2011年12月20日火曜日

変わる風景


風景が変わったと思う。路上で、カフェで、電車で、レストランで、老若男女を問わず、みんなが小さなディスプレーを覗き込んで、忙しくボタンを押し続けている。常に何かに追い立てられる時代、誰にでも一刻を争う用事があるものだ。だが、先日とあるレストランで料理を待っていたあいだ、周囲を見渡すと客の誰もが俯いて指を動かしていたのには、さすがに絶句した。テーブルを挟んだ何組もの男女が、ほとんど会話もせずに、ディスプレーの描き出す画面に夢中になっていた。

今は、一時そういう風潮なのだろう。しかし、たまの贅沢な夕食で、注文した料理が運ばれるまでの間、どのような調理で供されるかを語らう楽しい瞬間をふいにするほどに、レストランに集うみんなに重大な用件があるとはとても思えなかった。そして肝心の料理が供されると、今度はその匂いを楽しむより先に、さかんにデジタル写真に納めるのに熱中していた。正直なところ、彼らのそういう行動がほとんど理解できなかった。

果たして、わたしたちは以前より幸福になったのか。そして、これからもっと幸福になれるか。産業革命の時代に、鉄の塊にハンマーを打ち下ろした男たちも、そのように自問自答したことだろう。外国のどこかの時事サイトの記事では、今年一番満足した買い物というアンケートでアップル社のデジタルガジェットが首位を占めていた。さもありなん、つい最近も、一回りや二回りも年上の知り合いたちから、それが如何に便利な機器であるかという懇切丁寧な説明を、立て続けに受けたのである。PDAを持たずば、もはや現代人にあらずという扱いだ。

半世紀前にテレビが出現したとき、ある著名な評論家は「一億総白痴化」という警句を吐いた。大量の画像情報が果てしなく垂れ流され、その内容を吟味する隙を与えないメディアの特性を指摘したのだろう。その喩えに習うならば、昨今のPDAなぞは「一億総貧困化」という言葉が似合う。先日のように、大切なディナーの時間に、楽しい会話の代わりにネット情報を読むのに費やしたり、相手の顔を見つめることもせず、俯いてボタン押しに熱中するのにどんな価値があるのか。決して取り戻すことのできない貴重なひとときを、こんな馬鹿げたことに費やすほど、生きるに退屈するほどのゆとりがあるとでも言うのか。PDAを見つめている時間の分だけ、私たちの人生は却って貧しくなってしまうのではないか、わたしはそのように危惧している。

以前「ニュートン」と名付けられた風変わりな情報端末があって、ほんの少しの間だけ触ったが、ほとんど実用性がなかったと記憶している。もう17年くらい前の話だが、小さな虹のリンゴマークが付いていて、いま人々のポケットの中にあるiPhoneのご先祖さんでもあったらしい。遠くない将来、その端末は進歩して誰もが手軽に持つようになるだろうとは想像したが、まさか自分がまったく関心を失っていようとは、その当時は想像もしなかった。せめてデスクの前に座らない時間くらいは、自分だけの個性的な時を過ごしたい。

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