2012年9月2日日曜日

「小商いのすすめ」


以前のエントリーで、問題が大きく複雑で手に余る場合は、選択肢を広げて実行することが必要だと指摘しました。つまり誰にも正解が見えない場合は、みんなで四方八方いろいろやってみて、誰かが正解を見つけ出せばそれでいいじゃないか、ということです。誰が正解かを考えているうちに、自分の人生が時間切れになるという生き方ほど残念なことはないですから。

平川克美の「小商いのすすめ」を読みました。日本の社会はこれから老いて縮小していくのであり、この問題はもはや経済成長によっては解決できない。私たちにとって重要なことは、天下国家の「おおきな問題」ではなく、自分が責任を負える「ちいさな問題」とどのように向き合うかということだ。そして、この「ちいさな問題」への処方として、小商い的に生きることを提案するという内容です。

大組織で起きる不祥事では、刑事罰が生じる以外、結局誰も責任をとりません。たとえば政府のリーダーの致命的ミスに対して、誰も真剣に責任を追及しないし、当の本人に責任の自覚すらないのが実情です。そういうことが当たり前になると、誰もが自分の行動に責任を負わないことが許されるような感覚に陥ります。社会は他者への信頼によって維持されているのに、その信頼を毀損する行動は社会全体を窮乏化させる引き金になりかねないのです。

著者のいう小商いとは、「いま・ここ」にある自分に関して、責任を持つ生き方だと言います。「いま・ここ」に生きているから、本来は自分の責任でないことについても、責任を負うことが重要なんです。卑近な例ですが、ゴミが落ちていたら、たとえ自分のものでなくても、自分の仕事でなくても、拾い上げるということです。ゴミをポイ捨てする人間は論外として、人は社会的動物である以上、メンバーであることから生じる責任を当たり前に実行できなくては困るわけです。

「小さなことからコツコツと」なんて言いますが、結局のところ、解決困難な大きな問題を政治に委ねて文句垂れていても何も解決せず、それぞれの個人が、他人の不始末に対しても自らが責任を負うという形でしか、物事を前進させることは出来ないということです。それが出来れば世話ないよという批判が聞こえてきそうですが、何事もやってみなくては分からないですよね。特に、経済的には先の消費増税でズタボロ確定となったことですし、政治的な混乱も延々と続きます。そういう中で、我ひとり、小商い的に振る舞うというのも、なかなか魅力的な選択肢のひとつだと思いました。

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