2010年9月27日月曜日

休日の散歩



いつものように、いつもの道を歩く。先週は体の調子が狂って歩けなかったので、普段より余分に歩いた。この暑さ、もしかするとずっとこのままなのかしらと思った途端、いきなり秋本番である。蝉の声は途絶え、静まった緑道には時折鳥のさえずりだけが響く。久しぶりの静寂に、やっと夏が終わったという安堵感が沸いてくる。

緑道に沿うように小さなせせらぎが流れ、その土手の所々に彼岸花が咲いていた。猛暑の影響なのか、心なしか色に鮮やかさが足りないような気がする。赤い彼岸花と白い彼岸花が混じり合うように咲いている写真を一枚。本日の散歩のささやかな収穫である。

2010年9月21日火曜日

茶碗を買う



メンバーズカードを更新するか、ポイントを使ったのちカードを失効させるかという期日が迫り、悩んだあげく後者を選択した。何かのメンバーであるということが、微妙に心理的負担であったり、毎回貯まったポイントをどうするかで悩むのが嫌になってしまったのだ。クレジットカードは一枚でいいし、ショップのメンバーズカードだって持ちたくない。たまに、他人が財布を開て見せ、その中にお百姓の金歯みたいにカードがずらりと刺さっているのを見ると、まったく格好悪いと思う。それぞれのスタイルの違いに過ぎないのだと、ちゃんと自覚はしているのだが。

さて、それからが大変だった。ポイントを買い物券に交換してもらったのは良いけれど、敢えて欲しいものが見つからない。必要が生じたときは問題ないが、必要でないものを漫然と買い物するというのは、そういう習慣が全然ないので非常に困る。いくつかの店舗をぐるぐる回り、あれこれと手に取るがどうしても気持ちが動かない。無理もないのだ。メンバーズカードを作ったのは20年近く前。オジサン、オバサンとなった今では、感受性にもズレが出てくるものだ。

そして最後に入った店で、ようやく買い物をする気になった。それというのも、店員さんがとても親切で、釣りのでない買い物券が無駄にならないようにと、いろいろと相談に乗ってくれたからである。結局、選んだのは素朴な茶碗や皿など細々と数点。昔から使っている食器に飽きてきたので、ちょっと気分転換に良いかもしれないという考えからだった。

まるで地引き網のように

図書館を利用することが多くなった。本は自腹を切って読めと言われるが、如何せん何かと厳しいご時世である。何でもかんでもAmazonでポチッとやっていたのではたまらないし、それ以上に読む時間の確保が大変。それで数年前から、書き込みの必要がある本のみを購入し、ひととおり目を通せば済む本は借りるというルールを作った。新書の類などは概ね借りて済ませることが多く、目次を眺め、各章の結論部分を読んで、メモを取っておしまい。そしてメモするのが大変になりそうだと、そこではじめてAmazonのお世話となる。おおまかに言うと、「今」を知るための本は借りて、物事の本質を探る本は自腹を切って読むという感じだろうか。

所蔵している本を裁断してスキャナーで読み取り、必要に応じてパソコンで読むというのが流行っているらしい。なんでも、部屋の大半を占めていた本棚が消えて、たいそう清々しい気持ちになるのだそうだ。確かに本棚は場所を取るし、いつも繰り返し読む本なんてそうあるわけでなく、読んだらデータにしてパソコンに放り込むのがベストだろう。ただわたしには、そういう作業がひどく面倒で、それ以上に本をパソコンで読むというのが好きになれない。バランス感覚として、読書くらいはちゃんとした本でと思う。それに、自分の本は図書館に保管してもらっていると考えて、邪魔な本はリサイクルした方が合理的ではないだろうか。

そんなこんなで、わたしは図書館のヘビーユーザー。読みたい本があると、まずは都内3つの区立図書館に検索をかけてその蔵書の有無を確認する。だがこれがけっこう面倒。それぞれの図書館のホームページは、なぜかバラバラのデザインであり、操作方法も統一されていないからだ。そして最近知ったウェッブサービスが、「カーリル」である。事前に検索する図書館を登録して、借りたい本を「カーリル」で検索すると、自動的に各図書館の所蔵の有無を確認してくれるというサービスである。それだけでも有り難いのに、それに関連する本まで一気に検索してくれるという念の入りよう。仮にお目当ての本がなくても、それに近い本がリストアップされるので、待っている暇がなければそちらを予約するのだって悪くない。最初、このサービスを利用したとき、あまりの便利さに仰け反ってしまった。その破壊的な便利さを思うと「カーリル」なんて軽い駄洒落は似合わない。わたしだったら確実に、「超・地引き網」とでも名付けただろうと思う。

2010年9月8日水曜日

ヴェネツィア的

つい最近のニュースで、中国がGDPで日本を上回ったと報じられ、外国でもトップ扱いで報道されていた。いつかは逆転されるだろうことは分かっていたが、むしろ予想していたより時間がかかったという印象だ。実質的にはとっくに抜かれていたはずだが、為替が操作されているのでその分だけ遅れたのだろう。経済規模でおよそ1世紀ぶりの主従逆転ということである。

思うに、中国が経済分野の改革開放へ舵を切った時点で、この日が到来するのは必然だった。日本と比べ約10倍の人口、スクラップ同然の生産設備や社会資本、そして豊かさを渇望する人々。そこに巨額の資本を投じれば、ガソリンに火を点けるように、経済成長の炎が爆発的に燃え上がるのは明らかだった。戦争ですべてを失った日本やドイツが、その後急激な成長を遂げたのも同じ理屈。一定の条件が整えば化学反応が起きるように、どんな国でも似たような発展を遂げるわけである。物事が上手く回り出せば、あとは何もしなくても万事OK。急成長する国には、国民やリーダーたちの有能さは、それほど必要とされていない。

国民の有能さは、むしろ国の発展が止まり、傾いてきたときに試されるように思う。何を守り、何を捨てるのか。冷静に対応策を検討し、限られた手段を果敢に実行するしか選ぶ道はない。衰退し、縮小する国家では、国民がどれほど苦渋の選択をしたところで、決して喜ばしい結果など得られない。しかし、必要な施策を実行しなければ、更に悪い結果がもたらされるだけだ。そういう意味で、痛みしか伴わない不愉快な決断を、自らの責任でずっと選択し続けなくてはならないのだ。そして遠い将来、時間の経過という名の女神が微笑んだとき、ようやくその国民は有能だったと称えられるはずだ。

ちょうど1年前のエントリーで、政治に期待することを諦めたと書いた。国民自身が痛みを負わず、愚かしい時間稼ぎを模索し始めた時点で、もはや引き返せない道に迷い込んだと感じたからだ。リーダーに誰を選ぶべきなのか、その答えは用意されている。ただ問題は、今の時代にふさわしいリーダーが見あたらないことと、そういう人物を選ぶ有権者がいないということなのである。

ヴェネツィア衰退の時代、その当時の様子があまりに私たちの国と似ていることに、改めて驚いている。国民は変化を嫌い、生活水準を維持するために独身貴族が増え(適齢期の60%!)、外国で働くことをいやがるようになったとのこと。そして社会から自由な空気が失われ、不寛容な教条主義が蔓延ったという。