2015年9月19日土曜日

桃のジャム


8月の初旬に、箱買いした桃を使ってジャムを大量に作りました。
しかし毎朝ヨーグルトのトッピングとして食べるので、いくら作ってもすぐになくなります。
砂糖を控えめにし、桃の味が引き立つように調整しているので、なおのこと使用量が増えるということもあって。

そして秋の近づくこの時期は、少なくなったジャムを補充する必要が生じるのですが、今年は運悪く天候の変調で納得できる桃が手に入りません。
こんな雨続きじゃ、どうしようもないですね。
ここはひとまず諦めて、リンゴのいいのが出るまでしばらく我慢。

というわけで、もうじきなくなってしまう今シーズンの桃ジャムを写真に撮りました。
これから次の夏まで、もっぱらリンゴと柑橘でつなぐのですが、なにせ桃がいちばん気に入ってるので、自分的には残念感がハンパない。
だからまあ、よけいに美味しく味わえるわけですが・・・。

2015年9月18日金曜日

N

小学校から大学までずっと一緒だった同級生がいた。しかし彼、Nとはほとんど私的な付き合いはなかった。
彼は口数が少なく、どこか超然としていて、もちろん申し分のない優等生で、こざっぱりと垢抜けた都会っ子という形容がよく似合った。
苦手というほどじゃないが、Nと話すとどうも自分が子どもっぽく思え、それで何となく引け目を感じていたように思う。

高校生だったちょうど秋の今頃、学校近くのカフェテリアでNと偶然出会い、短い会話を交わしたことを憶えている。
彼がひとり本を読んでいたので、話の接ぎ穂に何を読んでいるのか訊いてみた。
「庄司薫がすきなんだ。」
本の表紙を見せながら、端的な答えが返った。

私はまだ読んでいなかったし、読む予定もなかった。
「僕は、大江健三郎を読んでる。」
と返すと、Nはふうんと、微かにつまらなそうな表情を見せた。
そんなものが面白いのかい、という台詞が喉のところで止まったような気配があった。

それからのち、大江の代表的な作品を一通りは読んでみたが、確かに面白いものではなかった。
その後ずっと、読み返そうという気にもならなかった。
ノーベル賞を取ったからといって、小説が俄然光り輝くという道理もなかったからだ。

ときおり、今頃彼はどうしているかと思うことがある。

小学生の頃、日頃穏やかなNがクラスの悪ガキの胸ぐらを掴んで、血相を変えていたことがあったっけ。
元来無駄口を叩くような奴ではなかったから、喧嘩の原因は悪ガキの方だったに違いない。
それにしても、いったいなにがNを激高させたのだろうかと、今も不思議で仕方ないのだ。

Nよ、あれからずいぶんと時間が過ぎたが、やっと君の読んでいた小説を読んだよ。
映画はかつて観たが、原作を読むのは初めてだ。
幾分ペダンチックで気取った感じもするが、エリート青年の柔らかい感受性を表現するには適切だと思う。
今頃になって、あの当時の自分も読んでおけばよかったと後悔したよ。

君は、誰にも語らなかった自分のこと、あの時ちょっと遠慮がちに伝えたかったのだね。

次にNと会ったのは、たしか大学4年の秋だったと思う。
何か用事があって急いでいたのだろう、互いに短い挨拶を交わして別れた。
あれから、途方もない時間が過ぎた。
そして再び今、短い秋が訪れている。

2015年9月10日木曜日

掛け時計とクルマ


結婚当初に購入した掛け時計をいまだに使ってまして。
見るからに丈夫そうで、機能に徹したデザインが気に入ったのです。
頻繁にモデルの変わる日本製にしては、例外的に商品寿命が長く、現在も全く同じ姿で販売されてます。
今では錆が浮いて、みっともない状態になってしまいましたが、新しいものに取り替える気はさらさら起きません。
誰かに自慢するようなものでもなく、これといった故障もなく元気に動いているのなら、古いというだけで取り替える理由は見当たらないからです。

つい最近まで、我が家のクルマを新しくしようと、頻繁にディーラー巡りをしていました。
しかし、どのクルマも魅力的ではあるものの、今ひとつ買い替えようという気までは起きない。
どれもみな我が家の古いのと比べれば、性能的には月とスッポンなのですが、なのにどうしても気乗りがしません。

あるときふと気がつきました。
わたしが望んでいたものは、単に新しいクルマではなかった。
知らず知らず求めていたのは、慣れ親しんで愛着があり、エンジン音だけでも微妙な調子が分かるくらい、自分だけが理解できるクルマ。
つまり今乗っているクルマこそが、無意識に望んでいたものだったというわけです。

前に乗っていた、私にとっては最初のクルマのことですが。
そのクルマは不運にも2度も大きな貰い事故に遭い、修理をしたものの車体のわずかな歪みから来るガタピシがどうしても直らなかった。
気に入って買ったはずのに、もういいやという投げやりな気分になって現在のに替えました。
それにも拘わらずその後ずっと、同型のクルマとすれ違うとき、微かな後悔の念と共にその後ろ姿を目で追っていました。

20年近い年月をかけて馴染んだ愛車を、自分にとってこれから更に価値が増していこうかという時に、むざむざ棄ててしまうということほど愚かな行為はないだろうと思いました。
古いからこそ得られる価値を、わたし自身がそれを理解できる年齢になったのです。
新車を求めるいうのは誰にでも、何度でも体験できる単純な楽しみだけど、同じクルマを長く乗り続けるということは、限られた人だけが体験できる極めて贅沢な楽しみじゃないだろうか。

長い理屈はどうでもいい。
誰かに自慢するようなものでもなく、これといった故障もなく元気に動いているのなら、古いというだけで取り替える理由は見当たらない。
クルマだろうが、掛け時計だろうが、結局は同じだということです。

2015年9月8日火曜日

ウォーキングのお供に



ウォーキングの際は、たいてい音楽を聴きながら歩きます。
たとえ疲れていても、音楽を聴きながらだとなんとか頑張れるものです。
ただ盛夏の頃は、イヤフォンを入れた耳の中まで汗をかくので気持ち悪くて聴きませんが。

週末は9月に入って雨も降らず、久々音楽を聴きながらのウォーキングでした。
選曲は、早めの歩行ピッチに合うような軽快なものばかり。
私の好みは、なんといっても軽やかな女性ボーカル。
声が素直で伸びが良く、しかもチャーミングに発声する人が良い。
曲は何だって構いません。

そんなこんなで、お気に入りのウォーキングのお供は、ステイシー・ケント嬢。
「嬢」って付けたけど、デビューしてから早20年ちかく。
もうすっかりベテランですが、声を聴いているとやっぱりケント嬢と呼びたくなります。

2015年9月1日火曜日

わたしのミライ


夕食の買い物はいつも駅前のスーパーに立ち寄ります。
その晩に調理するので、同じものなら売れ残りの見切り品を買うことが多い。
余裕のなかった若い頃からですが、そのころは見切り品なんて誰も見向きもしません。
しかし味も鮮度も変わらず半額以下なのですから、むしろどうして売れないのか不思議なくらいでした。

俄然売り場の様子が変わってきたのはこの10年くらい。
以前ならば近寄ろうともしなかった人たちが、見切り品を手にするようになりました。
そして最近は、競争のように商品を奪い合うようになり、ひどい時には口論をすることさえあります。
一体どんなところだと思われるでしょうが、しかし困窮した住民が多い地域じゃない。
むしろ閑静な住宅街の典型として、世間からは真逆のイメージを持たれるところです。

見切り品を求める客の多くは高齢者。
女性は野菜などの食材、男性には出来合いのおかずが人気。
料理ができない男性はつらい。手にするのは圧倒的に揚げ物、それと焼酎。
こういう食生活では、きっと体を壊すことでしょう。

先日同じレジに並んだ高齢の男性。
カゴの中はやはり見切り品が目立ち、それと一緒に紙おむつのパックを下げてました。
ひとりで奥さんの介護をされているのでしょう。
男性がどのように夕食の時間を迎えるのかと想像すると、ひどく切ない気分になりました。
それは、けっして遠くない将来の、わたしの姿かもしれません。

次第に追いつめられる老人と家族を取材したドキュメンタリーを観ました。
ある程度は想像してましたが、現実の当事者の暮らしを見て、途中から辛くなって消してしまいました。
これだって、わたし自身が直面する、いかにもありそうな未来です。

日本の貧困は歯止めが掛かることなく、むしろ加速しながら確実に社会全体に広がり、これからがほんとうの危機的状況を迎えます。
国会前に同世代の老人達が集まり、熱心に政治活動をしていますが、彼らは自分だけは安泰だとでも思っているのでしょうか。
それとも自らの暮らしを犠牲にしてまで、憲法を守ろうとする崇高な精神の人たちなのか。
残念ながら、どうしても私には理解できません。