2012年1月16日月曜日

「大不況には本を読む」


橋本治はいつも気になる作家だ。波長が合うとか、興味の方向が同じというわけでなく、むしろわたしにとっては常に違和感の残る、読み辛い作品ばかりだ。そして、このモヤモヤがずっと後を引き、何年後かに再び違和感を解消するために読み直してしまう、そういう種類の作家である。

大不況には本を読む」を読み直した。リーマンショックのあとに書かれ、いったいこの先どうなってしまうのだろうと本書を読み始めたところが、「ここはひとつ、落ち着いて本を読め」である。只でさえ切羽詰まった心境なのに、こんな結末ではそりゃ怒り出す人だっているだろう。そんな不満が残った。

ところが、資本主義はすでにアウト、わたしたちに残されたことは何かを作り始めることではないかという心境に至って、この本は意外にもメモと付箋一杯になって戻ってきた。いわく日本人は欧米先進国の作ったフレームに沿って、ひたすら働き続けた結果、何も考えないという癖を付けた。ところが彼らの作ったフレームが壊れた以上、独力で自前のフレームを考える必要が生じてしまった。だから、新しい歴史を始めるために、先ずは自分を知るため、取り敢えず手元にある本を読み返しましょうという提言である。

初回に読んだ時、空回りの気分を覚えた。それは時間感覚の違いがもたらした気分じゃないだろうか。何かを奪われるという恐れを抱えた人と、過去という膨大な遺産を味わう術を知る人の感覚の違い。目前の時間を単に浪費する人と、過ぎ去った時間を人生に織り込む人との感覚の違いともいえよう。橋本治は、まさに後者の典型であり、読者であるわたしはこの感覚の歯車にぜんぜん噛み合わなかったのだと思う。

考えるという作業は、自分を中心にして世界を構築するということ、そのために十分な時間を掛けて過去を検証するという地道な作業が必要だ。著者は「行間を読むこと」の大切さ、「書かれていないこと」の重要性を強調する。本の書き手と、読み手の視点の違いを意識して、読み手にとって書かれて然るべき事柄がなぜ書かれていないかを考える。それを通じて、自分の視点で世界を探すこと。これこそが本を読むという行為に他ならないと。

バブル景気真っ盛りの頃、著者の「江戸にフランス革命を」を読んだが、あの時もやっぱり歯車が噛み合わなかった。日本中が繁栄の未来に酔っていた頃、なぜ江戸時代に市民革命が起きなかったのかという問題意識があまりに唐突だったのだ。そして今になって思い至る。平和で繁栄した江戸の時代に、なぜ市民が登場しなかったのかを問うことは、歴史に書かれなかった事柄を考えることであり、それは同時に現在のバブル終焉後の社会の有り様を考えることだったのだと。もう一度読み直すべきだが、すでにその本は手元にない。迂闊だった。

2 件のコメント:

  1. 10代で『桃尻娘』を読んだときは、面白いくらいの感想しか持たなかったのに、10年後再読したら、当時の自分が知りたかったことが全部書いてあり衝撃を受けました。以来、橋本氏の本はすぐに理解できなくても手元に残してきましたが、いよいよ場所がなくなり処分を考えていた矢先にatoさんの記事。
    これでまたしばらく手放せそうにありません・・・(笑)。

    返信削除
  2. umeさん、こんばんは。
    じつはumeさんもお好きな作家ではないかと思っていました。
    10代で「桃尻娘」ですか、それは運が良いですね。
    わたしはすでにハタチになっておりました(笑。
    小説もそうですが、映画も不思議な味わいでしたね。
    女子高生の気持ちにはなれませんが、再読する価値は十分にありそうです。

    返信削除