「せきがく」を知る


「碩学」という言葉。普段、耳にしたり、口にすることがなく、たまに文字を見かけると、なぜか「けんがく」と読んでしまいます。こどものころのヨミマツガイが、この歳までずっと引きずっているわけです。毎回、「けんがく」と読んで、いかんいかん「せきがく」なんだ、と脳内で訂正する始末。けっして人前で口に出来ない、私にとっては危険な言葉です。

碩学という言葉で、連想するのは誰でしょう。単なる物知りではなく、膨大な知識と人格が分かちがたく結びつき、全身から深い教養が自然と醸し出されるような、近寄りがたいくらいに偉い先生。私は、真っ先に小林秀雄あたりが脳裏に浮かびます。さらに、学生のころ、下宿の隣に住んでいた先生がそういう方で、たいそうお歳でしたがすれ違うだけで緊張が走ったものです。和服が似合って、杖をつき、ゆったりとした足取りで近所を散歩されていたのが思い出されます。

現在では碩学と呼ぶに相応しい、そういうイメージに合う人は少なくなってます。もちろん、単に私が無知なだけで、行くとこに行けばたくさんいらっしゃるでしょう。ただ以前は、それもかなり以前ですが、テレビなんかでは頻繁に碩学のインタビューや講演を放送していて、畏れ多くも少しは身近に感じられたものです。

ここ最近、碩学の対話をテーマにした本を立て続けに読みました。最初に、梅棹忠夫の「日本の未来へ―司馬遼太郎との対話」。20年以上前の対談を収録したものですが、むしろ今だからこそ読む価値のある本です。ことに日中間の深刻な対立を予感させる記述が、とても印象的でした。さらに、共に日本の国力がピークであることを認識していて、この先の未来を深く案じています。そういえば、高坂正堯もかなり早い時期に、日本の将来の厳しさを指摘してました。碩学たちには、現在の日本の困難がお見通しだったということです。今の状況を見たら、なんと言われることだろうか。

それから、もう一冊。博覧強記で知られた小松左京による、稀代の碩学たちへのインタビュー集「学問の世界 碩学に聞く」。肩の凝らない、くつろいだ話が中心ですが、それでもパソコンを前に、知らない言葉を一つ一つ検索しながらでないと、話の内容についていけません。秋の夜長に、学問の奥深さを知り、逆に自らの無知、浅薄を反省するに、絶好の本だと思いました。

本書では印象に残る話がたくさんありましたが、とくに江上波夫の言葉に感動しました。
「学者は浅く広く掘る。浅く広く掘っていても、うんと広く掘っていると深くなって、専門家よりももっと深くなる。全体からみればまだそれは浅い。それが本当の学者だと思うのです。」
学者にとっては、なにより若々しい精神、永遠のアマチュア精神が大切なのでしょうね。この本にも登場した隣家の大先生も、人を惹き付けて止まない、自由闊達な魅力がありました。お元気な頃の姿を思い出し、ちょっと懐かしかったです。

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