2010年8月24日火曜日

雑感


4月も終わろうかという日に、薄手のコートを着て散歩した。雨が降ったり止んだりで、手が冷たくなる寒さだった。松陰神社に立ち寄ると、境内はまだ桜の花が満開で、こりゃ今年は絶対に冷夏だと確信したものだ。そういえば前回政権交代が起きた年は「平成の米騒動」とか呼ばれ、普段なら高くて買えないタイ米をお腹いっぱい食べられて幸せだったことなども思い出した。また今秋もタイ米が食べられそうだと楽しみにしていたのに、やはり下手な予想は破られるためにある。とんでもない猛暑だ。

炎天下を歩き回った休日だった。小さな布袋に、コップ数杯分の水とタオルと小銭を入れて、帽子を被り、首にはガーゼのマフラーを巻くという出で立ち。いつもならば歩き疲れたところで電車やバスに乗って戻ってくるという片道コースだが、汗まみれになることが分かっているので、先に電車でゴールに行き、そこから家に戻ることにした。

用心して出来るだけ緑道を歩き、そうでないところは日陰を通り、途中でたびたび水分補給したけど、途中から首筋のあたりが重くなってきた。これはまずいと考え予定コースをショートカットして、早めに帰宅したのだが、夕方まで軽い頭痛と付き合うはめになる。猛暑は絶対に体に毒、恒例の野球大会をそんなコンディションでゲームさせるなんて、どう考えても乱暴な精神主義だと思うが、大マスコミと世間様には通じないのだろうか。


あまりに疲れ切って、食事を作る気力が萎えてしまい、その夜は手抜き料理にした。余り野菜でマリネを作り、プランターのハーブをかき集め、半年以上も冷凍していた生ハムを解凍して一丁上がり。もう、ビールの当てになるなら何でも良いという気分でこしらえた。

2010年8月17日火曜日

暑い夜

今日はとんでもなく暑い日だった。日が落ちて、冷房の効いたビルを出ると、ズボンが妙に熱くて仕方がない。体の方は冷えているのに、ズボンが熱した外気にさらされ、それで皮膚が過剰に熱く感じているのだろう。こういうのはあまりないことだ。

帰宅途中に食品スーパーに立ち寄ると、いつも清潔にしているため気にならない臭気が、きょうに限ってとても臭う。これだけ暑いと、ほんのわずかな食品の匂いや雑菌が、湿気と相まって強い臭気を発する。普段は客で混雑している時間なのだが、酷暑だったせいか店内はいつになくガランとしていた。食材を物色するが食欲がわかず、液体のパン、つまりビールと簡単な総菜を買って帰宅した。

今夜は送り火があった。大文字送り火を最後に見たのは二十歳の時だった。当日は諸般の事情で帰省できず、下宿近くの銀閣寺道あたりから缶ビール片手に、人混みに揉まれながら一人で見物した。京都では祇園祭から盛夏を迎え、送り火の頃から涼しくなると言われていたのに、その夜は少しも涼しくなく、今夜と同じく夜通し蝉が鳴き続ける蒸し暑い夜だったことが昨日のことのように思い出される。肝心の送り火だが、大文字は近すぎて形がよくなく、むしろ遠くの舟形が綺麗に見えていたように記憶している。

深夜零時だというのに、まだ30度を切らない。アメダスによるとこの時間、この付近一帯が全国で一番暑い地域である。我を張らず、さすがにクーラーを付けて寝ようかと思う。

2010年8月15日日曜日

スプーン


パレートの法則、あるいは80:20の法則は雑貨にも当てはまる。必要なものしか持っていないはずなのに、使わないものが意外とたくさんある。たとえば、うちの場合は「鬼おろし」がそれで、最初の内は喜んで使っていたのに今ではぜんぜん出番がない。だからいま、目の前から消えてなくなっても、痛くもかゆくもない。逆に、ごく少数の調理道具や食器たちは毎日のように登場する。鍋釜、包丁、茶碗の類だ。つまり、なくなると途端に日常生活に不便をもたらすキラーツールである。それら全体の2割の雑貨が、日常生活の8割以上を支えているというわけだ。従って、快適な日常生活を維持しようとするならば、この2割の雑貨のことだけ気に掛けておけばいいという理屈になる。

さて、この2割の雑貨だが、出番が多くて消耗が激しい。だからよほど丈夫であるとか、いつでもどこでも手に入るというものならば、安心して使って大丈夫だが、逆にそうでないものは、常に消耗を見越して次のものを探しておく必要がある。ところがそういうものに限って、代替性に乏しいのである。こういうのも、きっと何とかの法則と呼ばれているのだろう。

写真は、我が社のエース、もとい我が家のエース、単なる木製のさじ。既に勤続20年が過ぎて、あちらこちら傷んできているのに、未だに後継者、もとい代わりのものが見るからないでいる。機会があれば探しているし、実際にいくつも購入もしているが、これがまったく駄目なのだ。先日も、ちょいとコジャレた食器屋で木のさじを探していたら、ちかごろ人気急上昇の作家ものを勧められた。名前は知っていたが、予約が多くてなかなか手に入らないとのこと。それでサンプルを実際に手にとってあれこれと触ってみたが、想像していたのと違って気に入らなかった。なにしろ口に運ぶわけだから、見た目が素朴なだけでは困るのだ。適切な大きさ、口当たりの柔らかさ、柄の部分のくびれやカーブなど、持っていることを意識させないくらい軽やかなデザインであることが条件なのである。

それにしても、例の作家ものは一種のバブルじゃないかなあ。いや、ご本人の作品のことではなく、人気の方がね。それほど普遍性があるとは思えないのだ。

2010年8月12日木曜日

夏休みのメニュー


夏休みを取っている。世間一般の中年男と同じで、だからといって何か特別な楽しみがあるわけでない。せいぜい部屋の片付けをしたり、読み残しの本を積み上げて溜息を吐いたり、昼間に冷たいビールを飲んで昼寝するくらい。暑いので、外出するのも億劫なのだ。確かに、おもしろくも何ともないが、そのつまらない平穏さが素晴らしく貴重に思える昨今である。

ただ、ちょっと困るのは三度の食事。「ちゃんと美味しいのを食べるのよ。」と言い残して彼女は出かけて行ったが、この歳になると外食はけっこうパワーが要る。そうかといって自分のだけ、一人分の食事を作るのも大変だ。元来大食でないので、必要な材料はほんの少し、これをスーパーで調達しようとすると買えるものがあまりない。結局はワゴンセールのお見切り野菜の詰め合わせを豪腕の奥様方と争うことになる。傷んだ外葉が除かれ小さくなったレタスとか、腕をもがれたセロリとか、見かけに文句がなければいろいろと入ってお得なのである。

昨夜の買い物で、大きなパプリカが入った詰め合わせが目についたので、即断即決でワゴンの中から奪い取った。サラダにするには、ちょっと皺っぼくなっていたので、網で軽く焼いてからマリネにする。先日レストランでもっと上等のが出されて、それが美味しかったので真似てみたのだ。味付けはパプリカの甘みが引き立つように塩胡椒のみ。これは生で食するよりずっといける。それから、袋の中にはナスが入っていて、こっちは、いつものようにトマトソースを使った簡単グラタン仕立て。あとは映画とワインがあればもう十分、ほかに何が要るというのだろうか。

2010年8月11日水曜日

アイリーン・クラールのCD


残念なことに、この人の歌には華やかさがない。多くの観客を熱狂させるカリスマ性もない。若くもなく、そしてたぶん、すれ違う人の視線を奪う美貌にも乏しい。しかし、歌の華やかさや、歌手のカリスマ性とか、移ろいやすい容貌にさほど関心がない人たちにとって、彼女の歌には、それ以上に大切なことすべてが含まれていると感じることだろう。

華やかさの代わりに、一つ一つの言葉を巧みに歌い分ける知性とテクニックがあり、その歌はモノクロの美しい短編映画を見ているようだ。大衆受けしないのは、むしろこの歌手への勲章となるだろう。いつの時代でも、声の大きな騒がしい人たちが主役なのだから。地味で、幾分痩せて聞こえる声だが、そこには人生経験がもたらす成熟がある。さらりとした触感でありなりがら、偽りを嫌う誠実さとしなやかさを感じさせる歌声だ。

静まりかえった深夜に、アイリーン・クラールのCDを掛ける。部屋の薄暗い空間に、ふわりと鮮やかな歌声が立ち上がる。その言葉の美しさ、巧みさといったら、一度聞けば忘れられないはずだ。ちょっとばかり表現に難渋するが、癒されるとか励まされるとかではなく、歌に込められた魂にただ寄り添う幸せ、そういう密やかな感動で満たされる。そして選曲も凡庸でなく、そのどれもが素晴らしい出来だ。大袈裟で、けばけばしい歌に食傷気味の人たちに、特におすすめしたい歌手なのである。