素白の随筆

京急は、これまでほとんど縁のない電車だったが、羽田空港行きが出来てからは頻繁に利用するようになった。品川付近の高架を走る車窓からは、多くの寺や墓地が密集しているのが見え、東京という現代都市の中で、そこだけ取り残されたかのような違和感のある空間が広がっている。それは昔、鮫洲の運転試験場に行ったときにも強く感じられ、駅前から続く狭い道の両側に代書屋が軒を連ねて盛んに客引きをするようすが、どこか地方の温泉町を連想させる光景だった。鮫洲の街は、自分の知っている東京ではなく、どこか別の時代の、奇妙で不思議な空気を感じさせる場所だった。

岩本素白の随筆集「東海道品川宿」を読むと、その奇妙で不思議な空気の理由が察せられる。ここは明治のはじめまで江戸の境界にあって宿場町として栄え、その陰には女郎屋があり投げ込み寺があり、歌舞伎や落語で語られるような様々な人生の悲喜劇が見られた場所だったのである。素白は、ここで少年期を過ごし、卓越した記憶をもとに当時の品川宿の暮らしや風俗を詳細に描いている。本書を読んでいると、品川宿の記憶が蜃気楼のように立ち上がり、現代と過去が二重写しに見えてくる気がする。たとえばローマのように歴史が物理的に露わになっているのとは違い、品川宿は表面上の痕跡をとどめていないからこそ、むしろ土地の湿気やニオイに敏感になる。隠されているから、隠れたものに気づくのである。

岩本素白は、知る人ぞ知る名随筆家である。残念なことに寡作の人であったらしく、現在入手できる作品は意外なほど少ない。しかし、そのどれもが「珠玉」という表現に相応しく、まさに人生の友として読み継がれるべき随筆である。久々に読書の喜びを与えてくれた本として、この読書の秋に、素白の最高傑作と言われる「東海道品川宿」を強く推したい。

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