2008年9月19日金曜日

水とか紙のこと

縁側に一杯の手水盥を持ってこさせ、最初に口を漱ぎ、次に顔を洗い、絞った手拭いで体全体を丁寧に拭く。そして手拭いを洗って軒先に干した後、最後に盥に残ったわずかな水を庭の草木に遣る。それが漱石だったか鴎外だったかの、朝の身支度光景であったという。ずいぶんと前に読んだ随筆に書いてあったことだが、古き良き頃の日本人の、無駄のない暮らし方が強く印象に残ったものだ。それを単純に貧しいと受け取るか、豊かと受け取るかは価値観の問題だろうが、わたしにはそれがとても格好のいいライフスタイルだと映った。

思うに、家計の節約といった問題でなく、はたまた環境保護とかいうお題目でもなく、それは日常作法の問題なんだろう。たとえば針の一本にすら価値を認め、役割を終えた後は供養までするといった心遣いもそうである。合理主義者には、その風習は野蛮なアニミズムとしか映らないだろう。しかし世界を経済論理で解釈しようとする傲慢さこそが不幸の原因に思える。必要以上に大量の水を使ったり、理由もなく食事を食べ残したりするのは、経済的に問題がなくとも、どこか下品な風習と感じるのだ。

写真は、溜まる一方のパン屋の紙袋の束。どこででも同じ種類のパンしか買わないので、自然と似たような紙袋が集まってくる。だがそのまま捨てるには忍びないので、丁寧に切り開いて台所の隅に保管する。パン屋の紙袋は適度な張りがあり、油をよく吸うのですこぶる使い勝手がいい。これをまな板に敷いて調理したり、コンロの周辺に敷いて飛び散る油を吸わせる。そして最後に、鍋やフライパンを拭ってからようやく、納得して紙を処分するのである。

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