2012年10月28日日曜日

メシが進む!

ちかごろ、体重が増えまして。いつものベルト穴では、ちょっと苦しいです。そりゃ、何でも美味い美味いと食べてれば、放って置いても太りますわな(笑。


栗が嫌いな人は少ないと思うのですが、周辺のスーパーではあまり見かけません。皮剥きが面倒だから、そもそも自分で料理しようとする人がいないのかも。包丁一本で皮剥きしてると酷く時間が掛かるし、そのくせ食べる段にはあっという間なので、何か虚しい気分にさせられます。まあそれでも、栗のおいしさに負けて、毎年皮剥きに励むわけですが。調理は、単純に栗ご飯が一番うまいと思いますが、そればかりでは芸がないので、いつも鶏肉との炊き合わせも作ります。メシが進し、酒も進む!


メシが進むといえば、サンマ。目黒といえば、サンマ。夕方散歩してて、通りすがりに換気扇から吹き出すサンマの煙を嗅ぐと、もう盛んに腹が鳴って堪りません。しかしながら、自分で焼いた後の片付けを考えるとげんなりします。気密度の高い集合住宅で、サンマやサバを焼くというのは本当に面倒です。だから、魚の塩焼きが食べたくなったら、いつも店で食べるようにしています。しかしやむなくウチで料理する場合には、迷わず煮付けにします。それで昨晩は、安いサンマが手に入ったので、夏の間に買っていた山椒で煮付けを作りました。写真の見かけは、ちょっと不細工で申し訳ないのですが、いやまったく、メシが止まらなくなってしまいました。

ちなみに、小津安二郎の映画で一番好きなのは「秋刀魚の味」なんですが、あれ、秋刀魚が出てこないですよね。人生は、はらわたの苦みまで味わい尽くせ、というメッセージでしょうか。苦みがあってこそ、脂肪の甘みが引き立つもんだと。それとも、脂肪が甘いから、苦みのうまさが尊いということか?考えていると、分からなくなります。

2012年10月17日水曜日

チープだけど美しい

チープなものというと、世間では、ちょっと評判の悪い、粗悪品の代名詞のような見方をされます。果たして、本当にそうなんだろうか。自分の感覚が変なのかもしれませんが、むしろ高級と見なされるものの方が、かえって貧相に見えて仕方ない。


たとえば、必要最小限の素材を加工した、道具の本質だけを表現したようなもの。たとえば針金ハンガーなんかがそうですが、これ以上削りようがないというフォルムに、みずみずしい緊張感と豊かなアイデアを感じます。確かに、金銭的には馬鹿馬鹿しいほどチープです。だからといって、使い捨てにされるほど無価値なものとは思えません。むしろ、貨幣価値を基準として、モノの扱いが変わる態度そのものに、どこか荒んで刹那的な心を感じます。


本来ならば捨てられることを予定している容器たちも、ラベルを剥がし、きれいに洗浄すると、思いがけなく美しい姿を現します。中身の方は、ぜんぜん大したことなくても、容器の方で凄く得したこともしばしば。そんなことが続くと、中身よりも逆に容器ばかりに目がいきます。まあ、これを本末転倒というのですけど、美しい道具は何であろうと、大切に使いたいものです。


写真の壺は、マスタードが入っていたのですが、現在は塩入れとして活躍。台所の隅っこでどっしりと、威風堂々の存在感を放ってます。長く使っていると、愛着が湧きます。

2012年10月16日火曜日

「せきがく」を知る


「碩学」という言葉。普段、耳にしたり、口にすることがなく、たまに文字を見かけると、なぜか「けんがく」と読んでしまいます。こどものころのヨミマツガイが、この歳までずっと引きずっているわけです。毎回、「けんがく」と読んで、いかんいかん「せきがく」なんだ、と脳内で訂正する始末。けっして人前で口に出来ない、私にとっては危険な言葉です。

碩学という言葉で、連想するのは誰でしょう。単なる物知りではなく、膨大な知識と人格が分かちがたく結びつき、全身から深い教養が自然と醸し出されるような、近寄りがたいくらいに偉い先生。私は、真っ先に小林秀雄あたりが脳裏に浮かびます。さらに、学生のころ、下宿の隣に住んでいた先生がそういう方で、たいそうお歳でしたがすれ違うだけで緊張が走ったものです。和服が似合って、杖をつき、ゆったりとした足取りで近所を散歩されていたのが思い出されます。

現在では碩学と呼ぶに相応しい、そういうイメージに合う人は少なくなってます。もちろん、単に私が無知なだけで、行くとこに行けばたくさんいらっしゃるでしょう。ただ以前は、それもかなり以前ですが、テレビなんかでは頻繁に碩学のインタビューや講演を放送していて、畏れ多くも少しは身近に感じられたものです。

ここ最近、碩学の対話をテーマにした本を立て続けに読みました。最初に、梅棹忠夫の「日本の未来へ―司馬遼太郎との対話」。20年以上前の対談を収録したものですが、むしろ今だからこそ読む価値のある本です。ことに日中間の深刻な対立を予感させる記述が、とても印象的でした。さらに、共に日本の国力がピークであることを認識していて、この先の未来を深く案じています。そういえば、高坂正堯もかなり早い時期に、日本の将来の厳しさを指摘してました。碩学たちには、現在の日本の困難がお見通しだったということです。今の状況を見たら、なんと言われることだろうか。

それから、もう一冊。博覧強記で知られた小松左京による、稀代の碩学たちへのインタビュー集「学問の世界 碩学に聞く」。肩の凝らない、くつろいだ話が中心ですが、それでもパソコンを前に、知らない言葉を一つ一つ検索しながらでないと、話の内容についていけません。秋の夜長に、学問の奥深さを知り、逆に自らの無知、浅薄を反省するに、絶好の本だと思いました。

本書では印象に残る話がたくさんありましたが、とくに江上波夫の言葉に感動しました。
「学者は浅く広く掘る。浅く広く掘っていても、うんと広く掘っていると深くなって、専門家よりももっと深くなる。全体からみればまだそれは浅い。それが本当の学者だと思うのです。」
学者にとっては、なにより若々しい精神、永遠のアマチュア精神が大切なのでしょうね。この本にも登場した隣家の大先生も、人を惹き付けて止まない、自由闊達な魅力がありました。お元気な頃の姿を思い出し、ちょっと懐かしかったです。

2012年10月13日土曜日

ジャムを作る


閉店間際のスーパーに行ったら、ブドウが処分価格で売られてました。あまりのことに、あとさきも考えずに衝動買いするのはいつものことです。


最初は数日に分けて食べようかと思ったのですが、量が多すぎのでジャムにすることに決定。先ずは実を外してよく洗い、砂糖をまぶしてしばらく放置します。


そして深夜、虫の音しか聞こえない静かな時間を、ジャムを煮て過ごします。ことの成り行き上、ジャムと言えばこんな時間になってしまう。食べることより、むしろ作ることの方が楽しいという、わずかな例外です。


2012年10月12日金曜日

LED電球へ



LED電球が、より明るくなり、しかも安くなってきました。ちょうどフロアランプの電球型蛍光灯が切れたので、これを機会にLED電球と取り替えてみました。その結果は、これまでと比べ2割方明るくなり、光色もすっきりと自然で、今回の取り替えにとても満足してます。前回、LED電球を話題にした時は、実用性は今ひとつという感じだったのですが、これならば立派に実用になると思いました。

ただ、安くなったとはいえ、まだまだ高価。最安値のところから調達したのですが、それでも2個で5千円近くします。ソケットがE17という小さなサイズなので、やはり普通サイズと比べると割高になるのでしょう。それから電球の大きさですが、意外にも電球型蛍光灯よりずっと小さく、白熱灯と変わらなくなってました。つまり手持ちの古い照明器具にも、普通に使えるようになったわけです。写真は、中央に今回のLED電球、左が蛍光灯、右が80ワットのミニクリプトン電球を置いて大きさを比較したものです。

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さて、今月の電気使用量ですが156kWhとなり、前年同月比10%減です。過ごしやすい季節のうちに、しっかりと節電して、冬の消費増加に備えたいものです。僅かでしょうが、新しいLED電球の節電効果にも期待しましょう。

2012年10月9日火曜日

雑感


先週、季節外れに蝉の鳴き声を聞いたばかりなのに、今週は一気に秋真っ盛りです。あの蝉たちは、せっかく這い出してきたのに、ひどく中途半端で終わってしまいました。それでつい、溢れんばかりの才能がありながら、生まれたタイミングが悪く、世間から評価されることなく一生を終えた、幾多の人たちのことを考えてしまいました。

昨日の、ノーベル医学賞を受賞した先生ですが、なんだか嬉しいですね。親戚でも知り合いでもないのに、自分にもいいことがあったような気持ちです。じつは私の妹が、数年前に仕事で会ったことがあるのですが、とても気さくで親切な方だったそうです。これまで大変な努力をされていたのを、メディアを通じて知っていただけに、早く評価されて本当に良かったなあと思います。

それに引き替え、と言っては角が立ちそうですが、平和賞というのは何なんでしょう。どう考えても、納得のいかない受賞者がチラホラと見受けられます。科学的な業績とは違い、政治的な業績というものは、棺桶に蓋をした後でないと評価のしようがないと思うのですが。

2012年10月7日日曜日

夕暮れの丸の内を散歩


 丸の内に用事があり、そのついでに周囲を散歩してきました。お目当ては、もちろん東京駅。本当に長い工事でしたが、やっと完成です。巷で評判を呼んでいるだけに、さぞ混み合っているだろうとは思ってましたが、実際は想像以上の混雑でした。アマチュア写真同好会なんでしょうか、いくつもの高齢者グループが、あちらこちらで盛んに写真を撮ってました。



ホールの天井も眺めてきました。クラシックな装飾なのに、ぴかぴかの新品というのがアンバランスで面白い。そのうち埃や煤煙が積もって、ちょうど良い具合になるのでしょう。適度に押さえた華やかさが、そこはかとない品位を感じさせ、東京の表玄関に相応しいと思いました。


 私にとっては、駅よりも、むしろ周辺のビル街の変貌の方が印象的です。私が上京した頃、丸の内界隈では某損害保険の本社ビルが、お堀の傍で頭一つ抜き出て建っていたのが印象的でした。それがこの四半世紀で高層ビルが激増し、今では周囲に埋もれて、隅っこでひっそりと建っているという具合。失われた10年とか20年とか言われる割に、お堀端のビル群の成長には目を見張らされます。これからもまだまだ建設されるのですから、将来はどういう姿に変貌するのか楽しみです。


以前は典型的オフィス街だったので、夜ともなると人通りが途絶え急に寂しくなったものです。それが今では、小売店や飲食店が増え、夜遅くまで不思議なくらい賑わってます。今年も恒例のイルミネーションが始まってました。これでもうちょっと気軽に飲めるバルでもあれば最高なんですがね。