2008年8月17日日曜日

建築のことなど

わたしたちは、もちろん自分自身も含めて、欲がないというか、欲望を育てる粘りがないというか、じつに欲に淡白な民族だと感じる。たとえば、何かを欲しいと思う。しかし、それはたいてい他の人が持っているからとか、持っていないとみっともないとか、自分の心の中から湧き上がる感情とは無関係の、宙を漂うような欲望である。だから、常にほかの誰かの欲望を借用し、それが当たり前のことのように錯覚して、あまりにも簡単にその欲望を実現しようとする。そして、いったん実現すると、すぐに忘れて再び誰かの欲望を借用することに一生懸命になる。あてもなく宙を漂う、ストーリーのない人生。そういう人たちが多数を占める社会では、幸せを感じる人が少ないというのは当然の話なのだ。

こんなことを考えるようになったきっかけは、昔読んだ「笑う住宅」という本だった。そこには、借り物でない自分の欲望に忠実な人たちによる家作りや、普通に流通している素材を流用して、安価にかつ個性的な家作りをする方法などが紹介されていた。そして、一国一城の主になるということは、パンフレットを眺めたり住宅展示場に行って電卓を叩くことではなく、どうすれば自分にとって幸せで楽しい人生が送れるかという、粘り強い問いかけの果てに実現されるべきものだということを学んだ。そのことは決して家作りだけではなく、人生全体を通じて問われるべきことがらであり、そのためには自分の欲望が何で満たされるかを知り、その前提として何よりも「楽しむ」という能力を磨かなくてはならないのだ。

きょうは珍しく涼しい天気だったので、著者の石山先生の展覧会に行ってきた。本を読んでからずいぶんと年月がたち、わたしの知らない間に活躍の舞台は日本を越えて全世界に広がっていた。そして、どの作品も力強い生命力に溢れ、個性的な造形の中から作り手の表現する喜びがひしひしと伝わってくることに感動した。同時に展示されていた数多くのドローイングは、どれも強いインスピレーションがあり、それらを表現するため絶え間なく手を動かしている作家特有の迫力も感じられた。さらに、会場の一画に展示された版画のすばらしさは特筆ものであり、通常の意味での建築家の枠を超えてしまっている人であることを実感した。

たまたま昨夜は、丹下健三の建築を取り上げた番組を見ていたが、日をおかず両者の建築を並べて見れて、その特質を知る上で非常に参考になった。丹下は国家が伸び盛りの時代の、権力の合理性の美的表現者として求められた建築家だった。これに対して、石山は、近代的権力が求心力を喪失してモニュメントが不要となった時代の、いわば縄文的な日本人の地金の部分を刺激し活性化するのに求められる建築家なのではないだろうか。近代的権力は予測可能性を担保する力であるがゆえに、「揺りかごから墓場まで」というスローガンで、社会のみならず個人の欲望まで制度化しようとした。しかし将来の行方が見えなくなり権力が弱まってしまうと、制度に組み込まれた欲望は、いやおうなく個人に払い戻される。そこから生じる混乱を救うのは、統制の取れた機能的な美しさではなく、おそらく「どんな状況下でも楽しめる能力」に裏付けられた個人の粘り強い欲望の力だと思う。

ニュータウンの町並みに安らぎが感じられないのは、そこが「持ち家政策」と借り物の欲望によって、淡白に作られた影の薄い場所だからである。希薄な欲望でできた町には、生きた人間をつなぎとめられないのだ。逆に混沌とした旧市街に安心感を感じるのは、そこが雑多で濃密な欲望によって、いわば自然に出来上がった場所だからであろう。だから、さまざまなところで政策の力で町を活性化しようとする試みがあるが、それが従来的な手法に従ってなされるならば、おそらく失敗するのではないか。町づくりの基本は、如何にして、強い個人を育てるかにあるはずだ。

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