2011年6月28日火曜日

洗濯機の掃除



洗濯のたびに黒っぽい汚れが付着するようになり、何とかしろと催促されていた。洗濯機は10年以上使用していて、5年前には洗浄剤を使って掃除した覚えがある。ただその時は、思ったほど綺麗にならなかったので、この次は洗濯機をばらして徹底的に掃除してやろうと考えていた。

まずはグーグル先生にお尋ねして、経験者たちの記録を読ませていただく。洗濯機はねじ回しとスパナがあれば簡単にばらすことができ、あとは部品の汚れを根気よく落とすだけの作業。書かれている通りの手順で素直に従うと、だいたい間違いはない。

作業の山場は、洗濯機から洗濯槽を取り出すあたり。ポイントは洗濯槽底面のネジやボルトがかなり堅く、ねじ山を潰さないよう規格通りのツールで慎重に作業すること。ここはやはり、腕っ節の強いお父さんの役目である。それさえ済めば、あとの掃除は几帳面な奥方にお任せしてもいい。

実際に洗濯槽を取り出すと、それはもう鳥肌が立つくらい酷い汚れがびっしりと付着していた。こんな状態で衣類を洗っていただなんて、本当にぞっとする。そこで熱湯シャワーとブラシを使って小一時間も格闘すると、最初の状態が信じられないくらい綺麗になった。何でもやってみるものである。最後に洗濯機を組み立て直して、作業開始から2時間が経っていた。

写真は取り外して風呂場に置いた洗濯槽。今回の作業は、難易度としては自転車のパンク修理並みかそれ以上という感じ。馴れれば、一時間くらいの仕事だろう。良かったのは、普段は放置状態の洗濯機の様子が詳しく観察できたこと。さすがに10年以上経過すると、あちらこちらに亀裂やら錆やらが出来ていた。部品の交換も必要だ。こまめに手入れすれば、寿命はもっと延ばせるだろう。

2011年6月27日月曜日

隠れた、もうひとつの高齢化問題


このごろ公共施設の老朽化が目につく。すでに建て替え時期を迎えているはずだが、修繕計画すら立たない様子の施設も多い。今回の巨大地震で、上下水道に壊滅的な被害が出た地域がある。これらはどのように復旧させるのだろう。財政難のおり、予算の手当はつくのだろうか。少子化のあおりで学校の統廃合が進み、廃校になった校舎が放置されている。都会なら他に活用する途があるだろうが、地方都市ではどうなのだろう。そしていったいこの先、日本のインフラはどうなるのか。

そういうとらえどころのない、もやもやとした疑問に答える本、「朽ちるインフラ」を読んだ。おおざっぱに書くと、日本中のもろもろの公共の設備、いわゆる社会資本は急速に老朽化しつつあり、その崩壊を防ぐためには莫大な費用がかかる。社会資本を維持するための更新投資額は、今後50年間に330兆円にのぼり、年間8兆円以上が必要になるという。突発的な地震災害などを考慮しない、自然に朽廃するケースだけでこの数字である。半世紀以内に確実に起きるであろう大地震を想定すると、その費用は国家を破綻させるに十分なスケールだと感じる。

日本の国土は急峻で山や川が多く、人々は限られた土地に密集して暮らしている。だから道路やトンネル、橋がなくては暮らしていけない。むろん産業だって成り立たない。しかし道路や橋は確実に老朽化し、もし放置すれば遠からず利用不可能となる。そういう意味で、社会資本の更新投資は、国民の生活に不可欠の、絶対に避けては通れない重大な問題である。

分譲マンションに暮らしていた頃、数年に一回は水道管の錆を取るための工事が必要だった。また外壁のタイルが落下しないよう、定期的な検査をしていた。エレベーターの点検、細かな部品やロープの交換も。入居10年目には、足場を組んで大修繕を行った。それを実行するための資金手当が大変で、住民によほどのマネジメント能力がなければマンションの維持は容易でないと痛感した。ときおり廃墟のようになったマンションを目にするが、おそらく住民が高齢化して、修繕資金が捻出できなくなったのだろう。その光景は、これからの日本のインフラの行く末を暗示する。

本書が指摘するのは、何よりも数字を把握することが大切であるという点だ。老朽化が進むインフラの数、耐用年数、修繕維持に必要なコストなど。これらの数字を国民に認識させ、限られた予算で如何にしてインフラを維持するか、官民が相互に知恵を出し合うことが大切だと。常識的で真っ当な指摘だが、それはこの国の政治能力では極めてハードルが高い。社会の高齢化問題ですら対応に失敗したのに、ましてやインフラの老朽化問題まではとても手が回らないと思う。

2011年6月23日木曜日

節電メモ

今年初めに、家計簿とは独立に、電気・ガス料金のシートを作った。そもそものきっかけは、今冬からガスストーブを使いだし電力消費量がどの程度減るかを記録するためだったが、その後原発事故が契機となって節電を目的とするものに変わってしまった。以下はここ4ヶ月の電力消費量。

3月 242kWh   前年 332kWh
4月 268kWh  前年 303kWh
5月 246kWh  前年 261kWh
6月 177kWh  前年 195kWh

3月下旬までガスストーブを使ったので、同月はそれだけで前年比3割近い節電になった。そもそも電力消費量が少ないので、ガス暖房のインパクトはかなりのものだ。4月以降では、前世紀の液晶テレビを新しいのと取り替えたので、それが節電につながっている。照明は数年前に電球型蛍光灯に置き換えているので、これ以上の劇的な改善はない。LEDに取り替えるにはもっと小型化して、色合いが良くなってからと考えている。

電化製品は大人二人の所帯としては平均的なところだろう。違いがあるとすれば、個々の家電が小型であることと、加えてあまり使用しないということだろうか。夏場のエアコンすら、昼間は敢えて使わず、夕食から就寝時までの数時間運転する程度。そんなわけで、政府目標の電力消費量15パーセント減というのは、うちの場合は相当な困難を伴う。エアコンや冷蔵庫を完全に停止するとか、かなり荒っぽいことをしないと無理なような気がする。

電力消費の統計を見て不思議なのは、あの贅沢なバブル時代でさえ今より2割程度も消費量が少ないということだ。当時は今よりもはるかに消費効率が悪かったという事実を考え合わせると、いったいどこに電気が食われているのだろうか。オール電化家庭が激増したということなのだろうか。謎である。

夏至の夜に


夏至の夜に、梅干しを漬ける準備をする。先日、散歩していて、偶然に目の前にぽとんと音を立てて梅の実が落ちてきた。拾って匂いを嗅ぐと、甘く爽やかな香り。周りを見ると、他にも幾つか落ちていて、それらを拾って家に帰った。

今年は梅干しを漬けるつもりだったが、忙しくてすっかり忘れてしまっていた。ところが、たまたま目の前に梅の実が落ちてきて、そのことをふと思い出したわけだ。急いで梅干しを漬けなくちゃ、とスーパーに立ち寄ると、今シーズンもお終いの様子。袋入りの梅の実が、売り場の端っこに並んでいただけだった。1キロ入りを一袋と、塩を一袋。初めてなので、ほんの少しだけ買い求めた。

取り敢えず今夜は、梅を洗って水に漬けるだけ。もちろん拾った梅も加えた。これから先が長丁場である。

2011年6月12日日曜日

自然エネルギー

自然エネルギーの可能性と限界」を読んだ。風力発電、太陽光発電に代表される自然エネルギーの特徴をコンパクトに解説している。短時間で、要点を仕入れるのに格好の本である。原発を廃止して、自然エネルギーを活用する議論の前提として、最低限ここに書かれている程度の知識は必要だ。

ちょっと考えると分かることだが、日本は湿潤温暖、緑豊かな土地柄で、それは逆に言えば、太陽が年中照りつけるわけでなく、年中強風が吹いている場所ではないということ。従って日本では、お天気任せの風力発電や太陽光発電を発電の主力に据えるのはどだい無理。たくさん作って並べれば何とかなるという意見だってあるだろうが、費用対効果の問題が解決できない。風力も太陽光も、エコ発電のシンボルとか個人消費用の発電と割り切った方がいい。

現実的な可能性としては、水力発電、地熱発電だろう。どちらも日本の風土に適している。特に水力発電は、小さな装置でも安定的に電力を供給できるので実用的だ。地熱発電も、真剣に取り組めば、将来の可能性は大である。しかしいずれの方法を選択するとしても、原子力発電と置き換えるには長い時間がかかる。

従って原発を拒否しつつ、電力の恩恵を受けるには、今のところ電力消費量を減らすしかない。品質のいい電力を大量に食うハイテク産業は外国に委ねる。二酸化炭素を排出する火力発電を維持する代わりに、車社会を終わらせる。都市においては、エネルギー効率の悪い戸建て住宅から集合住宅への住み替えが必要。当然のことだが国際競争力は今より更に低下し、雇用は減少、経済は確実に縮小するので、それに見合った質素な暮らし方をしなくてはならない。

ちょっと意地の悪い言い方をしたが、そのくらいの前提でいないと、原発廃止は実現できないだろう。今は気持ちに弾みがついてるが、これから何年もかけて、しみったれた暮らしをしながら、成し遂げるべき国民的な課題なのである。エアコンに大画面テレビ、大型冷蔵庫、食洗機に乾燥機、ぜんぶ持っては未来に行けない。だが、それでも快適な暮らしを実現することは可能だと信じている。

2011年6月11日土曜日

しょうゆ差し問題 2


4年前にも取り上げたしょうゆ差し問題だが、
ようやく解決にたどり着いた。求めていたのは、液だれせず、洗いやすく、簡潔なデザインのもの。液だれしないことを謳う商品は多いが、これまでの経験だと、当初は大丈夫でも最後には液だれするものがほとんどだった。だから、液だれを起こすまでどれくらい保つかが、しょうゆ差しの決め手だった。

で、今度のは使い始めて2ヶ月近くなるが、まだたれる気配がない。いつもなら液だれ防止を兼ねてたびたび洗っていたのだが、今回はいつまで経ってもたれないので、つい洗うのをサボっていた。ちゃんと洗わなくては。

実家では、物心ついた頃からあるしょうゆ差しを、いまだに使っている。カットの入ったガラス製だが、先日帰省した折りに久しぶりに使うと、相変わらず醤油がたれた。それはそれで構わない。いつもの懐かしい醤油の輪染み、残念なことに新しいしょうゆ差しには、そういう機能は付いていない。

2011年6月10日金曜日

「希望のつくり方」

希望のつくり方」。タイトルがいい。もし希望がなければ、作っちゃいましょう。必要とあらば、身近にあるものを寄せ集めて、適当に間に合わせよう。ブリコラージュな希望。そんなふうに思わせるタイトルに惹かれて読んだ。

そもそも「きぼう」って何だっけ。まず作る前に、はっきりさせておかないと。本書によると「行動によって何かを実現しようとする気持ち」。そうそう、ターゲットは簡潔でないと。つまり具体的に、何かを変えようとすること。何も変えようとしない人が圧倒的に多いから、この国には希望がないんだ。

そういう気持ちを起こさせるにはどうすればいいのか。希望のつくり方の話。それには効率性や合理性を妄信せず、一見無駄に見えることを、いろいろと体験することが重要だ。自分を取り巻く環境は常に変動するのだから、その時点で主観的にベストの選択をしても、それはたいてい失望に変わる。むしろ迷い戸惑う過程で、偶然に出会うものを大切にすべきだと。小賢しい考えを起こさず、運命に従えということだな。

ふと、黒澤明の「生きる」という映画を思い出した。何ら変化を望まない役人が、癌を宣告されて絶望するが、何かを求めてさまよううちにようやく自分の役割を見いだす。それは暗渠を埋めて公園を作るという仕事だった。そして残された時間、希望を叶えるために命の火を燃やすという話。本書のエッセンスがすべて詰まっていた。公園が完成した冬の夜、ひとりブランコに座り「ゴンドラの唄」を歌うシーンは素晴らしかったなあ。このシーンを堪能するため、なんど「生きる」を見たことか。

そしてもうひとつ、アンゲロプロスの「霧の中の風景」も、希望を描いた映画として忘れてはいけない。幼い姉弟が、幻の父親に会うため旅を続ける話。わたしにとっては希望と祈りの映画なのだ。

話がわき道に入ってしまったが、希望をつくるとはそういうものだ。ペラペラ、ピカピカのプラスチックのような生き方をすると退屈と絶望しか準備されていない。そしてこれは社会にも当てはまり、価値観の単純な効率一辺倒の現代社会は、人々から希望を奪い、決して長続きするものではないと思う。

2011年6月7日火曜日

ラジオを楽しむ 2



某総理大臣並みの思いつきで書くが、ラジオはエコなメディアだ。とりわけ、斜陽貧乏の日本人に最適のメディアだと思う。出版と違って紙やインクが不要で、テレビみたいにお金が掛らない。極端に言えば、小さな発信器と小部屋、人ひとりいれば何とかなるメディアだ。聴く方にしたって、馬鹿高い受信料を気にする必要がないし、大型テレビのように特別な置き場所も必要ない。余談だが、節電したけりゃテレビ局を一定時間放送休止にすればいい。埋め草もどきの番組がほとんどなのだから、夜間だけの放送にしてもさほど弊害はないのではと思う。

さて、この数ヶ月間、頻繁にラジオを聴いたが、案外つまらない番組が多いと感じた。そこで好き嫌いが分かれる人の場合、ラジオを垂れ流しで聴くのではなく、気に入りそうな番組をピンポイントで録音しておく必要がある。だから予約録音機能の付いたラジオがいるというわけ。まあ現状はそんな感じだが、しかしラジオの持つ特性を生かせば、もっといろいろと面白い番組ができるのではと思っている。

わたしが一番聴いてみたいのが、地域密着型、半径数キロ圏内の話題を取り上げた番組。どこそこの誰それが、ああした、こうした、どうなったという、地域内でしか通用しないニッチな話題満載のもの。きっと住んでる街を見る目が変わってしまうだろう。コミュニティ・ラジオ局のより、もっと密度の濃い個性的な番組がいいな。

それから、CNNみたいなニュース専門局が欲しい。かつて短波放送でニュースワイド番組があったが、その番組をかなり気に入って聴いていた覚えがある。24時間いつでも世界中のニュースが聴けるラジオがあれば、どれほど素敵だろうか。そして、できることなら日本語だけでなく各国語でも流してくれるなら、もっと楽しい。

あと、番組ではラジオドラマが断然不足している。聞き慣れると、これが結構面白いのである。音楽やトーク番組が嫌いな人向けに、腕っこきの声優を起用して質の高いドラマを作れないだろうか。イギリスの古いミステリーなんかだったら、物語の闇を描くのにラジオドラマがぴったりだと思うのだが。

それから、これはちょっと極私的なノスタル爺だけど、かつてFM放送でやってた「きまぐれ飛行船」みたいなの、放送してくれないかな。いかにも都会的で、自由な男と女の会話に憧れたものだった。当時の背伸び盛りの少年達は、みんな聴いていたはずだ。もちろん再放送でも大歓迎。懐かしい歌手の動画を貼り付けておく。

2011年6月5日日曜日

ラジオを楽しむ


大地震の後、ラジオをよく聴くようになった。眠れない夜には本を読むより、ラジオの声を聴く方が気持ちが落ち着くからである。それからもうひとつ、新しいラジオを買ったことが大きい。それまでは、電源コードに繋がれたラジオを共用していたので、自ずから必要なときだけのラジオだったが、電池式のラジオを加えたおかげで、好きなときにどこででも聴けるようになった。

電池式のラジオなんて、何を当たり前なことをと思われるだろうが、実はそうでもない。これまで、ちゃんとしたスピーカーの、予約録音ができて、電池式のポータブルラジオというのが存在しなかったのだ。たとえ性能のいいラジオでも、電源コードに繋がれていれば、ベストの受信が得にくく、聴く場所が限定されるわけで、それらの欠点を解決したのが、今回のラジオだったというわけだ。

録音はICチップに、内蔵メモリで4ギガ、さらにメモリカードを加えれば、無制限に録音ができるのが嬉しい。ラジオを聴かない時は、受信状況の良い場所に置いて、せっせと予約録音に励む。そして、聴くときは自分の都合の良い場所で、必要ならばメモリカードを抜き出して外出先でも聴ける。いままではハードディスクの録音だったので、それをするには手間だったのだ。

休日の昼下がり、雑用をこなしながら、録音した番組をぼんやりと聴く。これがいいのだ。本日のメニューは、堀江敏幸原作のラジオドラマ、「レンガを積む」。とある地方都市で小さなレコード店を営む男の話。テレビでなく、ラジオだからこそ相応しい、上質の短編ドラマだった。