2012年12月24日月曜日
ケータイ、つらつらと
近頃、スマートフォンに夢中になっている人を、頻繁に見かけるようになりました。ケータイでもその傾向はありましたが、それ以上にちょっと目に余る感じです。先日も幼児連れの母親とエレベーターに乗り合わせたのですが、スマホに注意がいって子どもがドアに挟まれそうになり、周りの人が慌ててボタンを押してました。同じような場面に遭遇したのは一度や二度でありません。いったい世の中で何が起きているのでしょう。
自分の周囲でも、ほとんどがスマホに切り替わった様子。非常に便利だとは聞いてますが、私自身はあまり関心がありません。さすがにケータイは持ってますが、それすら必需とも便利とも思ってません。たまにメールするにも四苦八苦して、あげく面倒になって直接電話することもしょっちゅう。不器用な人間には、しょせん縁がない道具です。
行きつけのバーでそんな話題になり、顔馴染みの客にiPhoneって凄いんでしょと話を振ったところ、私はケータイすら持ってませんと言うではありませんか。マスコミにお勤めで、様々な人と会って話をするのがご商売なんですが、それでも持ったことがないという。気の弱い私には、ちょっと真似の出来ない芸当です(笑。たぶん、彼の周辺では不満が渦巻いているのではないでしょうか。
そんなことがあり「私がケータイを持たない理由」という本を読みました。いろいろな理由が書き連ねてありましたが煎じ詰めると、商売として怪しげだし、情報を管理される危険があり、それに健康に悪いというところでしょうか。携帯会社の商売が怪しげだという点はその通り。これまで固定電話で充分に用が足りてたのに、なんで莫大な設備投資を繰り返しながら、必要のない人にまでケータイやスマホを使わせようとしてるのでしょう。複雑な料金体系や、摩訶不思議な囲い込みシステムを見てると、よほど知られたくないことが多いのかしらと思います。シンプルでないということは、嘘をたっぷり含んでるというのが、これまで生きてきて学んだこと。私はケータイは持ちますが、これからもお付き合いはシンプルに必要最小限にしたい。
ケータイの弊害については議論のあるところ。ただ一点だけ、ケータイは人間から「待つ」という機会を奪ったことが問題だと思う。たとえば待ち合わせの場に相手が現れなかった時、私たちは今でもその場でじっと待つことが出来るだろうか。何も情報が与えられないまま、突然の不条理に我慢してその場に留まるという行為が、人には大切なんじゃないかなと思うわけで。そういえば、いい大人が公衆の面前で、些細なことでキレることが多くなりました。いったいどうなっているのでしょう。
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