2010年9月8日水曜日

ヴェネツィア的

つい最近のニュースで、中国がGDPで日本を上回ったと報じられ、外国でもトップ扱いで報道されていた。いつかは逆転されるだろうことは分かっていたが、むしろ予想していたより時間がかかったという印象だ。実質的にはとっくに抜かれていたはずだが、為替が操作されているのでその分だけ遅れたのだろう。経済規模でおよそ1世紀ぶりの主従逆転ということである。

思うに、中国が経済分野の改革開放へ舵を切った時点で、この日が到来するのは必然だった。日本と比べ約10倍の人口、スクラップ同然の生産設備や社会資本、そして豊かさを渇望する人々。そこに巨額の資本を投じれば、ガソリンに火を点けるように、経済成長の炎が爆発的に燃え上がるのは明らかだった。戦争ですべてを失った日本やドイツが、その後急激な成長を遂げたのも同じ理屈。一定の条件が整えば化学反応が起きるように、どんな国でも似たような発展を遂げるわけである。物事が上手く回り出せば、あとは何もしなくても万事OK。急成長する国には、国民やリーダーたちの有能さは、それほど必要とされていない。

国民の有能さは、むしろ国の発展が止まり、傾いてきたときに試されるように思う。何を守り、何を捨てるのか。冷静に対応策を検討し、限られた手段を果敢に実行するしか選ぶ道はない。衰退し、縮小する国家では、国民がどれほど苦渋の選択をしたところで、決して喜ばしい結果など得られない。しかし、必要な施策を実行しなければ、更に悪い結果がもたらされるだけだ。そういう意味で、痛みしか伴わない不愉快な決断を、自らの責任でずっと選択し続けなくてはならないのだ。そして遠い将来、時間の経過という名の女神が微笑んだとき、ようやくその国民は有能だったと称えられるはずだ。

ちょうど1年前のエントリーで、政治に期待することを諦めたと書いた。国民自身が痛みを負わず、愚かしい時間稼ぎを模索し始めた時点で、もはや引き返せない道に迷い込んだと感じたからだ。リーダーに誰を選ぶべきなのか、その答えは用意されている。ただ問題は、今の時代にふさわしいリーダーが見あたらないことと、そういう人物を選ぶ有権者がいないということなのである。

ヴェネツィア衰退の時代、その当時の様子があまりに私たちの国と似ていることに、改めて驚いている。国民は変化を嫌い、生活水準を維持するために独身貴族が増え(適齢期の60%!)、外国で働くことをいやがるようになったとのこと。そして社会から自由な空気が失われ、不寛容な教条主義が蔓延ったという。

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