2015年9月10日木曜日
掛け時計とクルマ
結婚当初に購入した掛け時計をいまだに使ってまして。
見るからに丈夫そうで、機能に徹したデザインが気に入ったのです。
頻繁にモデルの変わる日本製にしては、例外的に商品寿命が長く、現在も全く同じ姿で販売されてます。
今では錆が浮いて、みっともない状態になってしまいましたが、新しいものに取り替える気はさらさら起きません。
誰かに自慢するようなものでもなく、これといった故障もなく元気に動いているのなら、古いというだけで取り替える理由は見当たらないからです。
つい最近まで、我が家のクルマを新しくしようと、頻繁にディーラー巡りをしていました。
しかし、どのクルマも魅力的ではあるものの、今ひとつ買い替えようという気までは起きない。
どれもみな我が家の古いのと比べれば、性能的には月とスッポンなのですが、なのにどうしても気乗りがしません。
あるときふと気がつきました。
わたしが望んでいたものは、単に新しいクルマではなかった。
知らず知らず求めていたのは、慣れ親しんで愛着があり、エンジン音だけでも微妙な調子が分かるくらい、自分だけが理解できるクルマ。
つまり今乗っているクルマこそが、無意識に望んでいたものだったというわけです。
前に乗っていた、私にとっては最初のクルマのことですが。
そのクルマは不運にも2度も大きな貰い事故に遭い、修理をしたものの車体のわずかな歪みから来るガタピシがどうしても直らなかった。
気に入って買ったはずのに、もういいやという投げやりな気分になって現在のに替えました。
それにも拘わらずその後ずっと、同型のクルマとすれ違うとき、微かな後悔の念と共にその後ろ姿を目で追っていました。
20年近い年月をかけて馴染んだ愛車を、自分にとってこれから更に価値が増していこうかという時に、むざむざ棄ててしまうということほど愚かな行為はないだろうと思いました。
古いからこそ得られる価値を、わたし自身がそれを理解できる年齢になったのです。
新車を求めるいうのは誰にでも、何度でも体験できる単純な楽しみだけど、同じクルマを長く乗り続けるということは、限られた人だけが体験できる極めて贅沢な楽しみじゃないだろうか。
長い理屈はどうでもいい。
誰かに自慢するようなものでもなく、これといった故障もなく元気に動いているのなら、古いというだけで取り替える理由は見当たらない。
クルマだろうが、掛け時計だろうが、結局は同じだということです。
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