似非ベジタリアンの主張


普段は野菜中心の食事だけど、出されたものは節操なく何でも食べるので、ベジタリアンとは到底言えない。つまり似非ベジタリアンだ。むしろ自分と一番趣味が合わないのは、当のベジタリアンの人たちでないだろうか。環境保護のためだとか、体をきれいにするだとか、動物がかわいそうだとか、そんなに理屈が必要なくらいなら、いっそ菜食を止めた方が体にいいのじゃないとすら思うのだから。

現在の食生活に切り替わってから20年近くなる。きっかけは肉料理を一切摂らないとどうなるだろうかという好奇心で、1週間ほど試したことに始まる。そしてそのあとで肉を食すると、肉の味の旨いことといったらなかった。と同時に、その味にどこか堕落させる甘さがあることに初めて気づいた。酒やタバコと同じで、摂り過ぎは何か良くないのではという直感が働いた。それ以降、徐々に肉の摂取量を抑えていって、いつの間にか肉食の習慣がなくなっていた。つまりわたしの場合、主義や主張に基づく菜食でないので、目の前に肉料理があればご馳走として、有難く食することには変わりはない。そして今でも、ジビエ料理や内臓料理といった、とりわけ動物の濃厚な味のする料理を好む点で、ベジタリアンにはほど遠いのである。

おそらくは、菜食をする意義とは、なんらかの思い込みから自由になるという点にある。もしくは、無意識にやっている習慣を見直して、主体的に選択をする楽しさを知るという点にある。それはたとえば、酒やタバコを止める、テレビを捨てる、過剰消費を止めるということで、別の知らなかった幸福を味わうのと同じなのである。さらには、そういう主体的な選択を積み重ねることで、「自律」の大切さを知ることが重要なのだ。極論すれば、自分の判断で選択したなら、肉を食べようが食べまいが、どっちでもいいことである。

隣の国では子供まで動員した牛肉デモが起きて騒動となっているらしい。だがそのデモのメッセージは、「われわれはどうしても牛肉を食べたい」という、相手からすれば思うつぼの内容となっている。自分から弱みを見せるのは、交渉事としては絶対避けるべきなのに。消費者として効果的な圧力の掛け方は、何ら意思表示をすることなく、単純に牛肉を食べることを止めればいいのだ。そして放っておけば、いずれはあちらから折れてくるだろうし、もしそうでなくても、牛肉を食べるという習慣を自分の意志で止めたことになり、それはそれで評価できる結果だと思う。牛肉を食べたいという一心で、道の真ん中で駄々をこねている子供、彼の国のデモはそのようにしか映らない。

写真は機内食のベジタリアンコース。限られた予算の中で、工夫された料理を楽しむことが出来る。そして半日もシートに縛り付けられる状態での食事は、菜食が一番適しているのではないかと思う。持病があったり、菜食に関心のある人には、悪くない選択であろう。

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