2011年4月20日水曜日

選挙活動の自由

都知事選の結果に失望している人が多い、と感じる。何しろ敵の多そうな、あの舌禍老人である。あいつだけは許せないと感情的になり、その怒りの矛先は投票した人にまで向けられている。じつは以前、わたしも同じような感情を持っていた。金権政治家をトップ当選させる選挙区は、住民の程度が悪いからだとか、お笑いタレントに票を入れるような奴はどこかおかしいとか。もちろん口には出さないけど。

しかしその後、徐々に考えは変わった。自分は投票した人の何を知っているのか、ほかの候補者について何を知っていたのか、自問自答するとじつに心許ないのだ。ほかの人たちには違う判断基準があるのかもしれないし、わたしの知らない事実に基づいて投票したのかもしれない。結局のところ、わたしは勝手な思い込みで、単に自分と気の合いそうな人を選んだに過ぎないのではないか。そう考えると、誰が当選しても腹が立たなくなった。幾ら投票率が低くても、投票しなかった人を責める気にもならない。

だが、そうであるからといって、今の選挙制度が最適であるとは思わない。特に、「誰が最善」かでなく、「誰がよりましか」という選択をしなくてはならない政治状況では、誰に投票しても不満が残るだろう。つまり、自分が選んだ人が当選しても嬉しくないし、そうでない場合はもっと不満だ。だから最低限の保証として、投票価値の平等くらいは守って欲しいものだが、それすら政治的に無視される。本音を言うと、もう馬鹿馬鹿しくてやってられない。

現行選挙制度の最大の問題点は、選挙活動の自由が著しく制限されていることにある。趣旨は選挙の公平、つまり買収防止のためだが、直接に金を手渡さなくとも、高速道路の無料化とか子ども手当とかいう政策主張そのものが、もはや買収と同じである。だから必要なことは、そのような政策が果たして妥当なものか、立候補者も交えて可能な限り自由に討論できるようにすることであり、その議論を通じて誰が最善の候補者なのかを決定する権利を実現することなのである。要は選挙をただの人気コンテストにしないことが重要なのだ。

わたしたちの国が変化を受け入れられず、ただただ沈むに任されている惨状を見るにつけ、思い当たる理由は、日本の国にまともな民主政治がなかったことだと思う。民主義、自由主義を標榜しながら、同じように沈み続ける哀れな独裁国家たちと、いったいどこがどう違うと言えるのだろう。それとも、わたしの思い過ごしだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿