域に限っては、ほぼ全世帯が購読していたと記憶している。しかし昨今、新聞回収日に出される新聞の量が半減していることからみて、その割合はとても9割には届かないという印象をもつ。またそれは、新聞広告の質や量の劣化からも見て取れる。変化に敏感な企業は、商業新聞という媒体に、すでに見切りを付けている。もちろん個人が目にする範囲での、いい加減な印象だが、すくなくとも落ち目のテレビ放送業界と変わらない状況だと言えるのではないか。

新聞が購読されなくなってきている理由は多々あろう。わたしには、不特定かつ均一的な多数者を相手にする新聞という商品が、すでに時代遅れになっているのが原因だと思える。社会の変化の激しい時代では、価値観や意見が細分化して、「多数」という市場がなくなっていく。それに伴い、多数を取り纏めるというマスメディアの機能も不要となった。その帰結が今の新聞の姿である。厳しい時代を生き延びなくてはならないわれわれに必要なのは、権威を帯びた特定の意見ではなく、新鮮で多様、雑多な情報である。そして、これらをどのように判断をするかは、わたしたち自身でなすべきことが要請されている。間違っても、それは新聞の役割ではないのだ。

こう言いながらも、わたしは学生の頃からずっと、新聞購読を続けている。新聞を読み始めたのは小学校からであり、新聞に対する愛着も人並みにある。しかし今では読むのは見出しと広告くらいで、記事まで読むことはなくなった。寂れて空洞化する地方の駅前商店街、わたしにはそれが今の新聞のイメージと重なってしまうのだ。自身の商品イメージとのズレを直視しないと、新聞事業は早晩行き詰まるのではないかと他人事ながら心配なのである。

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