2015年7月6日月曜日

ゾルバ

ギリシャが大変なことになってます。クレジットカードが使えなくなり、ATMから現金を引き出そうにも人々が殺到し、わずかな現金を手にすることすら困難な状況に。おまけに預金のカットまで計画されているそうです。いずれ将来私たちにも同じような事態が訪れるかもしれないと、強い関心を持って事態の推移を眺めています。

それにしても不思議なのは、ギリシャ経済危機がもう5年近く続いているというのに、人々がなぜこのような危機的状況を予測していなかったのかということです。準備する時間は充分にあったろうに、ちょっと理解に苦しみます。少し前のニュースで、当地で高級車が馬鹿売れしていると伝えられましたが、これはお金持ちの防衛手段だったのでしょうが、庶民だって何らかの対応ができたのではないでしょうか。今回の国民投票では財政緊縮削減に多くの人が反対に回りましたが、それで事態が好転するわけでなく、却って日常生活を困難にしかねない選択をなぜしたのか、まったくもって理解できません。何もかもが、不思議です。

ギリシャを舞台にした「その男ゾルバ」という映画がありました。一度観たきりですが、非常に印象深い映画でした。
その中で、ギリシャ人たちの不条理なふるまいに対し、イギリスのインテリ青年が混乱し、振り回されつづけるという、いわば近代と前近代のギャップの描き方が印象的でした。
これって、今行われているEUとギリシャの対立関係そのままじゃないかと、そういうようなことを連想しました。
物語の最後は、ギリシャの男とイギリス青年が、浜辺で仲良くダンスるをするシーンで終わります。
わたしは、「ゾルバ」というと、このシーンを思い浮かべます。
とても素敵な終わり方でした。

2015年7月1日水曜日

男の小遣い

サラリーマンの今年の小遣いは過去2番目に低い金額で、1979年の調査開始以来最も少なかった1982年に次ぐ低水準だった、という記事を読みました。
サラリーマンが懸命に稼いだ結果の、その手許に残る自由なお金が、なんと33年前と変わらない低い水準であるという。
このご時世にいい歳のおじさん達が、一日当たり千円ちょっとしか小遣いがないというのは、あまりにも厳しい待遇だと言わざるを得ない。

それで思い出したのが、亡き義父がわたしと顔を合わすたびに「小遣いは足りているのかい?」と尋ねてくれたことでした。
もちろん満足していたわけではなかったが、所帯を持てば足りないのが当たり前と観念していたので、いつも笑って大丈夫と答えていました。
義父は、男が品位を保つためには相応の小遣いが必要であり、事欠くようだと家庭生活にも悪い影響をもたらすと固く信じていて、それで日頃からわたしの懐具合を気に掛けてくれていたわけです。

池波正太郎の随筆に、次のような文章を見つけました。

(持ち)家のために、働き盛りの男の小遣いが消えた。
男の小遣いに余裕がなくなれば当然、その国の余裕も消える。
むかしの男たちは、どんなに貧乏をしていても小遣いに余裕があった。
その余裕が、世の中にうるおいを与えていたのだ。
いまは家が人の心を食い荒らしている。
・・・・

男たちにとって、過剰な持ち家信仰は迷惑なんだよね。
家があればそれに越したことはないだろうが、しかし持ってなくても全然不便でない。
せいぜい世間体が気になるかどうかの違い。
その程度のことだったら、家はなくとも小遣いに余裕のある方が人生を有意義に過ごせると思う。

本来は善良なおじさんたちが、ふとした弾みで破廉恥で情けない犯罪に走ってしまうのも、元をただすと小遣い不足にあるのじゃないかと、そんなふうに考えるこの頃です。