2012年9月30日日曜日

タイマー

年齢を重ねるとはどういうことか、実際になってみないとわからないものです。自分の場合は、想像以上に早かった老眼の不自由さなんかが、その典型です。それから超短期記憶の衰えなど。意識して覚える場合はともかく、無意識の場合は笑ってしまうくらいだめ。用事があって部屋を出たとたんに、もう忘れているというギャグのようなありさま。同時並行的に別のことを考えた瞬間が危ない。なんでも脳の働きが、自然とそうさせるらしいのです。


 そんなわけで、複数の作業を同時におこなう必要のある家事で、タイマーを積極的に活用するようになりました。炊飯器のスイッチは、バタバタしているとたいてい忘れます。なので、米を研いだらその作業の一環として、その場でタイマーをセット。おかずが先にできてしまい、ご飯がまだなんて悲しい思いはまっぴらですからね。

火のつけ忘れ防止にも、タイマーを活用します。家事が立て込んでくると、鍋の火を失念します。4分間をひと区切りにして、電子タイマーが鳴ったらとりあえずコンロの様子を見に行き、すかさず次の4分をセットするというふうに。もっとも最近のガスコンロには安全装置があるでしょうから、自分のようなケースは珍しいかもしれません。もっとも安全装置が働く頃には、たぶん鍋の中は焦げて真っ黒でしょう。


老化の仕組みはまだ解明されていないと聞きます。確かなのは、私たちの体内では誕生した直後からタイマーが作動しているという動かしがたい事実のみ。若い頃は自分の中で刻むタイマーの音なんてぜんぜん聞こえませんでしたが、中年になってから少しずつ聞こえるようになりました。ときおり同世代の人が若くして急逝すると、時間を刻む音がいきなり大きく聞こえます。

「移行期的乱世の思考」


凌ぎやすい季節になったので、このところ乱読の日々が続いています。心に引っかかる本、偶然目にした本、人に勧められるまま手に取った本、それぞれに何の脈絡もなくただ読んでます。そうして、脈絡のないところで、全体として何かしらの模様のようなものが見えてきて、それが無意識の今の私なのだと実感します。言葉にならない感情に、色や形を与える作業に似ているかもしれません。

その中の一冊、平川克美さんの「移行期的乱世の思考」を読みました。あーでもない、こーでもないと考え、自分が無意識にやってきたことについて、やっと腑に落ちる説明を受けたような内容でした。二項対立的な議論の気持ち悪さや、どうしようもなく貧しく感じる言論の状況、つまり、ある問題についての議論や言論が社会を豊かにするのでなく、貧しい方向にばかり向いてしまう現状について、かなり説得的な分析をしておられます。

適切だったのは、「問い」そのものが間違えているという指摘です。因果関係や相関関係が不存在、不明確であるにもかかわらず、二項対立的に「問い」をたてて、議論を迫る言論のあり方が胡散臭いわけです。最近の例で言うと、原発や外交、経済、社会制度などで、強引な問いが増えています。これら「問い」の押しつけに対して、私たちがどのような態度で接すればいいのかについて、多くのヒントが得られるように思います。逆に、このような問いに対して、いかなるスタンスで対処しているかで、個人の質を見る絶好の機会なんでしょうね。

もうひとつ、記憶に止めておきたいのは、「リセット願望」の危うさについての指摘です。これまで時間をかけて築き上げた現実をリセットして、一からやり直すという誘惑です。どこかの政党が、おもちゃのように行政を掻き回して、結局得るところは何もなかったという適例がありました。政権担当者自身に、どこか傍観者的に責任を負う感覚が欠如していたから、あのように短絡的な政治を行えたわけです。それを更に大々的にスケールアップして、末代にまで悪影響を及ぼすリセットを行ったのがお隣の大国。表面上は元気に見えても、これから先、世界から敬意を払われるような実質を持つ国になるには、途方もない時間が必要になるでしょう。私たちだって、よその悪口は言えたものじゃないですが、掛け間違えたボタンを直すには、丁寧に解きほぐすような努力が必要であり、それには長い年月が必要だという覚悟が求められるわけです。

2012年9月15日土曜日

今夏の成果


ことし7月から9月までの3ヶ月間、電気使用量は合計487kWhでした。ひと月平均、約160kwhです。前年度比で、15%節電した勘定になります。8月の猛暑を耐え抜き、9月に入ってからはエアコンの運転も終日止めました。それでぜんぜん平気という訳じゃありませんが、我慢しているうちに暑さ慣れしてきたのかもしれません(笑。

ことしと同じく猛暑だった一昨年を比較すると、その年は3ヶ月で計753kWhだったので、約35%の節電を達成したことになります。節電を意識するだけでも、意外に成果は上がるものです。そんなに無理している感じではないので、快適さをほんの少し我慢すれば誰でも達成可能な数字じゃないでしょうか。

来年の節電目標は、夏の3ヶ月で合計450kWh、ひと月平均150kWhです。あと5%程度の節電が必要ですが、これまでとは違う努力も必要になりそうです。しかし取り敢えずは家中の電灯を、すべてLEDに取り替えればなんとかなるでしょう。コストは掛かりますが、可能である以上は必ず達成したいと思ってます。

たかが節電、そんなに頑張らなくともと思われるかもしれません。しかし、この先電気料金の大幅な値上げが確実である以上、余裕のあるうちに準備すべきだと思っています。そしてもう一つには、原発廃止が世の中の趨勢ならば、自分の出来る範囲で協力したいのです。原発なんてものは無いに越したことはないのですから、原発の恩恵に浴した世代の罪滅ぼしとして、電気に頼らない暮らしもいいのではないかと。もちろん経済に与える影響は大きいでしょうが、それでも原発のツケの先送りは許されないと思います。

そして写真は、今夏のささやかな努力の成果のひとつです。猛暑続きでしかも雨が少ないためなのか、ゴーヤーの生育は順調でした。食べて良し、節電に良しで、来年はすべての窓をゴーヤーの葉っぱで覆いたいと思います。

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山本義隆さんの「福島の原発事故をめぐって」という本を読みました。わずか100ページ足らずのコンパクトな本ですが、原子力発電に関する問題点はむろんのこと、更に視座を広くとり、科学技術思想の歴史まで簡潔に纏められています。冷静な議論というと、どうしても現状維持という方向に向きますが、そもそも科学技術とは何なのかというラディカルな視点での落ち着いた議論には好感が持てました。

2012年9月13日木曜日

深夜の台所で


その晩は、友人と行きつけの店で酒を飲んでました。日本酒の専門店ですがインテリアはなかなかモダンで、照明を落とした薄暗いカウンターでは、スーツ姿の男たちが静かに酒を楽しんでました。何時くらいからだったか、落ち着いた雰囲気の店内が急にざわついてきました。ちょっと慌てたふうに店を出る人や、不安げに隣の客と話し込む人。何が起きたのだろうと話し声に耳を澄ませると、マンハッタンで・・・、大事故が・・・、と聞こえてきます。とんでもないことが起きていると直感して、友人と共に早々に店を後にしたことを覚えてます。

それからあっという間の歳月でした。事件が起きるまでは、冷戦の終結とヨーロッパの統合、IT技術の急激な進歩、途上国の順調な経済発展などで、それなりに平和で明るい未来を想像していたように思います。その当時もやっぱりダメダメの日本でしたが、製造業がしっかりしてたので、それほど悲観的でもありませんでした。これから先も大変だろうけど、豊かで平和な世界がある限り、自分たちだって何とかやっていけるだろうと考えていたのは確かです。

あれから11年後の夜、数日前に買い求めた桃が熟してきたので、就寝前にジャムを作ってました。細切れにした桃の実を、とろ火で煮るだけの簡単な作業です。スパチュラで鍋肌のジャムをこそげ落としつつ、ゆっくりとかき混ぜながら煮込みます。とろみを付けるために、種も一緒です。それから砂糖は、最初から全部入れずに、甘みを確認しながら分けて入れて、少しずつ好みの味に近づけます。

年齢のせいもあるでしょうが、ずいぶんと考え方や暮らし方が変わりました。ちょっと大袈裟な言い方ですが、何事もなく生きていることが、奇跡的に幸せなことなのだと。そして、これから同じだけの時が経過して、きっとこの平凡な夜を振り返るに違いありません。夏の終わりの静かな夜に、ジャムを煮て過ごしていた時間を。

2012年9月3日月曜日

こうじで遊ぶ

 いただき物のこうじを使って、塩こうじを作りました。作ると言っても、こうじに塩と水を混ぜて発酵させるだけなので、遊び半分でやってもぜんぜん大丈夫。気をつけることは、雑菌が混じらないように、清潔な環境で行うことくらいでしょう。

 下の写真は、発酵を開始して一週間が経過した状態。こうじ好きの人には、たまらなく良い匂いがします。この程度で使いはじめても支障はありません。

去年の今頃だったでしょうか、店頭で完成品を見て、思わず手を伸ばしたのがきっかけでした。それから、あれこれと料理に使ったのですが、塩こうじはまさに万能調味料。わたしの場合、醤油をあまり使わず、しかも塩も薄味にする癖があるので、塩の代わりにこれ使うと旨味がプラスされ、料理が劇的に美味しくなりました。特に、減塩に注意すべき人たちには、イチオシの調味料だと思います。

2012年9月2日日曜日

「小商いのすすめ」


以前のエントリーで、問題が大きく複雑で手に余る場合は、選択肢を広げて実行することが必要だと指摘しました。つまり誰にも正解が見えない場合は、みんなで四方八方いろいろやってみて、誰かが正解を見つけ出せばそれでいいじゃないか、ということです。誰が正解かを考えているうちに、自分の人生が時間切れになるという生き方ほど残念なことはないですから。

平川克美の「小商いのすすめ」を読みました。日本の社会はこれから老いて縮小していくのであり、この問題はもはや経済成長によっては解決できない。私たちにとって重要なことは、天下国家の「おおきな問題」ではなく、自分が責任を負える「ちいさな問題」とどのように向き合うかということだ。そして、この「ちいさな問題」への処方として、小商い的に生きることを提案するという内容です。

大組織で起きる不祥事では、刑事罰が生じる以外、結局誰も責任をとりません。たとえば政府のリーダーの致命的ミスに対して、誰も真剣に責任を追及しないし、当の本人に責任の自覚すらないのが実情です。そういうことが当たり前になると、誰もが自分の行動に責任を負わないことが許されるような感覚に陥ります。社会は他者への信頼によって維持されているのに、その信頼を毀損する行動は社会全体を窮乏化させる引き金になりかねないのです。

著者のいう小商いとは、「いま・ここ」にある自分に関して、責任を持つ生き方だと言います。「いま・ここ」に生きているから、本来は自分の責任でないことについても、責任を負うことが重要なんです。卑近な例ですが、ゴミが落ちていたら、たとえ自分のものでなくても、自分の仕事でなくても、拾い上げるということです。ゴミをポイ捨てする人間は論外として、人は社会的動物である以上、メンバーであることから生じる責任を当たり前に実行できなくては困るわけです。

「小さなことからコツコツと」なんて言いますが、結局のところ、解決困難な大きな問題を政治に委ねて文句垂れていても何も解決せず、それぞれの個人が、他人の不始末に対しても自らが責任を負うという形でしか、物事を前進させることは出来ないということです。それが出来れば世話ないよという批判が聞こえてきそうですが、何事もやってみなくては分からないですよね。特に、経済的には先の消費増税でズタボロ確定となったことですし、政治的な混乱も延々と続きます。そういう中で、我ひとり、小商い的に振る舞うというのも、なかなか魅力的な選択肢のひとつだと思いました。