2010年5月8日土曜日

ふつうのボールペン


先月から使い始めた日付スタンプだが、機嫌良く毎日のように使っている。不思議なことに、下手くそな字には変わりないが、スタンプを押す作業が含まれることで、ノートを録ることが楽しくなった。どういう理屈か分からないけど、手書きする心理的負担が軽くなったのは確か。なんと字数まで増えている。

日付スタンプを買い求めた際、その店で一緒にボールペンも買った。最近書き味の良いボールペンが発売されたのだが、軸のデザインが悪趣味だったので、換え芯だけを先に手に入れていた。現在使っている手帳やノートと不自然にならない、無難なデザインのボールペンを見つけて、その軸と入れ替えて使おうという腹づもりだったのだ。そして店頭で偶然見つけたのがこのドイツ製のボールペン。書き味は何とか及第点の部類だが、落ち着いて、安定したデザインが気に入った。握った感じも、ほんの少し重みがあり、長めの軸と相まって自然な印象。何より、ごく普通で、目障りにならない点が好ましい。

いま愛用している「ジェットストリーム」の時もそうだったが、やっぱりその軽佻浮薄なデザインが忌々しくて、直ぐに軸を取り替えてしまった。果たしてこのデザインが好きな人がいるのだろうか訝っていたら、かなりの人たちが違うボールペンに入れ替えて使用している様子だった。ボールペンというのは、れっきとした実用品なのだから、余計なデザインを施さないでもらいたいのだ。誰もが毎日使うものだから、たとえ退屈だろうと、まずは平凡で自然なデザインに徹するべきだろう。

さて、その換え芯の入れ替えだが、軸に比べて短めだったので、空いた芯を切ってつないでちょうど具合良く収まった。どこにでもある普通の規格のボールペンだったので、簡単な作業で済んだ。書き味はというと、それはもう最新のメイドインジャパンだから、ほとんど文句の付けようがない。そこで余計なお節介だが、パソコンのCPU作っている会社みたいに、文房具会社はボールペンの中身だけを一所懸命開発し、外側は他の会社に任せた方がいいのではないだろうか。そうなれば少なくとも、わたしは大歓迎である。

2010年4月25日日曜日

日付スタンプ


子どもの頃からのコンプレックスは、自分の字が下手だということ。記帳を求められたりするとき、隣の列の立派な字が目に入り、それだけでも気持ちが挫けそうになる。周囲の目を気にしながら筆を手にするのは、いくつになっても嫌なものだ。でも年の功というか、学生の頃に書いたものと比べると、これまで生きてきた分だけの進歩は見て取れる。父は若い頃から達筆でならしたが、残念なことに母の方は様にならない。だから今では、悪筆は母方からの遺伝のだろうと諦めている。

自分しか読まないノートは、どんなに下手くそでも、他人に見られない限り恥ずかしくない。要は読めればいいのだ。ただ乱雑なノートを、少しでも見栄え良くしたいという希望があり、それで思いついたのが日付スタンプなのである。メモをとるときなど、先頭に日付を入れるのを習慣としているが、その大きさがバラバラで、しかも何を書いているのか読めない時もある。せめてメモ冒頭の日付は、美しいスタンプで飾り、全体の秩序を保とうというわけだ。

さっそく文房具屋に行って日付スタンプをいくつか見たが、国内メーカーのはどれも数字が並ぶだけの味気ないものばかり。丈夫そうで品質には文句ないが、今ひとつ興味が沸かない。それでは輸入品にはないかと調べてみると、ネット通販で何種類か取り扱いがあった。こちらは国内メーカーより使えそうだが、安価な分だけちょっとちゃち。実際に見てみないと買ってよいものか分からない状況だったが、運良く散歩コース上に取り扱っている店があり、取りあえずその店を覗いて現物を触った。最初の印象通り、玩具みたいなスタンプだったが、だからといって簡単に壊れるほどの粗悪なものではない。丁寧に扱えば、きちんと寿命を全うしそうなまじめな商品だった。

この数日、使ってみての印象は決して悪くない。下手くそなメモの上に、整然と押された日付印は、他のメモとの区切りを果たし、それなりに整頓された印象を与える。これはまあ、当初の目論見通りともいえる。スタンプ台が不要で、スタンプを紙に押しつけるだけで簡単に印字されるのも嬉しい。スタンプの耐久性にしても、一日数回使う程度では問題になることはないだろう。できればインクが黒だけでなく、ほかの色が使えるならもっとよかったのにと思う。


写真は、罫線幅6ミリのノートにスタンプを押した様子。欲を言うと、もうちょっと字が大きければ完璧だった。

2010年4月10日土曜日

夜桜

「向こうにいたときはね、サクラの花を愛でる習慣のある人たちって、なんて哲学的なんだろうと思っていたの。わたしだけじゃなくって、周囲の人たちもみんなそうだったの。」と、彼女はなにやら愉快そうな調子で言った。そりゃ、そうでしょうとも。よりにもよって一番美しい季節に、肝心のサクラなんかそっちのけでどんちゃん騒ぎするのだから、実際に目前に繰り広げられた光景に、さぞ呆れかえったことだろう。

呑兵衛であるわたしも、もちろんブルーシートに陣取った酒盛りは嫌いではない。しかし本当にサクラを愛でるなら断然、深夜の誰もいなくなった静かな時間帯がいい。暗がりに、微かな光を反射して浮かび上がるサクラの白い花びらが、夜風に運ばれて舞い散る様子が何よりいい。決して哲学的とは言えないものの、サクラの散り際の美しさに永遠の時間を感じ、翻って自分の命の短さを思う。両手で掬った砂がサラサラと止めなく落ちていくように、このたとえようもなく大切な一瞬さえも刻々と記憶の果てに押し流されていく。この無常観、普段は意識しない単純な真実を、なぜか深夜のサクラの木の下で思い返すのである。

夜桜を眺めるたびに、無意識に脳裏に浮かぶ曲がいくつかある。その中でも真っ先に浮かぶのは、何といってもビル・エヴァンスの作曲した"Blue in Green"。特に"Kind of Blue"に収められた同曲が絶品。マイルス・デイビスのトランペットから継いで、暗闇に漂うように響くビル・エヴァンスのピアノの素晴らしさといったら、この感動をどう表現すればいいのだろう。純粋な美をすべて音に置き換え、人の感情を超えたところに永遠の空間を作り上げている。そのように感じる曲なのである。そして、この曲を脳内で密かに再生しながら、サクラの散るさまを凝視するわたしは、もしかするとウォークマンのCFのお猿さん程度には哲学的に見えているかもしれない。

2010年3月23日火曜日

週末のパーティ

週末は知人宅で夕食に招かれた。私たちはそれほど社交的ではなく、自宅に招いたり、招かれたりということが、あまりない。みんなで集まって楽しく過ごすということは決して嫌いではないが、そこが自宅や別荘などのプライベートな場所だと、何となく億劫でつい遠慮してしまうのだ。そしてこちらから誘うのも、もしも迷惑だったらと思うとやはり躊躇する。ただ今回は、知り合って何年にもなる人でもあり、これまで一緒に食事をしたことがなかったので、せっかくの機会を大切にしたいという気持ちで招待を受けた。

その夜のメインメニューは、彼女のふるさとの家庭料理、たっぷりのカモ肉のコンフィ。年末に里帰りした折に、日本では食べられないだろうからと作ってくれていたのを、貰って帰って、今日まで熟成させていたという。レストランのとはひと味違う、飾り気のない、健全な旨さが嬉しい。皿に残った油を、パンで拭いながら酒を飲み、互いの家族のことや共通の友人の話で座が盛り上がる。そしてその夜飲んだワインは、食前の白が1本、赤が5本、そして彼女のお父さんが昔作ったという年代物のリキュールなどなど。中年夫婦2組の量としては、ちょっとやり過ぎかも知れない。

学生時代に言語を学び、日本を旅するためにやってきた。一人旅で心細くしていると、あちらこちらでぶっきらぼうだけど、細やかで優しい親切を受けたのだそうだ。そして気がつけば、日本で仕事に就き、人生の伴侶を見つけ、家を持って、当たり前のようにこの土地に根を下ろして淡々と暮らしている。もはやどこにでも転がっているありふれた物語だが、民族とか国家とかいう塩分は、濃ければ濃いほど、逆に逃れようもなく世界の水に溶けていく運命にあるように感じた。最近ホームステイさせた彼女の親戚の娘が、とんでもないコスプレの格好で来日して、漫画のことしか知らないと怒っていたのが、実に今風で妙に可笑しかった。

そして、次のパーティは私たちの番なのである。いまから、和食だけは絶対に作るまいと考えている。出来るだけ彼女たちが口にしたことがないもの、たとえばハーブがたっぷりのベトナム料理辺りを作ってみようか。

2010年3月18日木曜日

「蓋」


何でも捨てられず、取り置く癖のある妻には、いつも困っている。私だって、読むあてのない本をせっせと溜め込むのだから、あまり批判がましいことは言えないが。本来の役目を果たした、通常は廃棄するだろうというものまで、取りあえず何かの役に立つかも知れないからと取り込んでしまう。紙、布、テープ、板、ガラス製品、キャップ、その他正体の分からないもの、等々。中でもガラスや陶器の容器がいけない。カラスが光るものを集めるように、手当たり次第容器を溜め込むという行為は彼女らの本能なのかも知れない。

旅先のスーパーマーケットで陶器に入ったヨーグルトを買い求めホテルで食べた折り、なにやらしみじみ見ているなあと思っていたら、全部の容器を秘密で持ち帰っていた。旅行するときは1グラムでも軽くと知恵を絞っているのに、よりにもよって重たいゴミを私のカバンの隅に隠し込んでいたのだ。もちろん、きっといつか何かの役に立つだろうから、という理由からだった。

しばらくして、運良く絶好の用途が見つかったが、あいにくサイズぴったりの密閉する蓋がない。もともと紙で覆っただけの容器だったので、別途用意する必要があったのだ。そこで外周を描いた紙片を持たされ、これに合いそうな蓋があったら持ち帰るようにと言いつけられていた。しかし探してみると、容器の蓋なんて意外にないものである。店の人に訊いても、不思議そうな表情で「どういうものですか」と聞き返してくる。そもそも我々の社会では、廃品利用をサポートするようなシステムはないようだ。そう諦めていたところに、雑貨屋で偶然見つけた唯の「蓋」。喜び勇んで買って帰ると、あつらえたもののようにぴったりと収まった。ひとまずめでたし、ありがとうドイツ人、という気分なのである。

2010年3月15日月曜日

春の歌

春先の陽気に誘われて、自転車で隣町まで買い物に行く。クルマが滅多に通らない、住宅街の狭い街路をゆっくりとペダルを漕いで走る。垣根の日溜まりでは老いた猫が昼寝をし、その傍を子どもたちが駆け抜けていく。空に向かって咲くモクレンの花が神々しく輝いて、真っ青な空に浮かんでいるかのように見える。季節の巡る度に繰り返される命の営みの、なんと神秘的なことか。

隣町には小さな釦屋があり、そこで着古したカーディガンの釦を探した。だが、あまりにも種類が多く、混乱して暫く呆然としていると、静かな店内にジャズボーカルのBGMが低く流れているのに気がついた。ミリー・ヴァーノンの歌う"Spring is here"である。中年男にはもはや縁もゆかりもない清純な歌だけど、無防備に空いた心の隙間を優しく満たすような旋律だ。ぼんやりとその曲を聞きながら、釦屋のショーウィンドウ越しに、人々が軒先を行き交う光景を、どこか幻を見るような気分で眺めていた。

春を題材にした曲というと、わたしは"April in Paris"を真っ先に思い出す。春を迎える高揚感と、憂いや戸惑いの混じる複雑な感情が洒落たメロディで表現されている大人の曲だ。とりわけ、セロニアス・モンクのピアノで演奏されるそれが素晴らしい。静かで、孤独で、しかし飛び切り豪華な春である。それは、花びらが舞い散る夜桜に、一人酔いしれるという喩えでどうだろうか。歌が付いたものとなると、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングがデュエットしている"April in Paris"が素敵だ。もちろんエラは十分に申し分ないが、それ以上にサッチモの歌が冴えている。低く唸り、ため息を絞り出すような彼の歌声は、幾つになっても心を捕らえて放さない。

隣町での買い物をしたその日の夜、テレビでリスボンの酒場の様子を観る。彼の地では夜になると老いも若きも、ファドを聴きに酒場にやってくる。狭い店内一杯に客が詰めかけ、開け放たれた扉の外まで立ち見が出ていた。いつかはきっとと思いながら、未だに実現しない憧れのリスボン行き。私の一番好きな春の歌は、「ポルトガルの四月」、そしてもちろん、ファドの女王、アマリア・ロドリゲスで楽しみたい。

2010年3月8日月曜日

早春の伊豆


伊豆に出かけた。夕方に現地に到着したが、想像していた以上の暖かさで汗をかく。早咲きの桜はすでに満開であり、淡いピンクのグラデーションが周囲の景色を彩っている。海岸沿いを散歩すると、3月の風が花々の匂いを運んできて、ほのぼのとした幸福感に満たされる。踏切を渡れば、線路脇に黄色い菜の花とピンクの桜が揺れていた。


小道を抜けて少し高い丘に登ると、そこから急に視界が開けた。眼前に、夕日を浴びて、柔らかなオレンジ色に輝く大室山が望める。今はまだ枯れ草の山だが、あと一月もすれば若葉に覆われた苔玉のような美しい姿に変わるはず。伝承によると、大室山と富士山は姉妹で、美しい妹(富士山)ばかりが愛されたため、姉の大室山は不満を抱えて生きたという。だから、大室山に登って、そこから見える富士山を誉めてはいけないそうである。分別のある男ならば、そのくらいは当然弁えているだろうが、念のため。


その夜宿泊したのは、長年通う勝手を知ったいつもの旅館。部屋数が少ないので、いつ行っても静かであることが気に入っている。他の泊り客と滅多に顔を合わせないので、むしろ寂しいくらいかも知れない。この宿の露天風呂に浸かりながら、心ゆくまで読書をするのが、わたしのささやかな楽しみなのである。どうやって知ったのか、こんな小さな温泉宿にも中国系のカップルを多く見かけるようになった。都会的で洗練された物腰の、流ちょうな英語を話す中国の観光客たちを見るにつけ、苦しい経営を続ける地方の観光業界の人たちに、いくらでも繁盛の鍵は転がっていると励ましたいと思う。

2010年3月1日月曜日

電気ポット



このところ忙しいせいか、はたまた単にトシをとったせいなのか、今年に入って薬罐を空焚きするハプニングが立て続けに起きた。調理中なら問題はないが、他の用事をしながら、ふとお茶を飲みたくなって湯を沸かそうとしたときが危ない。先ほどの用事に戻って、湯が沸くまでの切りの良いところまでと思って集中しだすと、たちまち火に掛けた薬罐のことを忘れてしまう。今どきのガスコンロなら、すぐにセンサーが働いて自動消火するのだろうが、ウチのは丈夫だけが取り柄の旧式なので事故の原因には事欠かないのだ。

対策を話し合って出した結論は、これからも同種のハプニングは減ることはないだろうから、薬罐を止めて電気ポットにすべきだということ。電磁調理器に取り替えることも検討したが、電磁波の影響や、アンペア数の問題もあったので今回は見送りにして、取りあえずコストを掛けずに、最小限の変更に止めることにした。そこで学生の頃に使っていたようなアルミの簡単な電気ポットを探したが、そういうレトロなものは姿を消して久しく、その代わり妙な具合にカラフルなポットが幅をきかせていた。

そこで買い求めたのは、食堂にあるピッチャーのような形の、掃除がしやすく、ステンレス製の清潔感のあるポットだった。実用のものだから、遊びのない、出来るだけ合理的な形状のものが良かったのだ。実際の使い心地はどうかというと、湯を沸かすだけの単純な装置なので、本質的な機能という面では問題はない。ただ、ちょっと残念だったのは、全体として造りが甘く、少しちゃちな感じを受けることだ。だが、それも仕方のないことではある。実用品の世界では品質よりも価格が優先で、あげく何でもかんでも中国製の時代である。家電製品に、少々高くとも長もちする丈夫なものを望むのは、所詮は無いものねだりなのだろう。

結局のところ、せっかく買ったものだから口に出さないが、今までどおりの薬罐のほうが良かったと思っている。丈夫だし、単純だし、愛着もあった。今度の電気ポットだって、いずれ使っていれば慣れるだろうが、しかしその頃には壊れてしまいそうな気がしてならないのだ。そのときに備え、古い薬罐は大切に保管する必要がありそうだ。

2010年2月9日火曜日

懐かしいカレー屋

先日、旧フランス大使館のイベントに行った折に、その近くにある懐かしいカレー屋を尋ねたのだが、どういう訳か探し当てることが出来なかった。「暮しの手帖」で店の記事を読んだのがきっかけでファンになり、テイクアウトでのみ提供されるその店のカレーを、たびたびお昼ご飯に持ち帰ったものだ。間口の小さい弁当屋のような店だったが、道ばたの日曜大工風のキリンの看板が愛らしい目印になっていた。今のようにテレビのグルメ番組が盛んだったわけでなかったので、たぶん口コミの影響だろうか、昼時にはいつも客の列が出来ていて、時間を逃すとお目当てのカレーにありつけないこともあった。

当時は、カレーと言えば日本風の一般的なものばかりで、きりん屋の豊かな香辛料を楽しむカレーはかなりインパクトがあった。今でこそカレーは地域や民族によって多様性があり、それぞれに趣が違うというのは常識になっていると思う。そのころはカレーの専門店といったって、私の知る範囲では渋谷の「ボルツ」くらいしか思いつかない程度で、多彩な本格カレーが日常身近になるのは、南アジアや東南アジアの人たちがごく普通に日本で暮らすようになってからだ。それはちょうど、日本が経済的繁栄の頂点を迎え、外から人や物が一気に流入し始めた昭和の終わり頃からだったように記憶している。

いまではインド風のカレーを口にすることも少なくなり、家でカレーを調理することもなくなった。ときおり食べるカレーもタイ料理店のものだったり、無印のグリーンカレーを調理するくらいであり、自分でもずいぶんと好みが変わってしまったと感じる。それで、ちょっと懐かしいインド風カレーを楽しんでみたくなり、麻布に行くついでにきりん屋を尋ねたのである。手ぶらで帰宅したあと、もしや廃業したのだろうかと気になって調べてみると、ちゃんと現在も同じ場所で営業していて、しかもホームページがあることも分かった。きっと街の様子が違っていたので、盛んに周囲をきょろきょろしていて見落としたのだろう。ホームページを見ると店の様子も昔のまま、値段は少し高くなったが、あの懐かしいカレーが画面に出ていて、それを眺めているうちに香辛料の強い香りを思い出し、気がつくと頭に汗をかいてしまっていた。

2010年2月6日土曜日

散歩と社会考察


社会の動きを知るために、いつも大都会の息吹に当たるべきとの意見があるが、都心部はある種独特の動きをするので、社会の底流にある静かな動きを知るには向いていない。巨大なビル群が林立するオフィス街や都心の繁華街を歩いたところで、分かることは大ざっぱな景況感と流行のファッションくらいだろう。スーツを着た建前の街より、柔らかな脇腹を見せるちょっと田舎の方が、散歩するには遙かに楽しい場所であるのは、その辺りの違いではないかと思う。

わたしの散歩コースは、行き先ごとに概ね決まっている。最短距離を歩くためでなく、歩いて楽しい道を探っているうちに、次第に順路が固まって出来たものだ。決まり切ったコースを歩いていても決して飽きることはなく、注意深く観察すれば街や路上の様々な変化に気づかされる。自然や景観の変化は当然だが、町並みの変貌から社会そのものの変化だって伝わってくる。たとえば金融危機のあと、ほどなくして銀行の社員寮が取り壊され、マンションやら老人ホームに建て変わったのを多数目撃した。建具屋とか畳屋とかいう伝統的な生活スタイルに密接した商売が、跡継ぎもなく高齢化して廃業してしまったのも嫌というほど見てきた。それからITバブルのころ、いかにもバブル銭で購入しましたという匂いのする、薄っぺらで寂しい豪邸がぽんぽん建って、その後知らぬ間にもぬけの殻になったりもしていた。

この数年で顕著になってきたのは、パン屋やカフェ、文房具店などといった小商いの店が増えたこと。長い間、空き店舗だったところや、ガレージ代わりにしか使われていたかった空間に、小さな店がひっそりと誕生している。少ない資金で開業しようと思えば、誰も手を出さないような立地の、古い家屋をそのまま借りて始めるのが安全だからだろう。店主はそのほとんどが若い人たちで、開店当初どこか頼りなさそうな表情で通りを眺め続けているのを見ると、思わず応援したくなるのだ。しばらくして客が増えてくるのを見届けては、自分のことのようにほっとしている。人通りの少ない寂しい街に、ポツンポツンと新しい店舗の光が増え、夜道の散歩がいっそう楽しくなってきた。

社会の意識変化が感じられる商売も増えている。このところ急に靴や鞄を修理する店が増えた。もちろん以前から同じ商売はあったが、そういう店よりずっと個性的で、いつまでも大切にしたい靴や鞄でも安心して任せられる雰囲気がある。皮革製品は長く大切に使ってこそ醍醐味があるという価値観に、社会が気づき始めたのだろう。単なるリサイクルショップではなく、セレクトショップ風の古道具屋も見かけるようになった。古くても、いやむしろ古い時代の価値を、積極的に評価しようとする社会意識の変化だ。そのことは、外観はボロアパートなのに、その中で非常にセンス良く暮らす人たちが増えてきたことからも想像できる。価値観が広がりをもって多様化しているのだ。

高齢化社会は、「時間」という長い物差しで価値判断をすることを可能にした。高度な情報化社会は、無数の意識の共有を急激に進める。モノゴトの評価軸は、恐ろしく多面的で複雑化し、その評価の仕方そのもので社会集団が細分化されることだろう。「一億総中流」とは、社会がきわめて大雑把な構造だったころの、大量消費社会に適合した社会意識だったに違いない。みんなが豊かだったから「総中流」なのではなく、流れが一方向の、単純でつまらない社会だったからそのように表現できたのだ。やや逆説的だが、総中流社会が崩れ去り、多様な価値観があらゆる方向に渦巻く複雑な社会になると、お金のあるなしにかかわらず、ずっと実質的な豊かさを感じさせる社会になるような予感がする。

2010年2月5日金曜日

過保護


室内栽培を始めて半月ばかり、かなり成長してきたので陶器のうつわに移動した。だが今週に入り寒い日が多く、そのためか成長が止まり、しかも葉の色が心持ち薄くなった。日中は温室のように暖かくなる部屋だが、夜間は掃出し窓の面積が大きいために相当冷える。テーブルの上に置いて、あれこれと対策を考えたり、箸の先で突いて励ましたり、あげくホットカーペットの上に置いて夜間の寒さを緩和させたりしている。もちろん過保護であることは承知しているが、元気のない様子に知らん顔も出来ない。「放っておくのが一番だ」とは言うけど、そうやって枯らしてしまっては元も子もないので、どうしても余計な手を出してしまうのだ。