2010年7月31日土曜日

収穫と加工


めっぽう暑い日が続いたせいで、今年はバジルがよく茂る。食べる分をはるかに超えて、どんどん若葉が伸びていく。あまり茂ると、今度は通気が悪くなって蒸れたり、虫が付いたりして、かえって世話の手間がよけいに掛かる。

ちょうど頃合いを見計らって、今朝はバジルの刈り取りを行った。ほんの少しだけ葉っぱや芽を残して、あとはばっさり切り落とす。収穫したものは、そのままミキサーにかけてペースト状に加工する。台所はバジルの匂いでむせ返るようだ。ペーストは袋に入れて、薄く板状に延ばし冷凍庫に入れればOK。1年くらいは余裕で保つ。

写真は冷凍して1時間くらいの状態。大ザルに山盛りだったバジルが、薄い板2枚になった。

2010年7月28日水曜日

靴ベラ


旅行にはくたびれた靴を履いていく。履き慣れているので、靴擦れなどのトラブルの心配がないからだ。しかし単なるボロ靴では困ったことになるので、事前に十分な手入れをしておかなくてはならない。旅行中に良さそうな靴屋を見つけると、何はともあれ店内を物色する癖があるからだ。何しろ相手は足元を見るプロ、靴の手入れすらできない一見の客に真剣になるはずもないだろう。だから、店の扉を開き一歩足を踏み入れる時が一番緊張する。

世間的に有名な靴屋は苦手なので、現地で評判のいい靴屋の所在を聞くこともある。すると、たいてい自分が日ごろ贔屓にしている店を紹介してくれる。価格は控えめだが、品揃えのしっかりした個人商店がほとんどだ。そこで時間をかけてじっくりと、店の中を何度も往復して、自分に合う靴を探す。決して焦らない。ようやく絞り込んで「この靴がいいな。」というと、「実は私のお気に入りなんですよ。」と微笑んで自分の足元を、ほら、と見せる。買い物というのは、何を買うかではなく、どのように買うかが大切だと確信する瞬間だ。

イタリアのとある町で、靴と一緒に求めた靴ベラが、突然折れてしまった。その物静かな老店主は、靴のサイズも聞かずに、最初から私にぴったりの靴を差し出し、それだけで私はすっかり観念したものだ。夕日の差し込む長細い店内の両側には、天井までぎっしりと靴箱が積み上げられ、靴の歴史の違いを無言で示していた。そういう旅の記憶が付着した靴ベラなのだ。折れた部分にヤスリをかけて滑らかにし、ドリルで穴を穿って、そこに水牛の革紐を通してみる。微妙にいい感じに仕上がった。

2010年7月18日日曜日

バーゲンセールの買い物


夏恒例の、ショッピングセンターのバーゲンに駆り出された。以前はバーゲン期間中は混雑が酷くて、そもそも男の立ち入るような雰囲気でなく、呆然とベンチに座っているのはポーター役のおっさんばかりで、お互い顔を見合わせては苦笑いしていたものだった。ところが最近はそれほどでもないらしく、日が落ちてから出向いてもぜんぜん遅くはないらしい。「らしい」なんて他人事みたいな表現だが、なにしろポーターだから、バーゲン事情にはとんと疎いのだ。しかし傍目にも、買い物客の荷物が少なく、景気のよかった頃の休日の賑わいにすら及ばない様子なのだ。駐車スペースだって、不思議なほど空いている。時々、平日の夜ひとりで、ショッピングセンター内の書店に立ち寄るのだが、あまりにも静かで商売は大丈夫なんだろうかと心配になるほどだ。

我が身を振り返れば、さもあらん。20代の頃は、ここのバーゲンが楽しみで、服だの雑貨だのけっこうな数を買っていたものだけど、最近は特に欲しいものがあるわけでないので、よほど気に入ったものでない限り食指が動かない。せいぜい文房具屋で足りなくなったものを補充したり、食料品の特売を探したりする程度。そして昨夜の買い物もそういう感じで、なんだか消費不況の後押しをしているようで申し訳ない気持ちになる。

そんな中で、ほとんど唯一、これが欲しかったんだよなという買い物が、ホーローの漬け物容器。前回のエントリーでぬか漬けのことを書いたが、使い古しの小さなタッパーを使っていたので不便で仕方がなかったのだ。で、バーゲンになったらきっと安くなるだろうからと、昨日までじっと我慢していたというわけだ。冷蔵庫に保管できて、それでいて十分の大きさがあることが漬け物容器の条件だった。写真は、古い容器から糠床を移し替えたばかりの新しい漬け物容器の様子。さすがに新品の容器で漬け物をさくさくと仕込むのは気分が良く、これから糠を足していって今まで無理だった大きな野菜を漬けてみたいと思っている。

2010年7月14日水曜日

ぬか漬け

散歩コースの途中に、若者や旅行客で賑わう街があり、週末ともなると大混雑するので、できるだけ迂回するように歩いている。しかし月に一、二度は米を買うために、その街に立ち寄ることになっている。たかが米、近所で買えばすむ話だが、そこの店では格安の玄米をその場で精米してもらえ、それがブランド米じゃないが結構美味いのだ。もともとわたしはブランド化した商品が嫌いなので、無名だけど良心的な品を商う店を大切にしたいという気持ちが強く、その結果ひどく遠回りな買い物をしているわけである。

そしてもうひとつ、精米した後に出る米ぬかを貰えるということが、そこでの買い物の動機になっている。何も言わなければ使い切れないほどくれるので、いつも少しだけ下さいと言い添えている。そして精米時に出る熱でほんのり暖まった新鮮な糠を一袋もらい、さて今夜は何を漬けようか、スーパーで旬のお見切り野菜が手に入ればいいな、などと考えながら家路に着く。

糠床の世話は当初は妻がしていたが、それがいつの間にかこっちに回ってきて、今ではすっかり糠味噌臭いオヤジになりはてている。漬ける材料は、従来なら捨てていた葉ものや芯の部分とか、冷蔵庫の隅で古くなった根菜とかで、なにか台所のリサイクル事業のような感じである。そういえば、街の駅前にある闇市の雰囲気の残る一角に、その時代から商売をしていた老婦人の露天の店があり、よくそこで自家製のぬか漬けを買ったものだ。雑多な野菜で見栄えは決して良くなかったが、滋味深い味の漬け物だった。最後にそこで買い物をしたのがいつだったのか、遙か遠い以前のような気がする。

何キロも歩いて買い求めた米の炊きたてのご飯と、自分で作った野菜のぬか漬けが食卓に並ぶ。お金は掛かってないが、時間だけはたっぷりと掛けている。これが揃えば不思議と満たされるのである。

2010年7月13日火曜日

入力より出力

ニンテンドーDSで英語の勉強を始めてから、すでに2ヶ月が経過した。2巡目の学習も概ね終了して、それと同時平行して3巡目の学習をスタートさせている。これまではディクテーションを中心とする学習だったが、習得すべき水準がそれほど高くないこともあり、順調に課題を消化することが出来た。しかし3巡目も同じ方法では、従前の緊張感や向上心を保つことが難しく、そのため今度は違ったやり方を試すことにした。すなわち、ディクテーションの出題から英語の音声を消して、画面に表示される和訳文を英訳することで、実質的に英作文の練習にすり替えてしまうのだ。

ディクテーションは、要は音声を聞いて書き取るだけだから、そういう意味では単純作業だ。しかし英作文になると、たとえばいくつかの同義語の中から、どれを選べば適切なのかという判断が必要になり、従って英語のより広い知識が必要になる。そして仮に、自分の解答が正解と食い違っていたときは、出題者はなぜその表現を正解としたのかを、納得のいくまで理解しなくてはならない。簡単なテキストを素材にしながら、より発展的な学習が出来るわけだ。更に、そのテキストを土台に疑問文を作成したりするなどして、内容の異なる文章を作ってみる。わたしの場合、旅行中に出くわす様々な場面を想定して、そのときに使えそうな文章を考える。これらの作業を通じて、出力側を重視した英語学習が可能となるだろう。

先日読んだ内田先生のブログに、語学学習のヒントになるテーマが取り上げられていて、そこには「勉強はいくら詰め込んでも無駄、使ったもの勝ちだ」と述べられていた。その見解には、とても共感できる。これまで、立派な経歴がありながら実地はさっぱりという人がいる一方、ちゃらんぽらんな英語なのにきちんと意思疎通が出来ている人をたくさん見てきた。わたしの目指すのは、もちろん後者。人生は限られているし、それに難しいこと言ったって、相手が理解できなければ無意味だからね。

2010年7月6日火曜日

ハロー・ドーリー!



夕食はたいてい夜遅く始まり、酒を飲みながらダラダラと楽しむ。食事のお供は、ビデオレコーダーに溜め込んだ雑多な映像。適度に短く、見た目のきれいなものが好みだから、ほとんどが旅行系や美術系のドキュメンタリーである。たまに気が向くと、古い映画の名シーンなども細切れに鑑賞する。映画は何度も見ているので全部見る気は起きないが、好きなシーンだけを短く、酒の肴代わりに、ああだこうだと勝手なこと言いながら見るのもまた楽しい。

このところ度々観ているのが、バーブラ・ストライサンドの「ハロー・ドーリー!」。主人公が、馴染みのレストランに再び戻ってきて、店の人たちに挨拶をするシーンがことのほか気に入っている。作品全体としては、若干長すぎてまとまりを欠くきらいがあるが、このシーンが映画のすべてだといっていいくらい素晴らしい出来なのだ。その中でも彼女とサッチモとの掛け合い部分が素敵だ。双方ともに文句のつけようがないくらい、完璧な掛け合いなのである。

この映画の背後に隠れた、もう一つのテーマも悪くない。主人公が劇中で呟く。「お金は肥しのようなもの。若い芽を育てるために使われなくてはならないの。」まったく、この意見には全面的に賛成だ。わたしたちの国では、これから老人たちの影響力がますます強くなり、それに合わせて少数派である若者たちへの皺寄せも酷くなっていくだろう。せめて、将来もっとも不利益を被る若年層のために、選挙権の年齢引き下げるくらいの配慮があってもよかったのではないか。また相変わらず議員定数の不均衡問題も是正されたとは聞いていない。解決困難な問題と直面する時代だからこそ、声の小さな者たちが不利益を押し付けられないよう、政治的公平さを実現する必要があるのではと思うのだが、そういうことすらまったく期待できない政府に苛立ちを覚えている。

100年の人生

テレビCMで”人生100年”という言葉が出てきて、ちょっとびっくりしました。数年前から、100年を前提に人生設計すべきということが語られるようになってきましたが、もはや常識のレベルにまで上がってきたということでしょうか 人が当たり前に100歳まで生きる時代が到来するなんて、少し...