旅行中に何を考えているかというと、一番多いのは何といっても食事のこと。あとは自分のいる場所と方角と財布の残額。同伴者へのご機嫌伺いも忘れていない。それから、余った時間に祖国のことなどを少しだけ。
出かける直前に、とある経済統計で、物価を加味した国民所得が、我が国は上から40数番目という数字を目にした。焼け野原から60余年、一体私たちはその間何をしていたのだろうかと愕然とする。でもって同じような場所に、旅先の国の名前が並んでいた。わたしは東の貧乏国から、西の貧乏国に旅行したというわけだ。
たしかに、かの国の失業率や生活の大変さなど考えると、日本と同じで暮らし向きは決して楽でないと感じる。だからといって、日本より数字的に豊かだとされるアジアの国々が快適かというとそうは思わない。なぜならば、国民所得は所詮フローのお話であり、ストックや金銭的評価の難しい部分などの価値は反映していないから。おまけに所得と生活の豊かさとは、ある程度の水準を超えると関係なくなるし。薄っぺらな成金の大豪邸より、手入れの行き届いた古い家の方が暮らしやすいことだってあるだろう。
結局のところ、経済成長が続いているときに、国は社会資本を充実させ、社会的、文化的厚みを増やすことが必要であり、これらを怠れば長期的な繁栄は得られない。思うに日本は江戸時代、この国はブルボン朝やナポレオン時代の貯金がものをいっているのであり、そこに暮らす我々は遠い先祖の遺産に感謝すべきなのだ。今日の稼ぎを10年後、100年後の将来を見据えて使う、そうしなくてはならないのが国やリーダーの役割。だが、そのリーダー自身が、大切な稼ぎを自分たちの世代に使い果たそうとする始末・・・。と、こんな遠くに来てまで、いつもの悶々とする堂々巡りをしていた。旅は、人を憂鬱な社会批評家にする、のかもしれない。
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