2009年4月28日火曜日

予行演習

先週末、ネットで第一報に接した後、すぐさま予定の行動をとった。アマゾンにマスクと消毒スプレーを注文し、残り少なくなっていた乾麺などを買い足す。状況からすると、大騒ぎするような段階ではないと思うが、予行演習のつもりで自分で決めたルールを淡々と実行している。

ニュースを見ていると、この時期に海外旅行する人がいることに驚く。用心のためにマスクをなんて話しているが、帰ってこれなくなる場合も考えられるのに暢気なものだ。わたし自身も杞憂に終わることを願っているが、なんでも都合のいいように事は運ばないものだということを、自分に強く言い聞かせている。

2009年4月25日土曜日

「物語 フランス革命」

歴史には、自分ではさほど苦手意識はないつもりだが、ちゃんと理解しているかというと甚だ心許ない。年号や固有名詞は知っていても、その有機的な繋がりとなるとさっぱりである。だからといって生活に不便することはないけど、知っていれば何かと楽しいことも多いのではと。この際、古い記憶が消えてしまう前に、歴史の知識を再インストールしようと思った。

手始めに世界史上の最重要事項からと言うことで、取っ付きやすそうなフランス革命を選ぶ。教科書的な説明ではもはや頭に入らないので、物語風のコンパクトなテキストを探したところ、書評で「物語 フランス革命」という新書が推薦されていた。ルイ16世の改革から始まって、ナポレオンの登場に至るまでの約10年間の革命史を簡潔に解説したものである。

読んでみると、これが思いのほか出来がいい。著者は限られた分量ながら、市民革命の登場人物たちを、生き生きと描写することに成功している。それは単なる史実でなく、革命に翻弄される生身の人間の振る舞いであり、読み進みながら、この混乱の中で自分ならば如何にして家族を守るだろうかを想像した。「お勉強」を超えた、歴史上の想像の世界に遊ぶ。それがまさに、歴史を学ぶ醍醐味であろう。

巻末には、本書に取り上げられた歴史が、簡単な年表としてまとめられている。1774年、ルイ16世が20歳で即位して、89年にバスティーユ襲撃が起き、92年に処刑され、そして1804年、ナポレオンが35歳で皇帝に即位する。その30年間に様々な人たちが登場し、文字通り命がけで生きて、そして歴史の舞台から去っていった。フランス革命とは、幾度でも鑑賞したい、まさに壮大な人間ドラマである。

2009年4月22日水曜日

客の礼儀



地元の友人たちと食事会を催すとき、いつも困るのがレストラン探しである。おいしくて、安くて、席数が確保できて、そして自転車で帰れるくらいの近場でということになると、それに当てはまる店を見つけるのは至難の業だ。悪いことに料理には詳しいと誤解されているので、期待を裏切らないようにしようとして、なおさら辛くなる。

しかし全然ないかというと、そうでもなく、たとえば本格的な東南アジア料理を安心して楽しめるレストランとかはある。しかし、そういうのになると頭から拒絶反応を示す人もいたりして、せっかくのチャンスなのに勿体ないことだと思う。そうなってくると無難にマスコミなどで頻繁に取り上げられる中華とか西洋料理の店とかになるが、内容的にとうてい納得できない店が多くて、早々に行き詰まってしまうのが常なのである。

古い話になるが、近所で評判の高かったレストランがあって、人に勧められて初めて食事したときは大満足だった。そしてしばらくしてから再び訪ねると、看板は同じなのに全然別物になっていて驚いた。そんな体験をあるところで漏らしたら、その場にいた数人が、ああ、例の料理ショーに出演して有名になった店だねと簡単に言い当てた。それからずいぶんと時間がたち、インターネットでは相変わらずの人気店であることは窺い知れるのだが、果たしてあれから経営方針を変えたのだろうか。

美味しくもないのに、美味しいというのが変だと言っているわけではない。味覚なんていい加減なもので、空腹こそが最高の調味料だというではないか。そうではなくて、あたかもレジャー施設にでも行ったような感覚で、あれこれと無邪気に論うことで店の評価が左右されることに、強い違和感を覚えるのだ。ましてや食べ物に対してA級だのB級だの、軽いお遊びなのはわかっているけど、ちょっと感情的に受け入れられない言い回しが当たり前になっている。真剣に料理に取り組む人たちに対して、暖かく真面目に応援するのが、客としての最低限の礼儀だと思し、そうでないと客から巻き上げることしか考えないふざけたレストランばかりになってしまうのではないかと心配なのだ。

今日から連載の始まったこの記事を読んで、いろいろと思い当たることがあり、感想めいたことを書いてみた。
写真は、鶏を丸ごと漢方薬で煮て、素麺風の麺を浸けて食べるという料理。日本では決して味わえない、不思議な一品だった。

2009年4月19日日曜日

「ロング・グッドバイ」

村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を、絶対に読まなくてはと思いながら2年が過ぎた。というのも本書がA5版でしかも分厚いというのがネックになってしまい、そもそもミステリー小説は手軽にどこででもページを繰ることができなくては読もうという気にならないのだ。ところが最近になって、ポケミスのサイズになった新装版が刊行され、ようやく本書を手に取ることができた。

今ごろ「ロング・グッドバイ」の感想を書いてもつまらない話だが、世評通り文章の流れが良く、それでいて丁寧で、時代の違いもあるとはいえ、やはり清水俊二訳よりずっと出来がいい。清水訳で腑に落ちなかった箇所も、村上訳ではすんなりと理解できたし。村上春樹が言うように、やはり翻訳物は四半世紀に一度は見直す必要があるのかもしれない。先日読み返した「クローディアの秘密」もそうだったけど、いまでは明らかに使われない言葉を、それも当時の感覚からしても造語めいた言葉を放置するのは、やはり怠慢だと思うのである。

これほど熟れた翻訳なら、ほかの村上チャンドラーも読みたいと思ってたところ、おっと出ました最新刊!「さよなら、愛しい人」。タイトルも現代風になり、清水訳の読後ずっと違和感がとれなかった「大鹿マロイ」は、すっきりとムース・マロイに改名されていた。慌てて図書館に予約を入れると、運良く2番をゲット。これで連休は退屈しないで済みそうである。

2009年4月14日火曜日

「クローディアの秘密」

大貫妙子の「メトロポリタン美術館」を聴いていて、歌詞の描く情景に懐かしい既視感を覚えた。バイオリンのケース、トランペットのケース、トランク代わりに出発だ♪気になって調べると、やはりあった。カニグズバーグの児童小説、「クローディアの秘密」である。

あらすじは、12歳の少女が弟を連れて家出して、メトロポリタン美術館内に潜伏するが、そこで天使の彫像に関心を持ち、作者の秘密を解き明かすという内容。といっても謎解きがテーマでなく、いわば家出少女の成長物語。上質な児童小説だが、大人でも十分に楽しめる、洒落た都会派小説でもある。家出を幾度も計画して、それが夢のままに終わった人に読んでもらいたいし、そうでなくとも、たとえば美術館の収蔵品を一晩だけでも独り占めにしたいという野望を抱えている大人にも薦めたい。そんな小説だ。

それでちょっと思ったが、子どもの成長に冒険や秘密を持つことが欠かせないのならば、家庭という場所は、子どもにとって居心地のいい場所とはいえないくらいの方が理想的なのかもしれない。映画「スタンド・バイ・ミー」でも、少年たちの家庭は決して幸福なものではなかったし、それが仲間の結束と強め、冒険の原動力となった。子どもを育てるということは、親を含めて周囲がどうこうできるものではなく、子ども自身の生命力で殻を突き破るのを、じっと待ち続ける作業なのだろう。

2009年4月13日月曜日

LED照明


自転車にダイナモを取り付けるのが嫌で懐中電灯を使っていたが、ペダルが軽い代わりに電池の消耗が早いのが頭痛の種だった。そこで出始めたばかりのLEDのライトに取り替えると、あまりに電池の持ちがいいのにびっくりしてしまった。ただ発光色が青白く冷たい感じがするし、そのうえ目を射るような眩しさだったので、すれ違う人に遠慮して点灯していた。いまでは普及が進み、クルマにまでLEDライトが装備されるようになったが、これが室内照明として使われるのはまだ先のことと思っていた。

ところが今年になって室内照明にも十分使えるまでになったという話を聞くようになり、またぞろ新しもの好きのムシが騒いだ。そして、駄目だったらどうしようかと心配しつつ、しかしもはや好奇心は抑えられず、エイヤッとばかりにLEDのデスクライトを注文したのが数週間前のこと。ようやく届いたブツを、組み立てるのももどかしくスイッチを入れると、おおっ、良いではないか!青白くもなく、眩しくもなく、蛍光灯の光とほとんど変わりがない。事務的な仕事や読書したりするに、ちょうどいい感じである。

このデスクライトで一番気に入った点は、省エネとか長寿命というコスト面のことではなく、照明器具としては非常にコンパクトだということにある。以前にも自在アーム式の蛍光灯を使っていたが、頭部が重くて思ったような位置に照明を固定できなかった。加えて、すぐ目の前に大きな照明がぶら下がっているというのは、やはりかなりの圧迫感があった。しかしLEDの採用で器具が小さく軽くなっため、照明を自由自在に固定できるようになったし、また目障りにもならなくなった。とりわけ今回選んだ製品のデザインが、薄い羽のような形状をしているため、照明器具の存在を意識することすらなくなった。こういうことは実用性からは些細かもしれないが、身の回りに道具をのさばらせたくないという人にとっては、けっこう革命的なことだと思うのだ。

2009年4月5日日曜日

大貫妙子の歌

オッサンは、電車の中ではイヤホンして目を瞑っている。何を聴いているのかと興味を持たれることもなく、車内の吊革ほどの関心さえ払われない。だから、気分はとても自由。できることなら缶ビールを片手に、このまま終点のずっと向こうまで揺られていきたいと、ときどき思う。

このごろ、突如として大貫妙子のうたを聴き始めている。若い時のはちょっとつまらなく感じていたけど、年輪が加わってからのがいい。表現が多彩で、それぞれが深く咀嚼され、加えてどこか冷めて余裕のある様が、オッサンの年頃とちょうどいい距離にある。決して夢中にはならないが、だからといって知らん顔するわけでもない、まあそれが大人の付き合いだよと言える程度のものだ。

いま、携帯プレーヤーに入れているのが「ensemble」というアルバム。たとえば神社の長い階段を登り、最上段に到達してから後ろを振り返ると、その下に広がる黒い瓦屋根が濡れたように光り、吹き抜ける風がなんともいえず清々しい。そんな誰もが体験する、小さな感動をふいに思い出させる、そういった種類の音楽である。

なかでも、Rendez-vous なんか聞いていると、小高い丘がどこまでも広がっているスペインの平原を、特急列車で突き抜けていくような、穏やかで満たされた気分になってくる。いつか行かなくちゃと思いつつ、どうしても時間が取れなくて、仕切りにため息の増えるこのごろである。いわばオッサンの煩悩というやつだ。