2011年5月7日土曜日

高コスト社会

生命、身体の安全、個人の財産をどのように守るかは、突き詰めればコストの問題である。発生した被害を、誰が、どのような手段で、どれだけ負担するかということ。社会生活することによって必然的に生じる被害は、社会の構成員が平等にコストを負担するのが理にかなっている。しかし、少しの注意を払えば容易に避けられた被害ならば、自己責任を問うこと、つまり被害者の自己負担とすることが公平である。それでも負担を軽減したいと思えば、そのように考えるもの同士でリスクを軽減する仕組み、すなわち保険に入るのも合理的である。

もっともコストの掛かる方法は、あらゆる危険を防止するために、あらゆる規制でがんじがらめにして、それでもなお発生した被害に対して公的に無制限に賠償を行うことだろう。規制を実行するために、多くの公務員を雇い、あらゆる危険を想定した法律を作り続け、果てしなく裁判を行い、どんな些細な事故でも社会的責任を追及し続け、被害者の責任を何ら問うことなく全面的に保護するという方法。確かに、これだけやれば、国民は安心だろうし、被害者も納得するだろう。しかし、そのためには大前提がある。どんなにやかましい規制でも、それを喜んで受け入れることが必要だろうし、たとえそのために税金を引き上げても納得する納税者がいることが必要だ。加えて、運悪く誰も知らない細かな法律に違反して、処罰を加えられても、文句ひとつ言わず従うことも求められよう。しかし、果たしてそれで満足だろうか。

正直なところ、わたしはそういうの嫌だ。現に、自分ですら気がつかなかった違反で、問答無用で罰金を払わされる不快な経験が何度かあった。もし携帯に夢中になっている歩行者や、自転車に接触したら、どんなに注意しててもクルマを運転するわたしの責任になる。それが嫌ならクルマを手放せ、運転する奴の自業自得だと言われるかも知れないが、やはりどこか腑に落ちない。しかし、それならまだいい方だ。場合によっては、自分とは無関係な人たちに、間接的であるにせよ多額の賠償をしなくてはならない時もある。もちろん、そのあたりのリクツは理解しているつもりだが、それでも納税者として納得できる限度があるだろう。国民に負担を求めるなら、国民に十分な説明と理解を求めるのが筋だし、それが民主主義というものだ。

このところ、そんな不満というか、疑問を持つことが多くなってきた。生肉を食べて被害が出たら、条件反射で規制を求める。集団感染があれば、数兆円もの巨額の補償を、国民に相談もなく負担させる。原発の放射能汚染が発生すれば、一次的な責任追及をあやふやにして、十分な議論なく国民全体に負担を求める。建設的な議論を避けて、より単純な解決を選ぶ。自分では出来るだけ責任を回避して、物言わぬ他人に損失を補填させる。それが当たり前のようになった高コストの「福祉社会」というものが、個人の生きる力や活力を奪い、社会を貧しく、不自由にしていっている。従って、文句があるなら言わなくてはならない、怒りを感じたら抗議しなくてはならない、それが健全な社会を維持する国民の義務ではないかと思う。

だから言う。わたしは、保身のため、一時の思いつきで、原発の運転停止を要請した、無責任、無思慮、卑怯極まりない総理大臣に怒りを覚えている。単なる見解の相違に過ぎず、なお政権担当能力があるなら我慢できるが、決してそうでないのだから直ちに総辞職を願いたい。この政治的に異様な高コスト社会を、放置することは許されないのだから。

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