2011年3月28日月曜日

星が増えた?

ショッピングセンターに立ち寄ったら、すでに営業時間が過ぎていた。なんとまあ、どこもかしこも早いこと早いこと。図書館でも早仕舞いするところが多く、こちらでも不便をしている。そのうち慣れるだろうが、当分は不自由しそうである。

思えば小売店の営業時間、今までが少し長すぎだった。外国だったら5時で閉店というのも珍しくなく、まだ太陽が出ているのに急にゴーストタウン化して行き場を失うこともあった。日本でも、以前は今ほど遅くはなく7時くらいで閉店していたように思う。その昔、神戸の商店街などはもっと早く、6時過ぎにはすべてシャッターを降ろしていた。商売も家庭生活も、同じように大切にするのが、神戸っ子流だと教わった。わたしの子どもの頃の話だ。

失ったものを考えるのではなく、それで得るものを考えるべきだと、ちょっと前に書いた。たしかに、こんな状況だと、消費が冷え込んで大変なことになりそうだが、その代わり家庭で楽しむ時間が増えそうだ。そして家庭の価値が見直されるかも知れない。それでもって、結婚する人が増え、新しい家族が生まれ、人口減に歯止めが掛かると嬉しい。

東京の夜空に、星が増えたと感じるこの頃である。

2011年3月26日土曜日

見上げてごらん

震災のあった夜、ガソリンを満タンにした。そして状況は予想した通りの展開となった。その後、友人から避難を勧められるも、心境の変化でその気にはなれなかった。これから何が起きようが、いいじゃないか。腹を括って、できるだけ普通に暮らそう。そういうふうに思ったからだ。

備蓄していた水は十分にあるが、まったく手を付けていない。野菜の産地など気にかけずに食べている。あのチェルノブイリですら、本来人が住めない地域で平然と暮らす人たちがいる。だから、多少得体の知れないものが降り注ごうが、わたしは別段気にしない。

昨夜はなじみのレストランで食事した。いつもよりちょっと贅沢なワインを頼み、ほかに客がいないのをいいことに、店の人と四方山話を楽しんだ。普段は忙しそうなので、あまり声を掛けないが、昨夜は特別だった。同じ町に住んで、近所のうわさ話に興じること。何でもないことだが、ここを故郷と決めて、ずっと暮らし続けたからこその幸せである。

このごろ、無意識に同じ鼻歌を歌っている。昔から好きな歌だったけど、それが今の気分に一番ぴったりくるからだろう。久しぶりに、あらためてオリジナルを聴いて、心が揺さぶられた。

2011年3月20日日曜日

工夫


大通りのガソリンスタンドには、今日も給油待ちの行列が出来ていた。スーパーに行っても、やはり必要なものは手に入らない。卵もミルクもパンも豆腐もない。これでは、子どものいる家庭は大変だろう。それでも野菜はふんだんに出ているので、文句を言わなければまだまだ大丈夫。幸い天気は良いので、せっせと野菜を干して保存食作りに励んでいる。


ウチの冷蔵庫は小さいので、食料をストックできない。地震のあった日も、冷蔵庫はいつものように空っぽだったのが痛い。それから毎日、知恵を絞って新しいメニューに挑戦している。ミルクが無くても豆乳はあるし、豆腐が無くても揚げは手に入る。何かのゲームを楽しんでると思えば、そんなに苦痛ではない。「足りん、足りんは、工夫が足りん。」

2011年3月19日土曜日

空念仏


全国的に「自粛ゲーム」が流行っているらしい。被災者の心情を察してのことだろうが、実際には逆効果。こういう時こそ、経済の活力を最大限に利用して、一日も早い復興を後押しすべきだ。そもそも一見正しそうなことであっても、全員が一斉に同じことをすると、必ず悪影響が出る。今求められているのは、可能な限りこれまでと同じように暮らすことと、自分の役割を忠実に果たすこと。これに尽きる。

それともう一つ。運良く災害から免れた人たちの役割は、悲しんだり同情したりすることではなく、その災害を決して忘れないこと。そして、そこから得られた貴重な教訓を、確実に日常生活に生かすこと。毎年、防災の日にちなんで行われる意識調査の結果を見ていると、あまりの意識の低さに愕然とする。これまでの数え切れない尊い犠牲は、いったい何のために払われたのか分かっているか。地道な備蓄をあざけるような人たちに限って、無思慮な「自粛ゲーム」や「買いだめゲーム」にはしゃいでいるのではないだろうか。

春が到来している。今朝、鳥の賑やかなさえずりで目が覚めた。見ると、若葉を出し始めたケヤキに、たくさんの野鳥が枝にとまり、夢中になって芽を啄んでいた。何という食欲だろう・・・。生きものたちの役割は、空念仏を唱えることではなく、日々を充実させること。無心に生きる鳥たちを見て、強くそう思う。

2011年3月15日火曜日

友人の電話

「今、着いたところ」と、友人からの電話。しばらく関西に滞在する予定という。彼らは本国からの指示で、急遽移動することになった。事情には詳しいので、一度決めると行動は迅速である。

こっちに来ないかと誘われたが、仕事はあるし、思うところあって動く気になれない。幼い子どもでもいれば、日曜にでも離れていたが。そんなことより、なぜ現地では早い決断が出来なかったのか、じつに不思議だ。誰にでも予想できたし、こういう場合、子どもの健康を守るのが最優先なのに。

状況がどのように変化するかは分からないが、人の心はおおよその察しがつく。ちょうど四半世紀前にそうだったように、過剰反応が起きて無関係の人たちまで辛い思いをすることだろう。ここは被害のない場所なのに、スーパーでは不安な客が詰めかけて、一時的に入場制限までしていた。これが食品自体の問題に発展すると、いったいどうなることやら。久しぶりに辺見庸のルポルタージュでも読み返す必要がありそうだ。

2011年3月14日月曜日

雑感

あまりに激しい揺れに、いよいよ「その日」がやってきたと直感した。とっさに安全な場所に体を寄せて、手足を踏ん張って転ばないようにする。恐ろしいのは、建物が揺れることではなく、周囲の音そのものだった。何かが崩れ落ちる音や、警報機、人の悲鳴などが、冷静さを奪う。一度揺れが収まっても、再び音が鳴り始めると、自然と体が緊張していくのが分かった。もう一回り大きい揺れが来たら、ここもお終いかと覚悟した頃、最初で最大の揺れが収まった。

幸いこれといった被害はなかったが、時間が経過するに従い、じわじわと胸苦しさが募ってくる。周囲の人々が冷静に振る舞っているのも、むしろ緊急状態で同調圧力が高まり、ストレスに耐えているようにしか見えない。そして、寝床に入ってもほとんど眠れず、ちょっとまどろみかけたと思ったら、携帯の地震警報で何度もたたき起こされる始末。被災すらしていないのに、次第に疲労が蓄積していくのがわかる。備蓄は日頃から心掛けているので不安はないが、先の見通しが立たないというストレスは想像以上である。

昨夜、報道番組ばかりで疲れてしまい、録画していたバラエティ番組を見た。昔から気に入って見ている「探偵!ナイトスクープ」である。関西人なら誰でも知っている、笑いあり涙ありの長寿バラエティ番組。それを見て二晩ぶりに笑い、酒を飲んだ。生真面目な人ならば眉をひそめるだろうが、わたしはじっと耐えるのが苦手である。だって、これからがとても長いから。たびたび笑っていないと、ちゃんと隊列すら組めない不器用な人間もいるだ。国民が一丸となって難局に臨むのは素晴らしい。だが、国民が一色になるのは、ちょっと困る。

2011年3月7日月曜日

お気に入りの居場所


ぼちぼち暖房器具をしまわないと、と思ったところが雪景色。ウィンタースポーツは好きなくせに、自分のところに雪が降るとうんざりする。まったく我が儘なものだ。

ウチにはコタツがない。学生時代はさんざんコタツの世話になったが、それ以降ずっと持たない暮らしが続いている。決して嫌いなわけでなく、むしろあれば極楽だが、性分としてコタツがあるとだらしなくなるから避けている。エコロジーの観点からは、どてらとコタツが最強の組み合わせだとは思うのだが。

エアコンやファンヒーターは風が出るので気に入らない。石油ストーブは雰囲気はいいが、空気の汚れと結露が大変。それに灯油の確保も問題だ。パネルヒーターという選択もあるが、暖まらない割に電気代が嵩む。結局、部屋の中で厚着して、普通に寒い日はガスストーブを、もっと寒い日はエアコンを併用している。さらに窓下専用のヒーターを設置しているので、寒い思いをすることはない。もっとも一番の理由は、単に家が狭いからというわけだが。

休日の昼下がりは、日の当たる窓辺に引っ越し、ストーブに当たって過ごす。柔らかな日差しと、ストーブの程良い暖かさが甘い眠りを誘う。今わたしにとって、ここが何よりお気に入りの居場所であり、くつろげる時間なのである。

2011年3月5日土曜日

迷わない

ひどく慎重な人がいる。何をするにしても、十分に情報を集め、対象について徹底的な評価をするのが好きだ。しかし自分では決断しきれず、結局は態度保留となることが多い。買い物をする際には、山ほどパンフレットを集めて、ああでもないこうでもないと考える。そしていつも、何で選んだのか分からないくらい詰まらないものを買って、すぐに飽きてしまっている。決して愚ではないのだが、一事が万事その調子で、多くの貴重な時間を無駄にしている。

おそらく、その人に欠けているのは、「感情」ではないだろうか。他人がどう思おうと無関係の、一番大切な自分の感情が抑圧されている。自分が嬉しいと感じるような、「色」や「形」を知らない。最高に愉快だと思える「時間」を体験していない。だから比較ばかりの冷めた時間を過ごしているのだ。その人は、いつも困った表情を浮かべて混乱している。とても誠実で、温かな心を持った人なのだが。

冷蔵庫を買い換える必要があり、大型電器店に現物を見に行った。2年前は余計な仕切りを捨て去ることで乗り切ったのだが、いよいよそれも限界になったのである。以前と比べて、すこしは状況に変化が見られるだろうかと期待したのだが、残念ながら少しも改善していなかった。要するに全部同じ。違うのは容量と値段と銘柄だけ。陰気な色に、不明瞭な形、余計な機能。これを選んだら楽しいだろうなとか、どんな生活に変わるだろうか、というワクワク感が全然ない。

いったいどういう人たちが、こういうのを作っているのだろうかと想像したとき、真っ先に思い浮かべたのが「その人」のことだった。真面目で仕事熱心な、いかにもその人が作りそうな商品だった。そう思うと、情けないというより、ちょっとかわいそうな気持ちになった。そして、選ぶべきものがないわたしも、何台もの冷蔵庫を前にして、巻き尺片手に困り果てている。迷う楽しさのない世界は、つまらない。

2011年3月4日金曜日

非常識な人間の疑問

時折、自分は非常識な人間なのだろうかと疑う。世間とズレた面があることは承知しているが、これが非常識だと困ったものだ。それはニュースの取扱いについて、首を捻ることが多いからである。

最近では、例のカンニング事件。予算が満足に組めないほど財政が逼迫しているのに、なんであれほどのコストを掛けて、強引に司法的解決を図らなくてはならないのだろうか。ただのカンニングが「偽計業務妨害」だそうで、そういう前例を作ると警察は些細な事件に忙殺されないか?前にも医師の国家試験や司法試験の問題漏洩があったけど、それよりも一少年のカンニングの方がはるかに重大だったとは、自分の常識とはかけ離れている扱いだ。

そもそも、どうして入試ごとき些事が繰り返し報道されるのだろうか。出題ミス、採点ミスなどという重箱の隅をつつく下らない出来事に、世間の人はどれほど関心があるのか。誰を、どのように合格させようと、それは大学の自治の問題で、つまりカラスの勝手でしょ。もし大学の入り口が問題なら、出口がどれほどいい加減かも同じように問題にすべきだろう。それとも、社会の常識では、大学は入学させればあとはどうでもいい組織だと認識されているのだろうか。

大新聞と称する某紙社説に、今回の事件は「公正であるべき大学入試制度を根幹から揺るがしかねない。」と書いてあったが、いったいだれが入試制度が公平であるべきと決めたのだろうか。そんなところで公平さを主張するなら、不公正な取引慣行で守られている新聞はどうやって自己弁護するのだろう。そして学歴社会の弊害を言い募りながら、自分たちはそれにどっぷり浸かっている矛盾に恥ずかしさを覚えないのだろうか。もし今回の事件が無名の大学で起きたとしたら、やはり同じように騒ぐのかね?

非常識なわたしには、理解できないことが多いのである。

100年の人生

テレビCMで”人生100年”という言葉が出てきて、ちょっとびっくりしました。数年前から、100年を前提に人生設計すべきということが語られるようになってきましたが、もはや常識のレベルにまで上がってきたということでしょうか 人が当たり前に100歳まで生きる時代が到来するなんて、少し...