2007年6月27日水曜日

「善き人のためのソナタ」

「善き人のためのソナタ」を観た。徹底した管理社会だった旧東ドイツで、国民を監視する役人と、監視される人々を描いた映画である。現代の日本人には想像もできない抑圧的な社会で、自己の信念に忠実であることを運命づけられた芸術家は、いかにして創作活動を続けるのか。観客の興味は、どうしてもサスペンス的なストーリーに向けられるだろう。だが、ストーリーを追ううちに、登場人物の抱える問題が、自分自身の問題として意識せざるを得なくなる映画だ。

なぜなら私たちの社会も、旧東ドイツとそれほど違ってはいないからである。幸いこの国では、反体制を理由として拘束されたり処罰される不幸はない。しかし個人が社会的連帯を失い、孤立して、隣人や同僚はおろか家族さえも信頼できない、その寂しい社会のありようは、スクリーンの中に描かれた社会と同じなのである。国家の監視下におかれた劇作家は国民の自殺件数の多さを問題にし、危険を冒して政府を告発しようとする。翻って私たちはどうなのか。孤独死や自殺があまりに当たり前になりすぎて、この社会の異常に気づかなくなってしまっているのではないか。

映画のラストシーンは印象的だった。劇作家を密かに救った主人公が、美しい装丁を施された本を開くと、その扉には彼に対する謝辞が刻まれていた。そして、自分の仕えた国家が消滅し、残りの人生をひっそりと生きる初老の男に、正しいことを成し遂げたという静かな喜びの表情が広がる。観客は、宗教画を連想するような、その静謐なラストシーンのために、2時間半の重苦しい物語があったことを知るのだ。

この映画は、遠く過ぎ去った旧東ドイツの物語ではない。現在、私たちが暮らす、この社会の物語なのだ。見知らぬ他人に対しても人間的な関心を持とう、そして出来れば善きことを行う勇気を持とう。それはほかでもない、孤独な自分自身を救うことなのだ。いささか脱線気味のエントリーになってしまったが、善い映画とは多義的な解釈を許すものだ。そして、わたしとしては、この映画は、正しいことをしたいと願いながら、それを実行する勇気がなく苦しんでいる人たちにこそふさわしいと思っている。

ちなみに、劇作家役のセバスチャン・コッホが出演しているケストナー原作の「飛ぶ教室」も、心に残る良心的な映画である。

2007年6月23日土曜日

初夏の景色


真夏になったかのような週末の昼下がり、汗だくになりながらウォーキングした。あまりの暑さに、遊歩道の脇の水飲み場で、口を漱いで顔を洗う。ふと見上げると、真っ青な空に赤いムクゲがすっくと立っている。梅雨はいったい、どこに行ったのやら。



それでも夕方になると、どこからともなく涼しい風が吹いてくる。昼の間に水分が抜けて塩っぽくなった身体に、注がれた冷たいビールが旨いこと旨いこと。

2007年6月22日金曜日

夏至


航空機の事故について調べていたら、地震災害との関連を指摘している本があった。おおざっぱに言うと、双方とも特定の条件を充たす日に、それらは集中的に発生すると。その真偽を判定するため、出版された後の10年間を調べてみると、確かにそのような傾向はあるように見える。

そしてわれわれが日常的にもっとも関心の深い、大地震の発生可能性の高い時期は、
1 太陽黒点の極小期を中心とする約4年間で
2 日食観測後の約4年以内の
3 夏か冬(特に夏至か冬至近辺)で
4 23日周期の特定の期間
ということのようだ。ちなみに兵庫県南部地震などは、まさにその条件にぴったりと当てはまる日に発生している。そして今年の夏も、大当たりとは言えないまでも、相当程度条件を充たしている。

そのようなわけで、慌てて我が家の地震対策を再点検。避難グッズや備蓄飲料水の備えは大丈夫。しかしタンスや棚の転倒防止策が心もとないので、ホームセンターに駆け込んで、転倒防止器具をいくつか買い求める。はた目には滑稽に見えるだろうが、震災の犠牲を決して無駄にしてはならないと思うのだ。

夏至だからキャンドルナイトというわけでなく、押し入れの奥で眠っていた災害時のローソクを出してきて、きちんと使えるか点検しただけ。これが役立つ日のやって来ないことを願いながら、小さく揺れる光を見つめた。

2007年6月18日月曜日

石鹸受け


ずぼらでいい加減な人間でも、ひとつやふたつ、こうでなくてはならないという掟がある。わたしの場合、それは水回りなのである。例えば、台所のシンクや洗面台などが、水を受けたまま放置されているのは気持ちが悪い。それらを使い終わった跡は、水滴を残さないよう拭き取っておきたい。そして脇に置いてある石鹸受けは、いつだってサラリと乾燥した状態であってほしい。容器の中で水が抜けずに、半ばドロドロになっている石鹸などは、見るのも嫌なほどである。

だから石鹸受けには、悩まされてきた。気に入ったものに出会えなくて、いままでいくつ買ったのか覚えていないほど、頻繁に取っ替え引っ替えしてきた。そして最近、ようやく納得できたのが写真の石鹸受けなのである。丈夫なステンレス製で、石鹸を受ける皿の位置がわずかに高い位置にあるのが味噌。水の飛沫を受けることが少なく、風通しもいい。そしていつでも簡単に洗えて、見た目も清潔。ただひとつだけ、小さくなった石鹸が時々滑り落ちるのが欠点か。それを含んで、合格点をあげたい製品である。

2007年6月15日金曜日

夕焼け


学生の頃、小さな本屋のおやじになりたいと口にしたら、君は出世するタイプじゃないものなあと笑われたことがある。実際、周囲にはそんな気の抜けたような願望を持った者はおらず、ほとんどは現実的な目標を持って着々と努力していた。そして、わたし自身もそれはそれとして胸の奥底にしまい込み、いちおうは真っ当な生活をしてきたつもりだ。

その元小さな本屋のおやじ志望者は、今では実務的な本に追われて、目新しい小説を読む心理的な余裕がない。もしつまらなかったら時間の無駄だと思って、つい新しい作家のものは敬遠がちになるからだ。だから馬鹿みたいに無駄な時間を過ごしていた頃に読んだ本を、読み返すに値するものだけを選んで、少しずつ楽しむというのがこの何年来の読書スタイルになっている。

そんなわたしが、最近立て続けに読んだのが、吉田篤弘の小説である。ストーリーに特段の起伏があるわけでなく、美男美女の登場しない、ありふれた普段着の人々のお話である。でも、面白い。読み手の世界と、小説の世界が、半クラッチの状態でつながり、坂道の途中で停止しているような感覚。小説の回転振動が、日常生活からほんの少しずれた心地よい世界を伝えてくる。もちろん虚構に過ぎないとわかっているのに、自分はこんな世界を望んでいたのだと、しみじみと思い至る小説だった。

あなたに似た人たちはこんな小説を読んでますよ、と教えてくれたアマゾンには感謝しなくてはならない。

「それからはスープのことばかり考えて暮らした」
「つむじ風食堂の夜」

2007年6月13日水曜日

午睡の街


露天風呂に浸かってきた。まだ蚊の出現しない、入梅前の、日差しの明るいこの時期は、読書しながら半身浴を楽しむのには最高の季節。温泉の点在する林の中は鳥のさえずりでうるさいくらいだが、温かい微風と木漏れ日に包まれ、ぼんやりと湯に浸かっていると、すべてのことが許せる気分になる。ご苦労さん自分、ってやつだ。

温泉に持ち込んだ本は、ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」。100年以上も前の日本の印象が綴られている本だが、現代人の我々からすると、この世に存在しない惑星を描いたSF小説を読んでいるようだ。もちろん多少の誇張もあるだろうが、しかし「妖精の住む国」と形容したハーンの日本への愛情は偽りのないものだったのだろう。

宿に泊まった翌日は、紫陽花を見に下田まで足を伸ばす。観光シーズンとはいえない時期のせいか、街はひっそりと静まり返っていた。たまにすれ違う人たちも、カメラ片手の年配の観光客くらい。みんな誰かに遠慮するように、小声で会話しているのがちょっと変。それでも他の地方都市と比べれば、観光客が来る分だけ、ずっと活気があるといえる。

紫陽花の群生する小高い丘に登り、穏やかな入り江と昼寝をしているような古い街を眺める。時折風の向き加減で、不意に調子外れの紫陽花音頭が聞こえてくる。どうと言う訳もなく、なんだか蜃気楼を見ているようで、無性に侘しくなるのだ。

2007年6月1日金曜日

めいし

名刺を作ることになった。個人的な交友関係で使うためのものだ。これまでは無地の台紙にゴムのスタンプを押して、名前や住所を手書きするという素朴なものだった。しかしその作業が面倒になってきて、思い切って専門業者に作成を依頼することにしたのだ。

普段の顔つきが厳しいと指摘されたので、できるだけ柔らかさをアピールしたい。だからわずかにクリームがかった、手触りの優しい紙を選ぶ。日本語の読めない人用に、アルファベット表記をいれる。文字の配列は個性的に、しかし風変わりとは受け取られない範囲で。そして視力の弱い人にも読みやすいように、活版を使い墨で印刷することに決定。

印刷所で、これまで作成した人たちの名刺を見せてもらったのだけど、皆さん小さな紙片の中に、いろいろと試行錯誤の跡が見て取れて非常に楽しい。クリエーターさんの依頼が多く、どれもこれもセンスのいいものばかり。このなかに自分の一枚が入るかもしれないと思うと、校正にもそれなりに気合いが入るものである。