2009年3月29日日曜日

洗いおけ

ラバーメイドの洗いおけにひびが入って、水漏れし始めたのが数年前。すぐに新しいのに交換しようとしたら、すでに製造中止になって入手できないことが判明した。バケツといいゴミ入れといい、この手の日用雑貨はラバメでなくてはという信仰に近いものがあった。適度な弾力と日常の酷使に耐えうる頑丈さ、そして実用一点張りの誠実なデザイン。これに類するものに思いつくものがなく、途方に暮れてやむなくおけの裏にテープを貼って使い続けた。

時間稼ぎをする間に、折を見ては代わりのものを探したが、どれもこれも一長一短、なおさら悔やまれる一方だった。そしてようやく、ベストとは言えないが、まあなんとか妥協してもいいかと思える製品にたどり着いた。しかしその値段に納得がいかなかった。たかが洗いおけであり、モノにだって分相応の値段というものがある。そこでもうすこしだけ辛抱して、どうしてもほかの選択肢がなければ、それに決めようということになった。

そして、時間切れ間際になってやっと見つけたのがゴムのバケツ。バケツといっても、取っ手のついたか金たらいというほうが正確だろう。見かけは派手で好みでないが、用途も多くとても実用的な製品である。食器洗いだけでなく、洗濯おけにもなるし、寒い日には湯を張って足を浸けることもできる。そして軽いので、取っ手をフックに吊るしておけば、いつだって清潔。そして値段だって、その実用性を思えば、安いといえるかもしれない。これで、色さえ何とかなれば、まったく文句はないのだけれど。

2009年3月28日土曜日

「お家さん」

都市にも、人生と同じく四季があるのではと思う。久しぶりに神戸を訪ねた伯父が、地下鉄の乗客が老人ばかりなので、街中で何か老人の大会が開かれてると勘違いしたそうだ。さもありなん、なにしろ老人パスで交通機関が自由に使えるうえ、さまざまな優待サービスが受けられるのだから、老人たちは家に閉じこもって退屈している暇などないのである。その最大の受益者であるわが老親からして、どこに行っても年寄りばかりだわ、とぼやいているくらいだ。そして一方では、住宅街からは子供の姿が消え、賑やかだった町は落ち着いた佇まいを見せている。神戸の街は、静かで穏やかな晩秋を迎えているのだ。

神戸が真夏のような青年期を迎えていた時、そこは首都に次いで日本第2の大都会だった。そして、ここを拠点とする日本最大の総合商社、鈴木商店の隆盛と衰亡はまさに青年期の神戸と表裏一体だったといってもいいだろう。「お家さん」は、その鈴木商店の当主である鈴木よねの生涯に光を当て、いかにして一砂糖問屋が瞬く間に巨大財閥に変貌したのか、そしてそれはなぜ可能だったのかを描いた小説である。もちろん商店の発展は大番頭の金子直吉をおいてはあり得なかったが、しかし「お家さん」と呼ばれるよねを歴史の主人公にすることで、日本的経営とか家族主義的経営と呼ばれるものの実質を描くことに成功している。

商売の天才、金子直吉のことを考えると「心意気」という言葉が浮かんでくる。貧しい商家の子倅を引き立て、事業の失敗を責めることなく、むしろその才能を信じて自由に仕事をさせた女主人に対して、金子はどれほどの忠誠を誓ったことだろうか。すべては「お家さん」の名誉のために、そして日本の発展のために、無私となり全身全霊で商売に打ち込んだ男の人生に深い感動を覚える。そして、鈴木商店が頂点を極めるにまさに分水嶺となった一通の電報、"BUY STEEL, ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE"。一世一代の勝負をかけた男の、シンプルで力強い表現は、100年後の現在でも圧倒的な迫力を感じさせるのである。

神戸空港の離着陸時に、機内から見る市街地風景が格別に美しい。特に夜景の素晴らしさは、ちょっと他とは比較にならないくらいだ。それに引き替え鈴木商店の時代の神戸は煙突が林立して盛んに煙を吐き、世界中と活発に交易をし、あらゆる国の人たちが盛んに行きかう、猥雑だが活気に満ちた姿をしていた。アメリカの経済誌にまで世界で最も美しい都市のひとつとして紹介されるくらい、清潔で落ち着いた都市となったいま、次に迎える季節は長い冬なのか、それとも力強い再生の春なのか。「お家さん」の長い物語を読み終え、わたしは故郷の不安な行く末に思いをめぐらせた。

2009年3月25日水曜日

ああそうか



ネズミーランドで、肩車をしてエレクトリカルパレードを見物させた子が、すっかり大人になって上京してきた。外見は手足のすらりと伸びた利発な娘だが、話をすると子供のころの口癖が残っていて、そのギャップがまた可笑しい。大人なんだか、子どもなんだか。

アパートの中を見せてもらうと、部屋はきちんと整頓され、女性の部屋にしてはむしろ殺風景なくらい。冷蔵庫には野菜や保存食が入っていて、聞けば毎日ちゃんと自炊して暮らしているらしい。一人だから、晩御飯を多めに作って、お昼とに分けて食事しているという。掃除も洗濯も、ため込むのが嫌だから毎日しているのだとか。あれこれとイチャモンつけて、一人暮らしの心得でも講釈垂れてやろうと思っていたのに、何も言うことがなくて、妻と顔を見合せて笑ってしまった。

帰り際に、玄関の棚でヒールのついた革靴を発見して、こういうのも持ってるんだとびっくりすると、ちょっと恥ずかしそうな表情を見せた。遊び飽きると、すぐに膝の上に乗ってくるような子だったのにね。淋しくなったらいつでもおいで、と声をかけて別れたが、その時の彼女の手を振るしぐさが大人だったので、かえって自分のほうが淋しくなってしまった。

2009年3月10日火曜日

ブラウザのこねた

非力なマックでブラウザを開いていると、どうしたってFlashの表示で蹴つまずく。そうはいっても宣伝で商売しているのだから、これを無碍にする訳にもいかない。おまけに表示されないと困るコンテンツだってあるので、できるなら選択的に表示させるのがちょうどいい。

それで見つけたのが、Flashの表示を暫定的に止めて、クリックして表示させることの出来るプラグインである。SafariならばClickToFlash、FirefoxならばFlashblockという名称のプラグインがそれだ。毎回のようにクリックするのが面倒な場合は、あらかじめそのサイトのFlashを包括的に表示させることも可能である。方法は、非表示の空白欄上で右クリックして「表示の許可」もしくは「ホワイトリストに登録」を選択するだけ。

最大勢力の某ポータルサイトでよく目にする、行儀の悪い広告を見たくないとき、これはとても重宝する。そもそもが、ここの広告が目障りで、なんとかしたいと上述のプラグインを探したわけなのだが。

2009年3月9日月曜日

「非電化」という選択

身の回りの電化製品、便利なのは確かだけど、それに囲まれて暮らすのはさほど楽しいことではない。どれほど工夫を凝らしても、所詮は大量消費を目的とした工業製品。数年で陳腐になることを運命づけられた、一時しのぎのものたちだ。そういうものに囲まれていては、自分の暮らしまで味気ないものになるのではという漠たる不安を感じる。

はじめて一人暮らしを始めたとき、四畳半一間の下宿に持ち込んだのは、こたつと学習スタンド、電気コンロとラジカセくらいで、それで特に不自由することなく過ごしていた。テレビなんかは銭湯や食堂で見てたし、暑くてたまらないときは図書館や喫茶店で過ごしたし、寒いときは酒飲んで紛らわしてた。電気コンセントはひとつで十分だった。

それが今では家の中を電波が飛び交い、モーターは唸りをあげ、部屋のあちらこちらで小さなイルミネーションが光を放っている。電化製品の一つ一つは、それなりに理由があって、きちんと吟味して入手したが、気が付くと思ってもみなかった量の電化製品に埋もれて暮らしていた。やはりそれはいかんだろう、と心のどこかで警告シグナルが鳴る。些末な便利さと引き換えに、辛抱強さや工夫する力を失い、ちょっと大袈裟かもしれないが、自立して生きる力が弱まるのではないか。

そのような疑問から「愉しい非電化」を読んだ。エコだスローだのというお軽いサブタイトルから受ける印象より、ずっと生産的で実質的な提言がなされている。別に電化製品でなくてもそんなに困らないし、むしろ電気への依存を少なくして別の楽しみや新しい豊かさを探そうというスタンスがいい。そして本書の提言する「非電化」は、究極的には電化生活で衰えた知恵や工夫を、非電化することで取り返す試みと読んだ。あまり声高にいうのは、電化事業に携わる人々に不安を与えるので、遊び感覚でライフスタイルを変えるのが程よいだろう。

「愉しい非電化」

2009年3月4日水曜日

「人は意外に合理的」

人間はできるだけ楽に生きていくために、将来の状況を予想し、コストとベネフィットを考量して行動している。たとえば、急ぎの用があるとき、特別の理由もなく回り道する人は少ないはずだ。もしもそういう人がいたなら、きっとそこには強固で合理的な理由があるだろう。

去年前半のガソリンの異常な高騰場面でも、わたしは運転を控えることを一切しなかった。ガソリンが高騰すると遠距離から車で首都圏にやってくる人はいなくなるだろうし、地域のドライバーも不安に駆られて運転を控えるだろうと予想した。これに対して我が家では普段からそれほど運転する訳でないから、ガソリン代が少々高くなっても家計に与えるインパクトは小さい。むしろ道路が空くことによって、目的地まで迅速に移動できるメリットの方が遥かに好ましい。その予想は見事にあたり、普段なら渋滞で混雑する道をノンストップで通り抜けられるようになり、しばらくのあいだ気分のいい思いをさせてもらった。

以上は単純で卑近な例だが、表面的に理屈に合わない行動も、実際には十分にそろばん勘定が合っている。しかしこれが集団行動となると、説明のしづらい例が増えてくる。ティム ・ハーフォードの「人は意外に合理的」は、現代経済学の知見をベースに、現実に存在する社会現象をそろばん勘定の観点から説明する。社会問題を善悪で考えると、最後には超えられない壁に突き当たる。しかし、そろばん勘定ならば誰もが理解可能であり、そこに問題解決の糸口がある。まさに本書の価値はそこにあると思うのだ。

わたしにとって参考になったのは、人種差別が好き嫌いではなく、人々の合理的な判断で発生することから、その解決をいっそう困難にしているという点。日本で学歴差別がなくならないこと、はたまた政治の世襲が進行すること、そういうことも同様の原因に根ざしていると考えるならば、その問題の解決はある程度強権的な手法に頼らざるを得ないのかもしれない。ただそうなると、80年前に起きた悪夢が再現されることだってあるし・・・。まったく人間の集団とは、厄介なものである!