2012年5月23日水曜日
端末化する
このところスマートフォンの売れ行きが好調らしい。皆さん、時、場所を選ばず、黙々と操作しているので、人の動きが緩慢になってしまい、急いでいるときにイライラすることが多くなりました。わたし、そもそも携帯電話が嫌いなんです。「電話」もそうですが、それ以上に「携帯」という行為が駄目。なんにも持たないという、風来坊的な清々しさが性に合っている。ですから、用事のない休日には、数枚のカードだけをポケットに、手ぶらで出かけます。
以前からコンサートの予約なんかもそうでしたが、昨今は飛行機に乗るのだってチケットすら要りませんね。テクノロジーは、手ぶらで海外旅行することも可能にしたわけです、理屈の上では・・・。ところがここ数年、旅先でもケータイを持ってないと不便なことが多くなりました。たとえばホテルで頼み事した場合など、当然のように電話番号を聞いてくるし、スマホを持っていることを前提に話すので癪に障る。おまけに小さなホテルでも、チェックインの時に「はい、うぃーふぃ(Wi-Fi)のコードね」とメモを渡されるし、どうやら旅行者がPCをぶら下げてくるのが当たり前になってる。それで、「なあーんにも持ってないです」と言うと、ホテルのひとにえらく不思議がられるわけです。
もちろん「i なんとか」という製品、いまだ持ってません。便利なのは理解できるのですが、そこまで便利である必要があるのかしら、と思う。そして、通信手段が発達すればするほど、生きていることのリアリティが希薄化するような気がしてならない。深夜、公衆電話で小銭を握りしめて、遠くの彼女に電話したり、ストップウォッチの時間を気にしながら国際電話していたときのほうが、その記憶の生々しさや、時間の密度といった充実感が段違いにありました。
その一方で、そろそろ何とかしなくては、と思い始めているのも事実。近頃は妻まで、「i なんとか」買おうかしらと言い出す始末。カメラ並みに写真がきれいに撮れるし、GPSが付いているのでナビとして使える。地図やガイドブックを持って行くこと考えたら、まったく比較にならないほど便利らしい。確かに、これさえあれば、道に迷って土地の人たちに尋ねながら、無駄に歩き回ることもないだろう。しかし、それは同時に、見知らぬ人たちから親切を受ける機会を奪うことになる。そもそも、端末のディスプレーを見つめながら、うつむき加減に黙々と旅行することは楽しいのだろうか。
辺見庸の「しのびよる破局」という評論集で、次第に人々が端末化する違和感を述べてました。生活時間から湿度や陰影が消え、荒みが広がっていくことへの。ちょっと表現が難しいですが、人の集まる場で、その空間から隔絶したように機械を操作している人たちを見ていると、「公共」という貴重な財産が消えてしまったように感じます。
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