2011年5月31日火曜日

パスポート


父の書斎を整理していたら、古いパスポートが出てきた。深緑の革表紙、金箔文字で公用と表記されている。まだ海外旅行が一般的でなく、発行される旅券もわずかであった頃のものだ。中に貼られたモノクロの写真には、若い父が緊張気味の表情でレンズを睨んでいる様子が写っていた。

戦後の荒廃から立ち上がり、国際社会に復帰した日本のパスポートを手に、父は公務を遂行するため世界を回った。しかし彼の地で、いかなる体験をし、どういった感動を受けたのか、わたしは最後まで話を聞くことがなかった。ただ、少年の頃、わたしにとっては父は厳しく怖い存在だったが、それと同時に、ずっと憧れて誇りに思っていた人だった。しょせんは父と息子、それほど開けっぴろげな関係にはなれないが、そのあたりのこと、なにかの折に伝えておけばよかったと思う。

2011年5月29日日曜日

ウルグアイのこと



ウルグアイ、という国があってね・・・。サッカーファンとか地理オタクならまだしも、わたしを含めて普通の人々はその時点で困惑する。多分、南米でさ、ほら小学生の時、地理の時間に、んと、何だっけね。まあ、そういう国の話。

このところ立て続けに、ウルグアイに関する旅行番組や映画を見た。それが意外に良くって、なんだか妙に気に入ってしまった。小さな平原の国で、街なんかは寂れているのだけど、その寂れっぷりが程良く上品で、日本の地方都市みたいに荒んだ感じはない。意外と物価は高そうで、我が国の8割方くらいか。でも贅沢を言わなければ、ちゃんと何とか暮らしていける。どことなく落ち着いた雰囲気が、そんな安心感を与えてくれる国。悪くない、と思う。

wikiに書いてあったことだが、なんでもむかしはたいそう裕福で平和で、おまけに福祉制度も備わって「南米のスイス」と呼ばれていたそうな。しかし畜産業に依存した経済構造を変革できずに経済は次第に停滞、政治は混乱、そして長い低迷期を経て、今の静かで目立たない国が出来上がったという。極東のどこかでも、ほとんど同じストーリーを聞いた気がする。ざっくり言えば、ウルグアイは先輩没落国として、日本の近未来を先取りした国だが、小さいことが幸いして無事にソフトランディングできたということ。これに対して、もちろん日本はハードランディング以外に選ぶところはないが、運が良ければちょっとはウルグアイのようになれるかもしれない。

そのウルグアイの映画、「ウィスキー」。年老いた母親を看取った独身男が、隣国に暮らす弟をもてなすために、従業員の女性と偽りの夫婦を演じるという話。若い世代には辛口のつまらない映画だが、ある年齢になるとむしろハッピーエンドに見えるだろう。登場人物それぞれが深い孤独の陰を引きずって生きている。それが、ほんのちょっとしたきっかけで、井戸に小石を投げ込んだ時ように、小さな音を立てて波紋が広がり、また直ぐに元の薄暗い水面に戻る。その小石が投げ込まれたという事実が重要なのであり、人々は井戸に響く音や波紋の広がりを幾度も反芻しながら生き続けるものなのである。それが人生。もしそれが幸せでないというなら、いったい人は何をもって満足するのだろうか。

ちなみにタンゴの名曲「ラ・クンパルシータ」は繁栄の絶頂期にウルグアイ人の作曲によって、首都モンテビデオで初演されたそうである。

2011年5月28日土曜日

父の旅立ち


一時は好転した父の病状が思わしくないとの連絡を受け、予定を早めて郷里に戻った。ほんの半月前には普通に言葉を交わし、ときおり軽い冗談を言っていた人が、口もきけずベッドに横たわり、たくさんのチューブやコードにつながれていた。そして家族の簡単な問いかけに、微かに首を動かして答えようとしていた。その変貌にショックを受け、わたしはただ呆然とベッド脇に立ち尽くすばかりだった。

自宅で倒れてから2ヶ月半、結局一度も家に戻ることなくこの世を去った。家族にとっては思いもよらない突然の出来事だったが、あとで父の遺した手帳を読んでみると、特に重い病気があったわけではないにもかかわらず、死期が近づいているのを漠然と感じていた様子が窺えた。おそらく父は、自分の介護で家族に苦労を掛けるのが嫌だったのかもしれない。そしてできることなら、そっと静かに穏やかに最期を迎えることを望んでいたに違いない。ちょうどわたし自身が日頃そのように願っているように、父は人生最後の願いを叶えることができたと信じている。


葬儀を終えて5日ぶりに家に戻ると、出発前には蕾だけだったウツギが、満開の花を咲かせて迎えてくれた。真っ白な花びらが美しく輝き、周囲に甘く強い香りを放っていた。

2011年5月7日土曜日

高コスト社会

生命、身体の安全、個人の財産をどのように守るかは、突き詰めればコストの問題である。発生した被害を、誰が、どのような手段で、どれだけ負担するかということ。社会生活することによって必然的に生じる被害は、社会の構成員が平等にコストを負担するのが理にかなっている。しかし、少しの注意を払えば容易に避けられた被害ならば、自己責任を問うこと、つまり被害者の自己負担とすることが公平である。それでも負担を軽減したいと思えば、そのように考えるもの同士でリスクを軽減する仕組み、すなわち保険に入るのも合理的である。

もっともコストの掛かる方法は、あらゆる危険を防止するために、あらゆる規制でがんじがらめにして、それでもなお発生した被害に対して公的に無制限に賠償を行うことだろう。規制を実行するために、多くの公務員を雇い、あらゆる危険を想定した法律を作り続け、果てしなく裁判を行い、どんな些細な事故でも社会的責任を追及し続け、被害者の責任を何ら問うことなく全面的に保護するという方法。確かに、これだけやれば、国民は安心だろうし、被害者も納得するだろう。しかし、そのためには大前提がある。どんなにやかましい規制でも、それを喜んで受け入れることが必要だろうし、たとえそのために税金を引き上げても納得する納税者がいることが必要だ。加えて、運悪く誰も知らない細かな法律に違反して、処罰を加えられても、文句ひとつ言わず従うことも求められよう。しかし、果たしてそれで満足だろうか。

正直なところ、わたしはそういうの嫌だ。現に、自分ですら気がつかなかった違反で、問答無用で罰金を払わされる不快な経験が何度かあった。もし携帯に夢中になっている歩行者や、自転車に接触したら、どんなに注意しててもクルマを運転するわたしの責任になる。それが嫌ならクルマを手放せ、運転する奴の自業自得だと言われるかも知れないが、やはりどこか腑に落ちない。しかし、それならまだいい方だ。場合によっては、自分とは無関係な人たちに、間接的であるにせよ多額の賠償をしなくてはならない時もある。もちろん、そのあたりのリクツは理解しているつもりだが、それでも納税者として納得できる限度があるだろう。国民に負担を求めるなら、国民に十分な説明と理解を求めるのが筋だし、それが民主主義というものだ。

このところ、そんな不満というか、疑問を持つことが多くなってきた。生肉を食べて被害が出たら、条件反射で規制を求める。集団感染があれば、数兆円もの巨額の補償を、国民に相談もなく負担させる。原発の放射能汚染が発生すれば、一次的な責任追及をあやふやにして、十分な議論なく国民全体に負担を求める。建設的な議論を避けて、より単純な解決を選ぶ。自分では出来るだけ責任を回避して、物言わぬ他人に損失を補填させる。それが当たり前のようになった高コストの「福祉社会」というものが、個人の生きる力や活力を奪い、社会を貧しく、不自由にしていっている。従って、文句があるなら言わなくてはならない、怒りを感じたら抗議しなくてはならない、それが健全な社会を維持する国民の義務ではないかと思う。

だから言う。わたしは、保身のため、一時の思いつきで、原発の運転停止を要請した、無責任、無思慮、卑怯極まりない総理大臣に怒りを覚えている。単なる見解の相違に過ぎず、なお政権担当能力があるなら我慢できるが、決してそうでないのだから直ちに総辞職を願いたい。この政治的に異様な高コスト社会を、放置することは許されないのだから。

2011年5月6日金曜日

親のココロ

地下鉄の階段を駆け上がって地上に出た。チェックインまであと20分。車道に半身を出して手を振ると、すぐにタクシーが近づいてきた。「空港に9時、間に合いますか?」と訊くと、「大丈夫です。」と簡潔な返事。

中年のドライバー氏は時計を確認しながら、若干強引なハンドルさばきでクルマの列をかき分けて進む。もう大丈夫と思われる地点に来て、わたしは「急がせて済みません、東京行きの最終なもので。」と謝った。そこから世間話が始まり、ドライバー氏の長男も東京で暮らしていて、同じように神戸には飛行機で帰ってくると言った。

「ほんまに便利になりましたな。1時間で東京と往き来できる時代やもの。」「それやのに息子は2年にいっぺんくらいしか戻ってこんって女房が文句言うんで、そら仕方ないやろと慰めると、今度はあんたは息子がかわいうないんかと言い返しよるし。それとこれとは話がちがうやろ、って。ははは。」「そうだよねぇ、帰らないかんと思っても、なかなかそうもいかんし。」「連絡がないのが元気な便り、ともいうしね。」

飛行機のシートに体を沈め、離陸までの時間、窓の外をぼんやりと眺めて、先ほどの会話を思い出していた。2年にいっぺんしか帰らなかった息子が、このところ頻繁に帰ってくる。もちろん見舞いのためだが、それはそれで父に要らぬ心配を掛けているのかも知れない。そして父はわたしの前では、無理して振る舞っている感じがする。病床にある父を励まそうとして、むしろわたしのほうが気遣われていることだってある。子どもはどんなに年をとっても、親の前では所詮は子ども。「親の心子知らず」とはよく言ったものだが、孝行息子でないわたしにとってはなんとも侘びしい言葉である。

週末は「東京物語」でもじっくり観てみようか。

2011年5月1日日曜日

修理する理由

漬け物だ味噌だと手を広げていくうちに、冷蔵庫の容量不足が深刻になってきた。以前にも買い換えを検討したが、気に入ったものがなく、やむなく内部の不要部品を取っ払って当座をしのいだ。しかし所詮は単身者向けの冷蔵庫、小さい上に古いということもあり、節電対策を兼ねて最新機種を探している。とはいうものの、前回と同じくデザインがどうしても気に入らなくて、またもや途方に暮れている。狭い台所なのである。明るく清潔感があって、単純な構造のもの以外は考えられないのだが、なぜだかどこにも見あたらない。むかしはそんな冷蔵庫しか売っていなかったのだが、これはいったいどうしたことなのだろう。

そうこうしている間に、今度はレンジが故障した。サービス会社に問い合わせると、なんと新品が買えるほどの費用が掛かることを知った。ならばその新品はどうかと調べると、こちらもやっぱり気に入らない。だけど修理も法外だ。そこで切羽詰まって仕方なく、高圧電流の流れる機械は感電が怖いが、結局自力で修理することになった。


恐る恐るカバーを外して故障箇所を見ると、部品の一部が見事に折れて外れている。道具箱の中を探して、代用になりそうな部品で補うと、取り敢えずの急場しのぎにはなる様子。それにしても、昨今のシンプル指向のデザインブーム、そう言われながらも家電は相変わらずゴテゴテと見苦しいまま。これほど家電製造会社がひしめいていて、各社とも様々なタイプの製品を出しながら、ぜんぶ一緒とはこれ如何に。