2010年3月23日火曜日

週末のパーティ

週末は知人宅で夕食に招かれた。私たちはそれほど社交的ではなく、自宅に招いたり、招かれたりということが、あまりない。みんなで集まって楽しく過ごすということは決して嫌いではないが、そこが自宅や別荘などのプライベートな場所だと、何となく億劫でつい遠慮してしまうのだ。そしてこちらから誘うのも、もしも迷惑だったらと思うとやはり躊躇する。ただ今回は、知り合って何年にもなる人でもあり、これまで一緒に食事をしたことがなかったので、せっかくの機会を大切にしたいという気持ちで招待を受けた。

その夜のメインメニューは、彼女のふるさとの家庭料理、たっぷりのカモ肉のコンフィ。年末に里帰りした折に、日本では食べられないだろうからと作ってくれていたのを、貰って帰って、今日まで熟成させていたという。レストランのとはひと味違う、飾り気のない、健全な旨さが嬉しい。皿に残った油を、パンで拭いながら酒を飲み、互いの家族のことや共通の友人の話で座が盛り上がる。そしてその夜飲んだワインは、食前の白が1本、赤が5本、そして彼女のお父さんが昔作ったという年代物のリキュールなどなど。中年夫婦2組の量としては、ちょっとやり過ぎかも知れない。

学生時代に言語を学び、日本を旅するためにやってきた。一人旅で心細くしていると、あちらこちらでぶっきらぼうだけど、細やかで優しい親切を受けたのだそうだ。そして気がつけば、日本で仕事に就き、人生の伴侶を見つけ、家を持って、当たり前のようにこの土地に根を下ろして淡々と暮らしている。もはやどこにでも転がっているありふれた物語だが、民族とか国家とかいう塩分は、濃ければ濃いほど、逆に逃れようもなく世界の水に溶けていく運命にあるように感じた。最近ホームステイさせた彼女の親戚の娘が、とんでもないコスプレの格好で来日して、漫画のことしか知らないと怒っていたのが、実に今風で妙に可笑しかった。

そして、次のパーティは私たちの番なのである。いまから、和食だけは絶対に作るまいと考えている。出来るだけ彼女たちが口にしたことがないもの、たとえばハーブがたっぷりのベトナム料理辺りを作ってみようか。

2010年3月18日木曜日

「蓋」


何でも捨てられず、取り置く癖のある妻には、いつも困っている。私だって、読むあてのない本をせっせと溜め込むのだから、あまり批判がましいことは言えないが。本来の役目を果たした、通常は廃棄するだろうというものまで、取りあえず何かの役に立つかも知れないからと取り込んでしまう。紙、布、テープ、板、ガラス製品、キャップ、その他正体の分からないもの、等々。中でもガラスや陶器の容器がいけない。カラスが光るものを集めるように、手当たり次第容器を溜め込むという行為は彼女らの本能なのかも知れない。

旅先のスーパーマーケットで陶器に入ったヨーグルトを買い求めホテルで食べた折り、なにやらしみじみ見ているなあと思っていたら、全部の容器を秘密で持ち帰っていた。旅行するときは1グラムでも軽くと知恵を絞っているのに、よりにもよって重たいゴミを私のカバンの隅に隠し込んでいたのだ。もちろん、きっといつか何かの役に立つだろうから、という理由からだった。

しばらくして、運良く絶好の用途が見つかったが、あいにくサイズぴったりの密閉する蓋がない。もともと紙で覆っただけの容器だったので、別途用意する必要があったのだ。そこで外周を描いた紙片を持たされ、これに合いそうな蓋があったら持ち帰るようにと言いつけられていた。しかし探してみると、容器の蓋なんて意外にないものである。店の人に訊いても、不思議そうな表情で「どういうものですか」と聞き返してくる。そもそも我々の社会では、廃品利用をサポートするようなシステムはないようだ。そう諦めていたところに、雑貨屋で偶然見つけた唯の「蓋」。喜び勇んで買って帰ると、あつらえたもののようにぴったりと収まった。ひとまずめでたし、ありがとうドイツ人、という気分なのである。

2010年3月15日月曜日

春の歌

春先の陽気に誘われて、自転車で隣町まで買い物に行く。クルマが滅多に通らない、住宅街の狭い街路をゆっくりとペダルを漕いで走る。垣根の日溜まりでは老いた猫が昼寝をし、その傍を子どもたちが駆け抜けていく。空に向かって咲くモクレンの花が神々しく輝いて、真っ青な空に浮かんでいるかのように見える。季節の巡る度に繰り返される命の営みの、なんと神秘的なことか。

隣町には小さな釦屋があり、そこで着古したカーディガンの釦を探した。だが、あまりにも種類が多く、混乱して暫く呆然としていると、静かな店内にジャズボーカルのBGMが低く流れているのに気がついた。ミリー・ヴァーノンの歌う"Spring is here"である。中年男にはもはや縁もゆかりもない清純な歌だけど、無防備に空いた心の隙間を優しく満たすような旋律だ。ぼんやりとその曲を聞きながら、釦屋のショーウィンドウ越しに、人々が軒先を行き交う光景を、どこか幻を見るような気分で眺めていた。

春を題材にした曲というと、わたしは"April in Paris"を真っ先に思い出す。春を迎える高揚感と、憂いや戸惑いの混じる複雑な感情が洒落たメロディで表現されている大人の曲だ。とりわけ、セロニアス・モンクのピアノで演奏されるそれが素晴らしい。静かで、孤独で、しかし飛び切り豪華な春である。それは、花びらが舞い散る夜桜に、一人酔いしれるという喩えでどうだろうか。歌が付いたものとなると、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングがデュエットしている"April in Paris"が素敵だ。もちろんエラは十分に申し分ないが、それ以上にサッチモの歌が冴えている。低く唸り、ため息を絞り出すような彼の歌声は、幾つになっても心を捕らえて放さない。

隣町での買い物をしたその日の夜、テレビでリスボンの酒場の様子を観る。彼の地では夜になると老いも若きも、ファドを聴きに酒場にやってくる。狭い店内一杯に客が詰めかけ、開け放たれた扉の外まで立ち見が出ていた。いつかはきっとと思いながら、未だに実現しない憧れのリスボン行き。私の一番好きな春の歌は、「ポルトガルの四月」、そしてもちろん、ファドの女王、アマリア・ロドリゲスで楽しみたい。

2010年3月8日月曜日

早春の伊豆


伊豆に出かけた。夕方に現地に到着したが、想像していた以上の暖かさで汗をかく。早咲きの桜はすでに満開であり、淡いピンクのグラデーションが周囲の景色を彩っている。海岸沿いを散歩すると、3月の風が花々の匂いを運んできて、ほのぼのとした幸福感に満たされる。踏切を渡れば、線路脇に黄色い菜の花とピンクの桜が揺れていた。


小道を抜けて少し高い丘に登ると、そこから急に視界が開けた。眼前に、夕日を浴びて、柔らかなオレンジ色に輝く大室山が望める。今はまだ枯れ草の山だが、あと一月もすれば若葉に覆われた苔玉のような美しい姿に変わるはず。伝承によると、大室山と富士山は姉妹で、美しい妹(富士山)ばかりが愛されたため、姉の大室山は不満を抱えて生きたという。だから、大室山に登って、そこから見える富士山を誉めてはいけないそうである。分別のある男ならば、そのくらいは当然弁えているだろうが、念のため。


その夜宿泊したのは、長年通う勝手を知ったいつもの旅館。部屋数が少ないので、いつ行っても静かであることが気に入っている。他の泊り客と滅多に顔を合わせないので、むしろ寂しいくらいかも知れない。この宿の露天風呂に浸かりながら、心ゆくまで読書をするのが、わたしのささやかな楽しみなのである。どうやって知ったのか、こんな小さな温泉宿にも中国系のカップルを多く見かけるようになった。都会的で洗練された物腰の、流ちょうな英語を話す中国の観光客たちを見るにつけ、苦しい経営を続ける地方の観光業界の人たちに、いくらでも繁盛の鍵は転がっていると励ましたいと思う。

2010年3月1日月曜日

電気ポット



このところ忙しいせいか、はたまた単にトシをとったせいなのか、今年に入って薬罐を空焚きするハプニングが立て続けに起きた。調理中なら問題はないが、他の用事をしながら、ふとお茶を飲みたくなって湯を沸かそうとしたときが危ない。先ほどの用事に戻って、湯が沸くまでの切りの良いところまでと思って集中しだすと、たちまち火に掛けた薬罐のことを忘れてしまう。今どきのガスコンロなら、すぐにセンサーが働いて自動消火するのだろうが、ウチのは丈夫だけが取り柄の旧式なので事故の原因には事欠かないのだ。

対策を話し合って出した結論は、これからも同種のハプニングは減ることはないだろうから、薬罐を止めて電気ポットにすべきだということ。電磁調理器に取り替えることも検討したが、電磁波の影響や、アンペア数の問題もあったので今回は見送りにして、取りあえずコストを掛けずに、最小限の変更に止めることにした。そこで学生の頃に使っていたようなアルミの簡単な電気ポットを探したが、そういうレトロなものは姿を消して久しく、その代わり妙な具合にカラフルなポットが幅をきかせていた。

そこで買い求めたのは、食堂にあるピッチャーのような形の、掃除がしやすく、ステンレス製の清潔感のあるポットだった。実用のものだから、遊びのない、出来るだけ合理的な形状のものが良かったのだ。実際の使い心地はどうかというと、湯を沸かすだけの単純な装置なので、本質的な機能という面では問題はない。ただ、ちょっと残念だったのは、全体として造りが甘く、少しちゃちな感じを受けることだ。だが、それも仕方のないことではある。実用品の世界では品質よりも価格が優先で、あげく何でもかんでも中国製の時代である。家電製品に、少々高くとも長もちする丈夫なものを望むのは、所詮は無いものねだりなのだろう。

結局のところ、せっかく買ったものだから口に出さないが、今までどおりの薬罐のほうが良かったと思っている。丈夫だし、単純だし、愛着もあった。今度の電気ポットだって、いずれ使っていれば慣れるだろうが、しかしその頃には壊れてしまいそうな気がしてならないのだ。そのときに備え、古い薬罐は大切に保管する必要がありそうだ。