2011年8月27日土曜日

時代の変わり目に


スティーブ・ジョブズが、ついにビジネスから身を引く決意をしたという。少し前にアップル社の株価時価総額があのエクソンを抜いて世界一になったというニュースを見て、そうなるのではという予感はしていた。エクソンという、アンシャン・レジームの象徴たる超巨大企業を、新しい世界を模索し続けた若い企業が、遂に金銭的評価で上回ったという事実が、新しい時代の到来を告げている。そしてビジネスの最前線で旗を振り続けた人が、自らその使命の果たされたことを知り、人生のひとつの幕引きに向かうであろうことはごく自然の成り行きだった。

アップルは、最高にモダンでクールな企業だった。物事は格好良くなければならない、モノは非の打ち所なく美しくなければならない。そういうメッセージを常に発し続けた企業だった。職場ではIBMしか使ったことのないわたしにとって、マックを所有することは、掛け値なしに美しい未来の扉を開く希望だった。そしてその後、20メガバイトのハードディスクを備えたマックを迎えたときのワクワク感は、ちょうど子どもの頃に自転車を買って貰ったそれに匹敵した。これに乗ってどこへ行こう、きっと新しい何かが見つかるはずだ。そんな思いでマックの電源スイッチを入れたものだ。

あれからずいぶんと時間が経った。ジョブズがアップルに復帰した時も、これほどの成功を収めるとはまったく想像できなかった。裕福な先進国のごく一部の物好きたちのブランドだったのが、いまでは発展途上国の人気ブランドになってしまうとは、未来はまったく予想がつかないものだ。そして現在、家にあるアップルの製品といえば、妻専用のMacBookくらいで、わたしはiPhoneはもとよりiPadやiPodさえ触れたこともない。製品やサービスに魅力がないわけではないが、アップルはすでに語るべき未来を描く補助線ではない気がするからだ。

これまでのワクワク感は、私的領域に留まるものだった。自転車にマック、そしてインターネットにしろ、個人の活動能力をサポートするツールだった。そして次に来るワクワクは、どのくらい先かは分からないが、おそらくロボットになるのではないだろうか。ただ、その議論は措いておいて、今、現実に一番不足しているワクワク感は、私的領域ではなく公的領域におけるものだと思う。社会全体が公平になること、そのために常識ある意見が政治に反映されること。この社会を覆う有形無形の暴力や暗愚を吹き飛ばすこと。言い出すときりがないが、より良い社会を作る仕組みに参加することが、わたしにとっての一番のワクワク感なのである。わが家にマックがやってきたちょうどその年の、テレビでベルリンの壁が崩壊した映像を見ていた時のわき上がるような感動、これを一度自分の社会で経験してみたいと切に願う。

2011年8月26日金曜日

ちいさな器


初対面の人から器が小さいと、言われたことがある。将来のことを話している時だったので、欲のないおまえは小物だ、という意味で使ったのだと思う。20代のころだったので、ひどく自尊心を傷つけられた。だが、野心家ではなく、争い事を嫌い、些細なことで幸せを感じるというタイプなので、否定のしようがなかった。

とある本に、人間はそれぞれの枡を持っていて、分不相応に大きな枡だと、何を入れても満たされることがない、と書いてあった。わたしの場合は、せいぜい一合枡の程度なので、ちょっと入れると直ぐ満杯になる。だから楽しみが小さく、じつにつまらない。さりとて世間に張り合って大きな枡を持つのは、生きていくのにさぞ使い勝手が悪かろうと思う。大切なことは、誰のものでもない、自分で選んだ自前の枡であるということだ。

このごろ、小さな枡、あるいは小さな器でよかったと思うことが多くなった。抱えているものが少ないため、環境の激変に怯えないで済むからだ。縮小経済下の社会でも、ストレスなく暮らせそうなタイプに入るだろう。まあ、今時の表現を借りると、草食系中年種というわけである。

8月の電力使用量、175kWh。前年度比、24%減。冷房を控えたというより、7月に入れた冷蔵庫の恩恵が大であったと推測する。以前のは、小型とはいえ20年前の製品だったので、想像以上に電気を喰っていたのだろう。そしてもうすぐ9月。耐え難い猛暑の日々も、ひと山越えてホッとしている。

2011年8月20日土曜日

土曜はコンフィで


桃の皮を剥くのは、包丁より素手でやったほうが簡単である。桃を真半分に包丁を入れ、両手で左右に少しずつ回転させると、皮の部分だけが緩んでくる。そうなったら皮の切れ目に指をかけ、指で半分ずつ裂けないように皮を剥ぐ。果肉がくっついていてもぜんぜん構わない。最終的に剥いだ皮を裏返して、包丁の峰で残った果肉をしっかりとこそげ落とす。ペラペラになった皮は捨てずに小袋にまとめ、色出しのために一緒に煮て、そのあとで捨てること。


砂糖は果肉の1割程度の量を基準に、各人の好みで加減。煮込みには時間をかけず、あっさりと作るのがコツであるとか。今回は桃8個で、30分程度で仕上げた。


瓶に詰めて、ラベルを貼って一丁上がり。見かけは悪いが、味のほうは大丈夫。冷蔵庫には、まだ6個も桃が残っているが、さてどうしようか。実のところ、もう食べ飽きてしまっているのだ。

2011年8月18日木曜日

桃の季節

今年の夏は、毎日のように桃を食べている。「その時期、一番の旬の、一番安いものを食べ続ける」というのを食生活の基本原則にしているのだが、今は何といっても桃なのだ。梅雨の時期に雨がほとんど降らなかったので、きっと今年は果物が美味しいのではと期待したが、めでたく予想通りの結果となった。

一ヶ月ほど前になるが、いかにも甘そうな大振りの桃が、4つで300円で出ていて慌てて買ったら、次の週には200円に下がった。いくら何でもこの値段では農家はくたびれ儲けだろうが、さすがに一時の値崩れだと思った。ところが昨日、スーパーで目にしたのは、なんと20個入り1ケース500円という値付けだった。普段ならば奪い合いになるはずだが、ところがあまり人気がない。それもそのはず、値札にはさりげなく福島産と書いてあった。これではくたびれ儲けどころか、出荷するだけ損失が膨らむのではないだろうか。被災地の農家の苦労が偲ばれる

わたし自身は、産地がどこだろうとあまり気にしないが、人によっては食の安全が気になるだろう。毎日のようにマスコミに不安になる情報を吹き込まれているのだから、何事にも疑心暗鬼になるのは無理もない。だが、「安全」「安心」は却って高くつく。人を萎縮させ、人生をつまらないものにしてしまう。むしろ、そんなもの端から存在しないと割り切って、危険で不安な人生をいかに楽しく有意義に過ごすかということに注力するほうが、よほど生産的だと思うのだが。

さて、後先も考えずにケース買いしてしまった大量の桃。さすがにこの夏ずっと食べ続けて少々飽きてきた。なので、別の何かの料理にチャレンジしてみようと考えている。何しろこれから先、食料が高騰する可能性だってあるのだ。せいぜいこの歴史的安値のチャンスを、前向きに楽しみたいものだ。

2011年8月7日日曜日

アルミホイルやフリマやら


いつ買ったのか、あまりに以前のことなので忘れてしまったアルミホイルが、台所の片隅に置いてある。長さ30メートルのうち、使ったのはまだ半分くらいだろうか。幾度も使い回しするので、いつまで経ってもなかなか減らない。パッケージに製造年月日らしき数字が印刷されているが、それからすると購入したのは25年前かもしれない。

購入場所は、青山のmujiであることには間違いがない。だいたいの日用雑貨はいつもここで済ましていたからだ。身の丈にあった堅実な暮らしのため、中身が同じならば、少しでも安価な商品を選んだ。それは一般に「メーカー品」と呼ばれたナショナルブランドではなく、当時は胡散臭く、二流品と見られていたプライベートブランドの商品だった。そして、そういう生活スタイルは、ものごとを世間的評判に関係なく、実質本位に考える訓練になったと思う。

当時、週末を利用してフリーマーケットにも参加していた。自宅の不要品に値札をつけて、公園や駐車場で店開きをするのだが、売れなければ持ち帰って処分したり、両隣のブースの人たちと交換したり、なにしろ商売でないので暢気なものである。ある時、捨てるつもりの汚いジーンズを間違って並べてしまった。ところが同世代と見られる若いカップルが、そのジーンズを見て欲しいと言いだした。ご覧のとおり、古くて、膝が抜けて、ボロボロですが、それでもいいのですかと訊くと、二人は楽しそうに頷いた。

一見地味な身なりの、しかし決して貧しいわけでなく、立ち居振る舞いからは、教育の行き届いた、むしろ非常に裕福な家庭を想像した。そういう人たちが、着古しのボロボロのジーンズを喜んで買ってくれるということに、ちょっと驚いた。そして、堅実なつもりでも、自分たちはまだまだ甘いと反省したものだった。もちろん今では、他人のお古だろうがなんだろうが、自分に似合ってさえいれば全然平気。いくども繕い直しながら、毎シーズン着続けている服も多い。

あの時ジーンズにつけた値段は300円だったが、わたしの得た教訓はそれよりはるかに価値があった。

2011年8月6日土曜日

朝ごはんを食べながら


本日の朝食。自家製ヨーグルトにバナナとコーヒー。一緒にブルーベリーを入れて食べるので、ヨーグルトが見えなくなっている。色の取り合わせがきれいだったので写真に撮った。

さて、朝からニュースが喧しい。国際金融の混乱が収まらない、という。ゴールドが買われて、株や債券が叩き売られている、らしい。伝聞で表現したのは、経済現象は心の動きの反映だから、自分のはともかく他人の気持ちまで分からないという意味を込めた。難しいことは分からないが、お金に多くを依存する人たちの間で、不安な気分が急激に広がっているということだろう。しかし、自給自足的な生活をしている人々にとっては、この世界の風景はまた違って見えているはずだ。

今回の騒動は、国が福祉政策を維持するために借金を重ね、やり繰りが大変になってきたことが原因だろう。だが、年をとったら働かなくても遊んで暮らせる社会なんて、どこかおかしい。本来ならば遊んで暮らすお金は、自分の責任で貯めたお金から出すものだろう。それなのに必要なお金は後の世代にツケ払いして、自分たちは立派な福祉社会を作ったと涼しい顔をしている。もちろん、立派な理念やリクツがあるのは知っているが、それだって人類の長い歴史の中で、ほんのちょっと前に出てきたものだ。明日か明後日には、ゴミ屑のように捨てられる運命にある、一時の流行のようなものかもしれないのだ。これからも同じ騒動が、世界中で繰り返し起きるはずだ。

昨夜遅く、人間の若さを保つ仕組みが分かってきて、製薬会社が開発にしのぎを削っているというテレビ番組を見た。いつまでも若くいたいという気持ちは理解できるが、もう十分じゃないかとも感じた。生物は生殖という役割を終えたら、さっさと死んで、後の世代に活躍の場所を明け渡さなくてはならない。世代を早く繰り返すことで、適者生存を実現し、環境の変化に適応できるようになる。逆にそうしなければ、環境の変化に飲み込まれて、種は衰退か絶滅するしかなくなる。

生物としてのヒトの一生はせいぜい50年。やるべき事を終えたら、そっとこの世から立ち去るのが自然の摂理なのかも。それが無理なら、せめて後世にツケを残さないよう、さっぱりとした暮らしに努める必要があるのじゃないかな。能力もないのに地位に執着し、夜な夜なカロリーオーバーの美食三昧を繰り広げているアレだが、まったく老醜の極み、あのような老人だけにはなりたくないと思う。

2011年8月1日月曜日

気持ちの悪い食べ物

アメリカのメディアが、「気持ちの悪い食べ物」と称してピータンを取り上げていた。そんなに気持ち悪いだろうか。わたしにとっては好物の部類に入るが。写真のピータンなんて、白身がきれいに透きとおって、見てるだけで涎が出てきそう。以前はよくピータン豆腐などを、ビールの当てに作って食べたものだ。

他に気持ちの悪い食べ物として取り上げられたのは、昆虫とか珍しい肉とかで、それらは美味いかどうかは別として、いうほど人を不愉快にさせるものかしらと思う。似たようなものを幾つか食べた経験があるが、まあごく普通の味だった。しかし名指しされた料理の国の人たちには不愉快だろう。何しろ大切に守ってきた食文化なのだから。それも食い物とは呼べないような不味いものを平気で食べてる(と、わたしが勝手に思う)人たちに言われると、なおさら腹の虫が治まらないだろう。

わたしが気持ち悪く感じる食品は何かというと、見た目よりも、むしろ食材の安全性に関してである。たとえば、子どもから大人まで人気のある、甘くて、柔らかくて、口当たりがよいと評されるもの全般。または簡単に金儲けができて、いくらでも内容を偽装できるもの、嘘をつきやすい加工食品。そういう観点からは、昆虫の料理なんて、おおむね不人気だろうし、金儲けにもならず、わざわざ成長ホルモンだの、防腐剤だの、着色料を入れて見せかけ良くする理由がなく、結果として極めて健康的な食品と言えるではないだろうか。だから虫を食べようと勧めているわけではないが、危機的な食糧難の時代が来れば昆虫食も当たり前になると思う。

最後につまらない小話をひとつ。レストランの料理に虫が入っていた。イギリス人は黙って取り出し食べ続け、アメリカ人は急いで弁護士を呼び、中国人は新しい料理だと騒ぎ、ロシア人は何も気がつかずに食べてしまった、とさ。日本人ならその場では何も言わず、店を出てからツイッターに文句を書き込むかもしれない。わたしは1番目のタイプで、たまに異物と遭遇しても気にならないし、それ以前に知らずに食べてしまっていることのほうが多いだろう。だとすれば、むしろロシア人タイプか。