2009年7月13日月曜日

引き受ける、ということ

たとえば体に不調を感じて、命に関わるかもしれないと思いながらもそれを放置する人は、きっと生きることを諦めた人だろう。たとえば家の中が散らかっていたとして、自分の責任でないからと放置する人は、家庭人としての役割を放棄している。自分や自分の周囲に起きる出来事を、誰かの責任にして知らん顔を決め込むのは、未成熟の人間のすることだ。確固たる人生を送りたければ、たとえ面倒なこと嫌なことでも、それを自分自身のこととして、できうる限り引き受けなくてはならないと思う。

政治的関わりでも、同じ理屈が通用する。確かに、魅力的な候補者はいないし、こいつだけは当選させるわけにはいかないという候補者のほうが遙かに多い。しかし、だからといって、投票しないという選択はあり得ないだろう。選挙の時にだけしゃしゃり出てくる不愉快な連中を排除するには、そういう酷い状況を自分のこととして引き受け、安易に棄権するのではなく投票行動によって解決すべきなのである。

加えて、選挙の結果が自分の意に沿わなかったり、期待した政治がなされなかった場合でも、それも自分の責任として受け入れることが重要だ。もちろんその場合の責任は、「現状を決して誰かのせいにしない」という意味合いであるが、そういう姿勢を保たないと政治のインチキに引っかかりやすくなるからだ。ナチズムというのは、無力感に打ちひしがれた人々が、その境遇を自分以外の誰かの責任にして、同時に英雄的な人たちを祭り上げ、彼らに諸問題の解決を委ねたことによって引き起こされた歴史であることを忘れてはならない。

昨夜の開票結果は、その任期中に一度たりとも選挙人に活動報告をしなかった不誠実な候補者たちが、多数上位当選していた。新人候補ならわからないでもないが、再選の場合に職務を果たさなかった者に対して投票するのは理解できない。この大変な時代に、次の国政選挙でいったいどのような選択が示されるのか、今から不安なのである。

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