2010年12月31日金曜日

自然体で 2

テレビが嫌になった理由はいろいろあるが、ひとつには健康や美容に関する情報番組やコマーシャルの氾濫がある。体に生じるちょっとした変化を取り上げては、重大な疾病のシグナルだと注意を喚起したり、逆にこれさえ食べればもう安心とばかりに特定の食品の摂取を勧める。そりゃ年をとれば、誰だって不愉快な症状の一つや二つは当然であり、普通ならばそんなことに構ってられないだろう。もちろん、不愉快な症状の中には深刻なものも含まれているかもしれないし、テレビ番組のおかげで生き延びることができたというケースもないとはいえないだろう。だがそれ以上に、当然のこととして気にしないで暮らしていた人を、不安で煽り立てているだけではないだろうか。そして盛大に煽っておいて、つぎにああしろこうしろ、あれ食べろ、これ食べるなとは、ただのマッチポンプ商法じゃないか。そうやって人の心を弄んで疲れさせ、締めくくりが泣けるドラマだとか癒しの番組とかでは、ちょっとひどいと思うのだ。

その極めつけが「ダイエット」とか「メタボ」とか、むかしなら問題にもならなかったことをあげつらうようになったことだ。栄養状態がよくなれば多少の肥満は当然だろうし、メタボに至っては外見は問題なくても中身が問題だという始末。それも健康上の不都合に含まれる以上は、問題にするのは当然だとする立場もあるだろう。だけど、心配なのは、そういう注意を喚起することが、人々が病気や死をあってはならない悪いものと信じ、過剰に安心感を求めるあまり、かえって人生を無味乾燥なものにしているのではないかという点だ。極端なたとえだが、あまり収入がないのに、ほとんど保険に費やすような窮屈な暮らしみたいな。保険にはリスクを軽減するという効用はあるだろうが、見方を変えれば病気や事故を期待してお金を賭けているのと同じだ。過剰な安心は、必ず何かを損なっている。

そういう過剰な安心の行き着く果てが、国や社会に対する行き過ぎた要求である。もう言わんとすることはお分かりだろう。日本の国や社会に蔓延する閉塞感は、過剰な安心を求めすぎた結果だと感じるのだ。心配のあまり何も手放せなくなって、身動きができずに立ち尽くし、ただむなしく時間を浪費している。それが私たちの姿。人間生きていれば病気にもなるし、不運な事故にも遭遇するし、失業だってする。それが当たり前なのに受け入れることができないから、現実との矛盾が広がっていく。しかし、すでに柔軟性を失っているから、現実にあわせてこれまでの考えを変えることすらできないでいる。

私自身もそうだけど、他人様に迷惑を掛けてはいけないという、窮屈な思い込みが強すぎる。誰であれ、他人様に迷惑を掛けないで生きるというのは無理だし、そう考えているなら傲慢だ。疲れたときには疲れたと言うべきだし、苦しいときには誰かに助けを求めればいい。たまに手を差し伸べようとしても、困ったことに頑として拒む人がいる。助けることができれば、助けた方は幸せだし、助かった方も幸せだ。社会にとっては、両方足してプラス2。それを拒めば、ゼロではなくマイナス2以下になる。それぞれが孤独を味わうから。だから、もう少し他人を信頼して、迷惑はお互い様と考えよう。そうやって、個人に掛かる圧力を下げ、不安感を和らげることで、もうちょっと自然体の好ましい社会にできるような気がするのだ。


来年が、今年より愉快な年になりますように。
そして、この一年、ありがとうございました。

2010年12月30日木曜日

自然体で

食生活と病気の因果関係を調べていたら、怪しげな言説が世の中を徘徊しているのに気がついた。肉食が疾病の原因であるとか、逆にコメ食ってれば大丈夫とか。人が普通に食べているものを取り上げて、よくもそう安易な結論に飛びつけるものだ。そもそも「健康」という人間の根源的な欲望と、「食」というもう一方の欲望が結びついている時点で、これらの言説に対しては疑いの目を向けるのが穏当だろう。人は利害のないことでは嘘は言わないものだ。

たとえば、アメリカの「なんとかリポート」には、70年代の中国における食生活調査にもとづき、アメリカ人より多くカロリーを摂取しているにもかかわらず中国人の方が健康でスマートであって、アメリカ人の疾病はその典型的な食生活に原因がある、とか書いているらしい。いやはや、どこから突っ込んで良いのやら。それを論拠に、もう一つ飛躍して、だから和食が一番というのもどうだろうか。ちなみに、「なんとかリポート」が胡散臭くて調べた人がいるが、ああやっぱりという結論だった。

米さえ食べてりゃ元気で長生き、というのも同じだ。「風土はフード」だっていうが、今こそ米は十分あるが、むかしの日本人はどれだけ米を摂取していたのだろう。その理屈だと、毎日ドングリやクルミを食べてれば万事オーケーにならない?もう一つ言えば、さきの「なんとかリポート」に喧嘩を売っているような気もする。もちろん、コメは嫌というほど税金をつぎ込んだ食料だから、納税者は食べた方がお得かも知れないし、利権団体だって嬉しいだろうが。

嫌なのは、健康という人の弱みにつけ込んで、テキトーなこと書いて平気な人たちが見受けられるということ。猥褻な書籍ならば時に処罰されるが、食や病気なら何書いても大丈夫なわけで、意地悪く言えばそれは美味しい商売だ。それぞれには善意で書いているのかも知れないが、だから病気にならないとか書かれると、ちょっとね、と思う。それが癌にならない、癌が治る食事だのというと、深刻な影響だって生じるだろう。仮に医学上の発表とした場合、その内容は審査に耐えられるものなのだろうか。

同い年の知り合いが、最近癌で亡くなり、しかも以前から健康のため食事に特別な配慮をしていた人なので、余計にそのような思いを深くする。いっそそういう運命だったなら、美味しいものを好きなだけ食べていれば、もっと幸せだったのじゃないかと。自分の場合は、若い頃から野菜中心の食事だが、だからといって癌にならないとは信じていないし、自分とは違う食事をする人が癌になりやすいとも思わない。素人意見に過ぎないけど、原因の大半は老化と遺伝だと思っている。そしてその方が、仮に事実がそうでないにせよ、いざ本番となったときに素直に病気と向き合えると感じる。食事に関しては、自らの心の赴くまま、自然体でありたい。

2010年12月27日月曜日

断捨離とは無縁の

本屋に行くと、陳列棚の目立つところに「断捨離」がずらりと平積みされてた。いかにも押し迫る年の瀬という風景。わたしも溜まった書類を分類し、捨てるべきか保管すべきか悩む日々を過ごしている。迷うくらいならスキャナーにかければいいのだが、電子記録というのもどことなく頼りなく感じ、また旧式の機械なので時間が掛かる。いろんな手間を考えると、結局自分の手で振り分けるのが一番なのだ。

以前は嵩張って悩みの種だったビデオやCDなんかは、ほとんど電子記録に変わってしまったので、こっちは既に手間がない。書籍は寝転んで読む程度のものは図書館に任せ、繰り返し読むべきものだけを購入するようになってから、もはや安心立命の日々。電化製品などは端からあまり持ってないし、衣類なども流行に関係ないものを大事に使っているので、減ることはあっても増えることはない。突然明日引っ越しとなっても準備に全然困らない、つまりそれが夜逃げの夫婦と呼ばれる所以である。

だが弱点がひとつ。食が好きだから、それ関係のものが整理できない。あっ!それいい!と思うと、つい持って帰ってしまう。旅行に出ても、トランクを珍しい食品や、変わった調理道具で一杯にして戻ってくる。空き瓶、空き箱などのゴミの類まで持ち帰ってしまうので、なおさら始末に悪い。これだけは「断捨離」とは無縁の、いわばサンクチュアリのような場所なのである。


さて、去年に引き続き、今回また持って帰ってしまったゴミの写真。新しい種類を発見して、中身はすぐに食べ、ゴミだけを大喜びで持ち帰ったのである。もう用途なんて考えもしない、あればそれでいいという理屈なき収集のレベル。


裏を返すと、容器の製造者のURLが刻まれていた。試しにそこにアクセスすると欲しいのがでるわでるわ、これで当分ゴミ集めは続きそうな気配である。

2010年12月26日日曜日

今年読んだ漫画

世間に置いて行かれないよう、毎年必ず何冊かは漫画を読んでいる。その世界のことはほとんど知らないが、ネットと図書館のおかげで良質(たぶん)の作品に接することができている。今年読んで良かったと思ったのは、高野文子の作品だった。なかでも短編集『棒がいっぽん』が魅力的で、しっとりと心に残った。そこでのイチオシは、何と言っても『美しき町』。舞台は昭和40年前後か、社宅住まいの若夫婦のありふれたエピソードを描いたもの。進行する「今」では捕らえにくい幸福を、30年後の「未来」の目で語っている。物語の最後で妻が言う。「たとえば三十年たったあとで今のこうしたことを思い出したりするのかしら。子供がいておとなになってまたふたりになって思い出したりするのかしら。」平凡な日常を生きて、淡々と暮らすことが、後で振り返れば、それは抱きしめたくなるような幸せだった。人生の単純な真実を、これほど雄弁に語る漫画は読んだことがない。最後の数ページの感動は、何と表現すればいいのだろうか。

そして、もうひとつは、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』。被爆者の短い青春を描いた作品である。原爆の悲劇を描いた作品はいろいろと読んできたが、等身大の個人の観点から、これほど深い悲しみを描けたものはない。これに匹敵するのはTVドラマ『夢千代日記』くらいだろうか。漫画ファンにとっては今更だろうが、長編の映画や小説で伝えきれない感動を、やすやすと乗り越える日本の漫画の力は素晴らしいと感じた。

2010年12月25日土曜日

山口瞳の本

急に疲れが出て、丸一日寝込んでいた。寝るだけでは惜しいので、ベッドの中に本を持ち込み、読書とうたた寝を繰り返す。体はきついが、こういうのは意外に嬉しい状況でもある。

読んだのは、山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」と「山口瞳の人生作法」。山口の作品を読むのは「世相講談」以来、何年ぶりだろうか。そのむかし、成人の日の朝刊だったかに例年、洋酒会社の広告が載り、氏からの新成人に対するメッセージが伝えられていた。社会人の心構えとか、酒の付き合い方とか、まことに小うるさい広告だったが、毎年それを読んでは我が身を振り返ったものだ。何が書いてあったのか忘れてしまったが、その一部でも自分のスタイルに反映されていれば嬉しい。

「人生作法」に山口が高橋義孝と深い交友があり、人生の師と仰いでいたとの記述があった。そういうことだったとは初めて知った。駆け出しの頃、高橋義孝の風貌に惹かれて、その著書をせっせと読んでいた時期があり、できるなら先生のような酒飲みになりたいと思っていた。そしてその前に好んで読んでいたのが、高橋義孝の師匠に当たる内田百間だった。ちょうど師弟が三代続いて、その関係も知らずに彼らの文章を愛読したことになる。さらに、その山口が本のイロハ、遊びかたを手ほどきしたのが伊丹十三であり、また作家としてその才能を高く買っていたのが向田邦子だったと。当ブログでもたびたび取り上げる人たちを含め、お気に入りの作家たちがずらりとつながっているに驚く。

今は亡き作家たちの容貌を思い返すと、一人一人が個性的であり、厳しい大人の顔を持った人たちであった。そして自分のスタイルを崩さないモダンな都会人だった。わたしが好んで彼らの本を読んだのは、作品がどうのこうのということでなく、つまりそういう大人の都会人に憧れていたからだと思う。また、現役作家の作品にあまり食指が動かないのも、同じ理由からなのかも知れない。草田男じゃないが、「昭和は遠くなりにけり」である。

2010年12月21日火曜日

今年の旅 3

旅行中に何を考えているかというと、一番多いのは何といっても食事のこと。あとは自分のいる場所と方角と財布の残額。同伴者へのご機嫌伺いも忘れていない。それから、余った時間に祖国のことなどを少しだけ。


出かける直前に、とある経済統計で、物価を加味した国民所得が、我が国は上から40数番目という数字を目にした。焼け野原から60余年、一体私たちはその間何をしていたのだろうかと愕然とする。でもって同じような場所に、旅先の国の名前が並んでいた。わたしは東の貧乏国から、西の貧乏国に旅行したというわけだ。


たしかに、かの国の失業率や生活の大変さなど考えると、日本と同じで暮らし向きは決して楽でないと感じる。だからといって、日本より数字的に豊かだとされるアジアの国々が快適かというとそうは思わない。なぜならば、国民所得は所詮フローのお話であり、ストックや金銭的評価の難しい部分などの価値は反映していないから。おまけに所得と生活の豊かさとは、ある程度の水準を超えると関係なくなるし。薄っぺらな成金の大豪邸より、手入れの行き届いた古い家の方が暮らしやすいことだってあるだろう。


結局のところ、経済成長が続いているときに、国は社会資本を充実させ、社会的、文化的厚みを増やすことが必要であり、これらを怠れば長期的な繁栄は得られない。思うに日本は江戸時代、この国はブルボン朝やナポレオン時代の貯金がものをいっているのであり、そこに暮らす我々は遠い先祖の遺産に感謝すべきなのだ。今日の稼ぎを10年後、100年後の将来を見据えて使う、そうしなくてはならないのが国やリーダーの役割。だが、そのリーダー自身が、大切な稼ぎを自分たちの世代に使い果たそうとする始末・・・。と、こんな遠くに来てまで、いつもの悶々とする堂々巡りをしていた。旅は、人を憂鬱な社会批評家にする、のかもしれない。

2010年12月19日日曜日

今年の旅 2

先に出不精の自炊派と書いたが、食い意地は強い方だ。しかし残念ながら食が細いので、とてもグルメなどとは称せない。たまの外食でも、コース料理は無理なので、アラカルトで2皿程度あればもう十分。そんな中途半端な食い意地に引っ張られて、遙か遠く僻地のレストランまでランチを食べに行った。通常ならば数ヶ月先まで予約で埋まっているという話だが、現地で悪天候が続いていたので運良く席が取れたという次第。むろん夜のメニューの方が豪勢だけど、全部は胃袋に収まらないので仕方なくランチにした。


レストランに到着して、最初に通されたのは大きなソファが並び大きな暖炉のある部屋。ここで火に当たりながら食前酒を飲み、メニューやワインリストを眺めて過ごす。たっぷりと時間をかけて料理と酒を決め、それからようやく別室のテーブルに案内される。そこは部屋の中央、美しい海辺の風景がすべて望める窓際の席だった。


シェフは天才と呼ばれるだけあって、文句なしに料理は素晴らしい。ありふれた食材、平凡なメニューでもここまで洗練できるのか、という仕上がりである。メインディッシュが済むと、デザートのワゴンがやって来る。昼のコースのためか、種類や量は思ったより少なめ。それでも周囲の客が一斉にワゴンの中を覗き込む。客同士目が合うと自然と微笑み合い、互いの幸運を感謝した。


前菜はカボチャのスープ。いろいろと具が入って、複雑な風味が絶品。


メインは白身魚のポワレ。魚もそうだけど、付け合わせの芋が気に入った。小食にはぴったりの、お上品な量である。


ワゴンに乗ったデザート各種。見た目は地味だが、これもいける。食堂の客層は、見ての通りみな中高年、それも外国人が多い様子(自分たちもだけど)。



帰りの路線バスの車窓から見えた、魚や牡蛎の捕れる豊穣な海に、どこまでも広がる多様な野菜畑。毎日、目の前のこういう場所から食材を調達するので、何を食べたって美味しいのは当たり前なのである。

2010年12月17日金曜日

今年の旅 1


出不精の自炊派なので、外食は好まない。だから旅行していて困るのは食事なのである。朝昼晩3食とも外食しなくてはならないというのは、けっこうなストレスになる。そこで今回の旅行では、台所つきの部屋を借りて出来るだけ料理を作るようにした。


直ぐ近くに大きな市場があり、べらぼうに安くて新鮮な食材が手に入る。当地ではピカイチと言われるパン屋やチーズ屋もある。早朝から買い物袋を下げて、今まで指をくわえて見てた食材を買いあさり、いそいそと戻って調理する。わたしは野菜料理が好きなので、泥つきの香りの強い野菜を選んでサラダにして食べる。その旨いことったら、顔がだらしなく緩んでいくのが分かるくらい。焼きたてのパンはバリッとした歯ごたえ、小麦のしっかりとした香りが口中に広がり鼻に抜ける。まさに至福の時である。


テレビのニュースでは連日、ヨーロッパ各地の大雪の様子を伝えていた。この時期それほど降るわけではないので、あちらこちらで交通が混乱し、雪の積もった街では目の前で派手に転ぶ人も多く、歩いていても危なくてしようがなかった。トップの写真は、借りた部屋にある中庭の雪景色。


クリスマスシーズンの雰囲気は満点だけど、歩き回るのは時間が掛かって大変だった。