2015年2月12日木曜日

もやもやする

「自己責任」という意味のはっきりしない言葉が、近ごろ頻繁に使われている気がします。
しかし以前は、それほど聞かなかったようにも思う。
いつから、このような生煮えの言葉が使われるようになったのか。
そもそも、一体全体「自己責任」とはどういう意味なんだ。

これと似たような言葉に、"At your own risk"なる言い回しがあります。
あなたの行為は法的には禁じられてないけど、なにかあってもあんたの責任。
あなたに被害が生じても、こっちを訴えないでよ、という意味でしょうか。

たとえば、柵が設けられていない断崖絶壁。
そこに近づいたり、崖に腰掛けて絶景を楽しむのはあなたの自由。
しかし、もしそれで怪我したとしても、柵を設けなかったということを根拠に、管理者か誰かを訴えるということはできない。
まあ常識で考えたら当たり前ですが、このような感覚が通用しにくい社会では、予め看板に"At your own risk"と大書して訴訟を封じる必要があるのでしょうね。
これは事情に疎い自分の憶測に過ぎませんが、そんなに外れてもいないと思う。

以上の理解からすると、"At your own risk"には、助けが必要なのに知らん顔をしてもOKだという意味までは含意していない。
むしろ人が助けを求めているのに、それを無視するというのは反社会的な態度とさえいえる。
もちろん法的に救助義務のない人を訴えることはできないでしょうが、助けないという行為が社会的に許されないという判断は充分にありえます。
社会規範と法規範の妥当範囲は違う場合もあるわけですから。

私が「自己責任」という言葉から感じるもやもや感は、まさにその部分。
危険を分かっていながら危難に遭遇した人たちは、よほど特別な事情のない限り、それで誰かを訴えるということは考えられないし、敢えて「自己責任」という理屈を持ち出さずとも当たり前のことです。
しかし同時に「自己責任」という理屈は、救助の拒絶を是とする根拠にもならない。
つまり救助しないという判断が社会的に妥当だと言えるためには、「自己責任」とは別の強力な論拠が必要じゃないだろうか、ということ。
まさに今、人の命が懸かっているときに、私たちが問題とすべきは皮相的な法律論でなく、法ではカバーしきれない我々の属する文明のあり方に関する事柄だろう。
それを「自己責任」という言葉で切り捨てることは許されるものでない。

ただ「自己責任」を主張する人々の心情には注意を向ける必要がありそうです。
その心情とは、自分は自己のコントロールの及ばない事柄に対して一切の関わりを持ちたくないという態度表明の一種ではないでしょうか。
「自己責任」という言葉が頻繁に聞かれる昨今、社会で何が起きても面倒なことには関わりません、という人たちが増えているのかもしれない。
そこには言いようのない無力感を抱えた孤独な人々の姿を想像します。


たとえどれほど愚かな行為であっても、国や社会は全力で助けるべき義務があるかと問われれば、単純に否定できないのと同じくらい、全面的に肯定するのも難しい。
それは私たちが、どのような社会を作るべきなのかという問いかけに等しい問題だと思うからです。
しかしそのように考えると、余計にもやもやしますよね。

2 件のコメント:

  1. ギャンブラー14.2.15

    atoさん。
    国家は、どんなに愚かな人物であったとしても、自国民が他国もしくは他国の犯罪組織によって拉致されたり人質になった場合は、全力で救出すべきです。それは単なる人道主義ではなく、自国民を守れない国家は他国の侮蔑の対象となり、軽んじられるからです。従って、今回の後藤氏の救出に日本国が奔走したのは当然のことです。
    私が残念に思うのは、後藤氏の行動に「戦略性」がほとんど感じられなかったことです。どうしても現地に入って知人を救出したければ、私なら、5パターンくらいの事態を想定し、それぞれに対策を立てた上で現地入りしたでしょう。最悪のケースは、今回のように拉致されて交渉のコマにされるか、その場で殺されること。その場合は自爆し、せめて敵に一矢報いることを考えて準備をしたでしょう。それくらいの想定と覚悟もなく、「何があっても私の自己責任です」という言葉だけを残して軽はずみに現地入りし、あのようなことになってしまえば、「自己責任」という言葉に対して逆に失礼です。普段は冷静な人だったということですが、いったい何があったのでしょうか。

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  2. 近代国家である以上、自国民を保護するのは国家に期待される根本的な役割ですね。それが憲法に規定されていようがいまいが自明の理だと考えています。
    なのに、なぜそこに自己責任という名の感情論が登場し、一定の理解を得られているのかが不可解な部分です。
    更に不思議なことに、どちらかというと保守的な人にその傾向が見られるように思います。
    まっとうな保守派ならば、国家の役割は必要最小限に止めて、最後に残る国民の生命、財産を守ることに国は全力を挙げろと要求するのがスジなんですがねえ。

    おそらく自己責任という言葉を、因果応報的な素朴な社会法則と取り違えて使っているのではないでしょうか。

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