2009年6月30日火曜日

コーヒー考 その3

先月に、コーヒーの淹れ方を見直す内容のエントリーを立てたが、その後も試行錯誤を続けていた。スーパーのプライベートブランドのコーヒーをいろいろと試し、淹れ方にも変化を付けた。その結果、コーヒープレスを使ったときが、一番好みの味に近づけることがわかった。

ただ手持ちの古いコーヒープレスは3杯用であり、毎朝の分には容量が足りない。それでやむなく新しいコーヒープレスを調達した。本来だったら、今使っているシリーズの6杯用が、デザイン、質感ともに気に入っているのだが、困ったことに少しばかり高価である。かといって手近なものは、デザインが気に入らない。それで間を取って、まあこれならば納得できるかと選んだのが、写真のコーヒープレス

ビーカーは約1リットルの容量があるため、ちょっと大柄なサイズだが、その分ワイヤで構成されたフレームが見た目を軽快にしている。ただ、部材が金属製にもかかわらず、部品の厚みが不足していて、使用感が心なしか安っぽい。価格相応というわけだ。でも、肝心の金属フィルターは目が非常に細かくて、コーヒーの微粉滓をほとんど透過させない。この点は花丸合格。

最大の問題点は、プランジャーを押し下げたときに、底面までしっかりとフィルターを押しつけることができないことだ。だから、抽出したコーヒーは、すぐに別のポットに出す必要がある。放っておくと余分な抽出が起きて、雑味の多い不味いコーヒーとなるのだ。ほんの少しステムを伸ばせば解決できるのに、なぜそうでないのか不思議である。

2009年6月27日土曜日

「旅の重さ」

散歩コースにある古本屋で、懐かしい響きをもつタイトルの本を見つけた。「旅の重さ」、である。学生の頃、どこかの名画座で映画化されたものを観て、さらに数年後、テレビでやっていたのを再び観たのが最後だ。だが、原作は読んでいない。好きな映画だったがストーリーもすっかり忘れて、今は主役の女の子が山頭火みたいに、四国の山中をトボトボと歩いて旅をするイメージだけが焼き付いている。

どんな小説だったのだろうかと拾い読みをしていると、主人公が手紙を通じて母親に語りかける部分で、映画の中の様々なシーンが浮かんで懐かしくなってしまった。大急ぎで大人になろうとする少女が、小理屈こねたり突っ張ったり、挙げ句の果てにうまく感情が制御できなくて動揺したり。そして映画では、少女をすべて受け入れるかのように、真夏の四国の山や海が、とても美しく描かれていた。

ネット上でに何か資料がないかと調べると、YouTubeに「旅の重さ」の予告編があって、ここで短いが久しぶりのご対面。そうそう、映画音楽は吉田拓郎だったんだ。世代的なズレのせいか、わたしはこの人の歌が嫌いだったが、この映画では初々しくてチャーミングに聞こえる。あの時代の空気を表現するには、やはりこの人の歌でなくてはならなかったか。記憶の彼方に封印するには、ちょっともったいなく感じる青春ロードムービーだった。

もうすぐ7月、少年少女の夏休みである。リュックサックを背負って旅行をするには、時間もないし、ガッツもない。ただ、「旅の重さ」の主人公のようにあてのない旅を続けた頃に刻み込んだ、容赦なく照りつける日差しの鋭さ、夏草の匂い、土砂降りの中の惨めさの記憶、そして理由もなく信じた未来の明るさ。許せることのできる今だからこそ、そういう記憶を大切にしたいと思うのだ。

恋セヨ乙女、旅セヨ若者。いくつになろうと夏が近づくと、旅のムシが体の中で騒ぎ始める気がする。

2009年6月23日火曜日

新旧のマックを並べて

ひょんなことから、新しいマックを使うことになった。私の用途では、もはや手持ちのパソコンで充分なので、以前のような新製品への関心はとうに失っていた。なので新しいマックの話は聞いていたが、実物を見たり触ったりするのは初めてである。

最初に受けた印象は、いかにもアップルらしい、実に高品位なデザインであるということ。ボディはアルミの削り出しのようであり、部品のつなぎ目がどこにもない。扉も同じつくりで、中央部から周辺に柔らかにカーブを描く。全体として、パソコンとは思えないほど未来的で、尖った印象の仕上がりになっている。どちらかというと、何か精密な測定器とかハイテク兵器のような感じだ。

ただ、文句の付けようのないくらい洗練された製品なのに、とりたてて感動がないのが残念。これが10年前だったら、間違いなく腰を抜かしただろうに、今では「ああ、そうか」といった程度なのだ。その理由の一つには、ノートパソコンのデザインとして、洗練だけでは新たに付け加えるものが何もないということにある。

さらにいうと、パソコンという商品の価値が、根本的に変わってしまったことも指摘できるだろう。鍋や釜と同じく、ただの平凡な実用品になってしまい、人々がこの製品に夢や希望を託すことがなくなってしまったのだ。格好良さより、使いやすさや、値段が問題なのである。そして、もうひとつ。自分を含めた世の中の気分と、あくまで未来志向のアップルのデザインが、共鳴し合えなくなっているのではないかという気がする。尖れば尖るほど、消費者は白けるのではないだろうか。

映画「エイリアン」で、アンドロイドがノートパソコンを操るシーンが、強く印象に残っている。パソコンという製品が、世の中で産声を上げた頃だった。あんな道具を当たり前に使う時代になり、目の前には映画に登場したのより遙かに未来的なパソコンがあるというのに、少しも関心の湧かない自分がそこにいる。パソコンの時代は、案外近いうちに終わってしまうのではないかと思うのだ。

8年前のマックと並べて眺めていると、その外観以上に、むしろ時代の方が大きく変わってしまったのを感じた。

2009年6月9日火曜日

ちいさな厨房

インテリア雑誌などで、広々と明るく清潔な厨房の写真をよく見るが、見た目ほど素晴らしいとは思えない。もちろん厨房機器や食器棚などが整然と、余裕たっぷりに並んでいれば、どれほどか気分はいいだろう。しかしスペースが広いと無駄な動きが多くなるし、だいいちそれで美味いものが作れるわけでもない。むしろ、ほとんど動かずに、手の届く範囲に必要なものがすべてあるほうが、厨房としては出来がいいとすら思う。

調理したり食事したりすることは、人の根源的な欲望を満たす行為であって、とてもプライベートな性格を帯びる。開けっぴろげにするよりも、密やかな感じのほうが似合っているのだ。だから、レストランでもテーブル同士がくっついてお隣りと友達になるくらい狭いところが好ましいし、客が厨房を覗き込みながら注文できるくらいコンパクトな店のほうが、それだけ贅沢な時間を楽しめるように感じる。最初は小さなレストランだったのが、成功して店を広げたとたんに詰まらなくなるのは、たぶんその辺の事情が影響していると思う。シェフが一つ一つテーブルを回って挨拶をし、客との親密さを演出するという習慣や日本の茶室が非常に狭いのも、おそらく同じ理屈だ。

最近すごく楽しいと思ったのが、こちらの映像。とあるアパートの小さな厨房で、それに負けないくらい小柄な人が、楽しげに調理をし、空いた時間で酒を飲んだり、電話したりする様子が見れる。見ているこちらまで幸せになって、さて、何か調理してみようかという気になってくるから不思議。

2009年6月5日金曜日

海辺の美術館

鎌倉に用事があり、ついでに少し足を延ばして、海辺の美術館を訪ねた。駅前からバスに乗って10数分の道のりは、山と海との間の狭い部分を抜け、曲がりくねった道の向こうに灰色の海が見え隠れする。そして古い漁村の面影が残る街は、南欧風の小洒落た飲食店や保養所などが散在し、どこかアンバランスで雑然とした印象を残す。

バスを降りると生暖かい風が吹きつけ、同時に強い潮の香りと、波の打ち寄せる音を運んでくる。正面から見る美術館は、背後に見える海と空を、ちょうど垂直と水平に白く切り取るような感じで建つ。数年前に出来たばかりの美術館なので、まだどことなくよそよそしさが残るが、そのうちいい具合に周囲の風景と溶け合っていくのだろう。

展覧会ははじめて観る作家の回顧展だったが、ほどよくコンパクトな展示と静かな雰囲気の中で、緊張感を途切れさすこともなく、作品を十分に堪能できた。作品は初期の実験的模索から、次第に精神性が深まって、やがて大自然の懐に抱かれるような大きな広がりを見せていく。そして、最晩年になっても衰えない創作意欲や、むしろ次第に若く清らかになるに精神に圧倒された。これは、時間をかけて観に行く価値のある展覧会だった。

絵を見終わってから、まだ時間があったので、館外に出てそのまま浜辺に降り海風に吹かれてきた。久しぶりに砂浜を歩き、波のそばまで寄り水を掬って遊ぶと、心までが洗われる気持ちになる。そしてその夜は、何週間ぶりかに、夢も見ずに熟睡した。

2009年6月2日火曜日

「渚にて」

北半球で勃発した核戦争によって、地球全体が放射能に覆い尽くされようとしている。その汚染からかろうじて免れているオーストラリアの都市、メルボルンにも死の灰は確実に接近しつつあった。刻々と近づく人類最後の日まであと半年と迫り、メルボルンの市民たちはいかにしてその日を迎えるかを描いた物語である。

もし余命半年と告げられたら、それまでいったい何をすべきだろうか。思い描いていた夢の実現を望む人がいるかもしれない。世の中に、何かしらの生きた足跡を残したいと願う人もいるだろう。しかし、市井に生きる多くの人にとっては、普段通りの日常を送り、周囲の人々との絆を維持し続けることに執着するはずだ。たとえ世界が壊れつつあっても、そのことは変わらないだろう。

小説の登場人物たちも、やはり同様であった。間もなくやってくる日を気に掛けながら、普段と変わりなく仕事をし、休暇を楽しみ、日常の細々とした家事をやり遂げようとする。先に逝った者たちを想い、残していくペットや家畜たちの心配をし、時に地球の未来を想像する。そして、こういう善良な人たちに対しても、容赦なく死の灰は降り注ぎ、やがてこの物語は、静かに、穏やかに、幕を下ろす。

この小説に感銘を受けるのは、なんといっても人々の暮らし方を丹念に描いている点にある。設定は、何も人類最後の日でなくても構わない。生まれ育った土地を愛し、隣人を愛し、日々の生活を大切にする。そういう人たちによって支えられた社会の営みが、格別の愛情をこめて描かれている。愛国心などという浅薄な心情を必要としない、強靭でしなやかで、豊かな社会だからこそ、最後の日を迎える直前まで市民生活が維持されるのだ。たしかに物語の結末は悲劇だが、著者の視点はむしろ、平和の大切さという観念的なことでなく、平凡な毎日の暮らしを楽しむ社会の健全さや強さを描くことにあったのではないかと思った。

私にとってはグレゴリー・ペックが主演する映画「渚にて」が印象に残っていたが、今春、新訳版となった本書「渚にて」にも深い感動を覚えた。それと同時に、核兵器を弄ぶごろつき国家に対して、心の底から強い怒りを感じた。

100年の人生

テレビCMで”人生100年”という言葉が出てきて、ちょっとびっくりしました。数年前から、100年を前提に人生設計すべきということが語られるようになってきましたが、もはや常識のレベルにまで上がってきたということでしょうか 人が当たり前に100歳まで生きる時代が到来するなんて、少し...