2007年11月26日月曜日

晩秋の景色

このところの好天続きで、窓越しに見える紅葉の色が日増しに深まっている。今朝も起き抜けに窓のカーテンを開けると、周囲の木々が朝日を浴びて黄金色に輝き、あまりの美しさに暫し見とれてしまった。春先の若い緑が、ぐんぐんと育つ景色もいいが、晩秋の木々の散り際にある贅沢な景色も見ていて飽きることがない。そして北風が吹いて、一斉に枯れ葉を舞い上げ、渦を巻くように遠くに運ばれていく光景ほど、生命の尊さをドラマチックに感じる瞬間はない。

二年近く前になるが、家を持とうと思い、周辺の不動産を探しまわった。だが環境の良い場所では平屋の建つ広さをもつ物件は少なく、あったとしても豪邸サイズのとんでもない値段のついたものばかりだった。そこでフルオーダー型の集合住宅を検討し、かろうじて妥協できるものを探し出して、契約寸前までにこぎ着けた。しかし、なぜか新しく家を建てるという喜びは微塵も感じられなかった。本契約の前日、改めて更地状態の建設予定地を眺めると、周囲にほとんど樹木がないことに気がついた。そして、私たちはそのとき初めて、自分たちの住む家に何を望んでいたのか、はっきりと理解できたのだった。

日曜の午後、自転車に乗って、小さな池のあるサンクチュアリに行ってきた。そこに至る道の途中には、契約寸前に止めた瀟洒な集合住宅が建っていて、玄関脇には設計図通りに申し訳程度の低木が植えられていた。自分たちが理想とする間取りやインテリアなどが叶えられるはずの住宅だったが、今でもまったく後悔していない。むしろ家探しを通じて、現在の住環境の良さを再発見し、以前にも増して愛着を持って住めるようになったことは、幸運だったと思っている。家を選ぶということは、生活スタイルを選ぶことであり、それは自分の望む暮らしに向き合うこと、そのものなんだと理解したのである。

春に訪れた時は花々で賑わっていた池の畔も、時折そよぐ秋風に吹かれ、しっとりと静まり返っていた。梢を見上げると、さまざまな葉の色が混ざり合わさり、天然のパレットのようだ。帰り際に、この土地で採れた腐葉土を分けてもらう。細かな枯れ葉が積み重なって、ふっくらとしたいい香りのする、とても貴重な土なのである。

2007年11月25日日曜日

どんぶり


世間ではミシュランガイドの格付けが旬の話題のようだが、「おうちでごはん」派にとっては、これはどうでもいい話である。どうせ格付けしてくれるなら、八百屋や魚屋、乾物屋などを対象にしてもらった方が助かる。もっとも近頃は家庭で料理を作る人が減ってきているという話なので、そんなものでは話の種にもならないのかもしれない。

おそらくは、根拠のない推測なんだが、ミシュランガイドが即日完売するほどには、日本人には美食家は多くないと思っている。そもそも美食家を名乗るには、まず基礎体力として、並外れた食欲がないとだめだ。どんなことでも、度を過ぎるくらいのことをしないと、その先にある快楽にたどり着くことはできないものである。振り返って、ほどほどの幸せで満足する人が大多数のこの国で、欲望の固まりのような人はそうそうお目にかかれるものでない。映画「シェフ殿、ご用心」を観て、げっぷが出そうになったり、気持ち悪くなるのなら、既に美食家の1次審査で失格でなのである。

わたしの場合は、典型的な小食動物なので、はなから美食とは縁がない。ひょっとすると生命力の違いだろうか、高齢者と食事をしても、時々先にギブアップしてしまうことすらある。まして、ただでさえ量の多い外国で食事をする際は、特にディナーを予約したときなどは、昼間から何も口にしない覚悟がないと、絶対に完食できないという情けなさ。そのようなわけで、ミシュランお墨付きのレストランなんて、わたしにとってはネコに小判、食事する資格すらないのである。

写真は、それなりに大食していたころに、AXISで買い求めた大どんぶり。高価な食材を使わなくても、十分な分量と、それを受け止める力のある器があれば、何でも美味しく食べていた頃のものだ。いまではすっかり、棚の飾りになってしまい、器の役割を全然果たしていない。

2007年11月23日金曜日

「ジャスパー・モリソンのデザイン」

日曜大工の参考に読んだジャスパー・モリソンの作品集。わたしはこの人の作る、簡潔で清潔感のあるデザインが好みである。そして、いかにもイギリス人らしい質実剛健さと同時に、随所に現れるユーモアの感覚に、きわめてパランスのとれた、成熟した大人のデザインを観る。

わたしにとっては相性のいい作品ばかりだが、敢えてベストワンを選ぶとすれば「ラ・トゥーレット修道院の椅子」だろうか。修道士の座る質素な木製の小椅子だが、柔らかな革のようにカーブした座面の優しさ、がっしりとした脚部の造り、要所要所に付けられた丸みなど、全体としてきわめて優美な椅子に仕上がっている。市販していないのが非常に残念だ。

そして、ちょっと面白いのが、mujiのケトル。ブラウンベティーを連想する家庭的なデザインだが、これがジャスパー・モリソンの作品だとは全然知らなかった。このあたりに、彼の子どもの頃から見慣れたかたちが、ケトルのデザインにも反映しているようだ。ただ、わたしとしてはこのカタチは洗いにくいので、直ちに却下。

最後に、とても共感できる文章があったので、その幾つかを引用してみたい。

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・あまり目立たないものの方が、その魅力、謙虚さ、能率という美点によって、毎日使うものとしての息が長いということもわかってきた。長い目で見ると、実用的な特性が同じランクの他製品と比べてすぐれているということだろう。

・市場は独自性と類似性を同時に求めるため、おそらく実用性と新の意味での解決が排除されてしまうのだ。市場が無用な変化を求めるために、不足のない製品が、実用的ではないのに売りやすそうな新製品にとって代わられるのは悲しい事実である。

・また時間をかけて自然に、無意識のうちに成長したものが、簡単に他にとって代わられるべきではない。たとえば昔からゆっくり発展し、さまざまな商品やサービスを提供する店が並ぶ商店街の「普通」はとてもデリケートな有機的生命体なのである。

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日本製の家電の残念なデザインを変えさせたいなら、消費者である私たち自身が、この言葉を胸に刻んでおかなくてはならないと、強く思う。

2007年11月19日月曜日

「名画を見る眼」

ブログを続けていていつも思うことは、自分の感動を上手に伝えることの難しさだ。ロジックの組み立てはさほど苦にならないが、それは全然自分の伝えたい部分ではない。誰かに伝え、そして共有したいのは、通常ならば言葉以外の手段で表現したい、柔らかでとらえどころのない感情の部分なのだ。

とりわけ難渋するのがアート系のものを紹介したいとき。これは大好きなんだけど、どうすればこの「大好き」をうまく伝えることができるだろうか。ありきたりな表現は本意でなく、かといって適切な表現をするには力が足りない。いろいろと考えているうちに、最後には面倒臭くなって投げ出してしまうことがたびたびなのである。

そこで考えたのは、表現のプロに学ぶことだった。できるならば表現に普遍的であり客観的なスタンスが求められる評論家の文章を読んでみようと思った。そして本棚の奥から引きずり出したのは、高階秀爾の名著、「名画を見る眼』である。前回読んだ際は大雑把に美術史を概観する目的だったので、表現の細かな部分には注意を払ってはいなかったが、改めて読み返すと、高階の文学的素養の深さに瞠目するのだ。以下は、フェルメールの「画家のアトリエ」の章に現れた、読者の心に切り込む渾身の数行・・・。

「そして、その光の効果の表現において、フェルメールほど調和のとれた魅力を湛えている画家は、おそらくほかにない。・・・ザルツブルグの塩坑のなかで、水に投げこまれた枯枝にきらきら輝く塩の結晶が一面に付着するように、この室内に溢れる北国の光は、金色の結晶となってシャンデリアに取り付いているのである。」

フェルメールは、わたしの「大好き」のひとつだが、これを言おうとするとカタチの定まらない感情で、ぐっと言葉が出て来なくなる。しかし、短くも切れ味のいい、この高階の文章で、わたしは何か胸のつかえが降りるような開放感を味わった。「名画を見る眼」が名著と言われる所以は、まさにこの開放感にあると思うのだ。

今日の写真は、夕方の散歩で目にした、どこか懐かしい空の風景。伝えたいのだけど、それがどのような感情なのかは言葉にならない。なので写真で適当に誤摩化す。

2007年11月17日土曜日

石鹸


スタンダードが成立しにくい時代である。めまぐるしく変化する世相や流行に煽られ、誰もが変化することに抵抗感をなくしているように見える。いや、変化することは悪くないのだ。問題なのは、自らの意思で変化するのではなく、必要もないのに、他人の意思で変化させられていることに対して、抑止が働かないことだ。

暮らすということは、毎日同じことを、粘り強く繰り返すということ。果てしなく続く炊事や洗濯や掃除、その他健全に生きるため必要な雑事に、私たちはどれほどの忍耐を要求されているのだろうか。だが、私たちは本能的に、それらの時間を決して疎かにしてはならないことを理解している。それは、暮らすということが、人間の品位と深く結びついた、かけがえのない大切な事柄だからである。

だからこそ、暮らしの中にスタンダードが必要だ。気紛れを起こさず、毎日確実に家事を処理するためには、無数の、定規のように正確なものさしが必要なんだ。そして自分の暮らしに必要だと判断したスタンダードは大切にすること、その自分の判断に信頼と責任を持つこと。その限りない積み重ねが、暮らし方に対する自尊や、生きることへの自信に繋がると信じている。

いささか大袈裟な話になってしまったが、たかが石鹸、されど石鹸。日常的に無意識に使うものほど、豊かさを象徴するものでなくてはならない。たっぷりとした分量と、変える余地のないほど完成された品質。わたしは自分のスタンダードとしてこの石鹸を選び、そしてずっと使い続けてきた。たぶん、暮らしの中で感じる充足の何十分の一かは、これからも変えるつもりのない、この石鹸に負うところだと思っている。

2007年11月10日土曜日

エスプレッソ

年上の、とても愉快な友人が言っていたこと。「40代は転げるように月日が経ったけど、50代になると向こうから手を引っ張られるように時間が過ぎるよ。」その時は遠い将来の話だったので、無邪気に笑っていたが、最近は時間の流れが明らかに速くなってきている。今日も、1週間前のことだと思い込んで話していたら、なんと2週間前の出来事だったので仰天してしまった。

昼間に食料棚の掃除をしていたら、奥の方からエスプレッソコーヒーの袋が出てきた。ああ、そういえば最近忙しくて飲んでないよな、と思い賞味期限を確認したら、すでに1年近く過ぎていた。しばし意味が分からなくて考えてみたら、2年前に購入したまま、ずっとほったらかしにしていたことに気付く。

エスプレッソマシンのほうは、少しほこりを被っていただけで、錆もせず一応安心。しかし、電源を入れて、エスプレッソパウダーをセットしようとして本体に触れたら、いきなり指先に電気ショックが走る。暫く使っていなかったので、気まぐれ的に感電することをすっかり忘れていたのだった。賞味期限切れとはいえ、久しぶりに美味しいエスプレッソを飲んだが、わたしも気がつかぬ間にエスプレッソ(急行列車)に乗っていたようである。

2007年11月9日金曜日

扉のつまみ

今の家に引っ越してきた時のこと、物置が少なかったため、生活に必要な小物たちを収納する場所に困ってしまった。そのときたまたま目に入ったのが、通信販売の家具の広告チラシだった。奥行き15センチ程度の薄さで、扉の付いた背の高い収納家具。それはビデオテープや石鹸、シャンプーの買い置き、その他分類できない雑多な小物が、すっきりと収まる棚だった。急場しのぎだが、廊下に並べても狭さを感じさせないし、揃えて並べればそれなりに使えるかもしれないと考えた。

ところが数日後、送られてきた商品を見てみると、カラーボックスを大型化しただけの、想像以上にペラペラの安物だった。所詮一時しのぎだからと、自分を納得させようとしたが、とりわけプラスチックに銀メッキしたピカピカ光る扉のつまみが気に入らない。わたしは貧乏は平気だが、貧乏臭いのだけは我慢がならないのである。しかし荷を解いて、組み立ててしまった以上、返品することも不可能だった。

妥協点は、諸悪の根源である扉のつまみをすべて付け替えることだ。ただし、ものがものだけに過分に費用を掛けるわけにはいかない。そこで木製の丸棒を買ってきて、これを輪切りにしてラッカーを塗り、扉のつまみ代わりになるものを適当に作った。色は何でもよかったが、白い扉が引き立つように派手な黄色を選んだ。そして実際に取り替えてみると、見違えるようにすっきりとした家具に変身した。

当時は、必要に迫られ臨時に設置した家具だったが、それからは妙に愛着が沸き、ずっと使い続けている。そして1年に一回は、汚れたつまみの上に更にラッカーを塗り重ね、近頃はなかなか貫禄も出てきた。時々しっかりとした棚に取り替えなければと思うのだけど、どうも今ひとつ気が進まないのである。

2007年11月4日日曜日

ミッドタウンへ

六本木の東京ミッドタウンに、イベントを見学しに行ってきた。以前たびたび遊んだ場所なので土地勘はあったつもりだが、久しぶりに立ち寄ってみると、周辺風景の激変に方向感覚を失ってしまう。街並が変わることは、決して否定的ではないのだけど、脈絡を欠いた都市開発は居心地の悪さばかりを感じる。そもそも、東京の中心部にあたるこの地域を、たった数年で再開発するという計画そのものが、せっかちで無茶な要求なんだ。

街の印象としては、「デザインをテーマに日本の新しい価値と感性を世界に発信する」という、デベロッパーの意気込みとは裏腹に、その企画の射程範囲、とりわけ時間軸の短さが目立つ。つまり、今、現在は最先端かもしれないが、その新しさが数年後にはとても時代遅れに見える危うさを感じるのだ。それは、スピードと利回りを本質とするビッグビジネスが、ソロバン片手に行う都市計画の宿命なのかもしれない。


さて、デザインをテーマとしたこのイベントだが、印象に残るものがほとんどなくて、ブログに書こうとしても何を書いていいのか分からない。あくまで見た範囲内でのことだけど、一体何を世界に向かって発信しようとしたのかが見えなかったのである。思えばむかしにもそんなイベントがたくさんあって、予算余ってるから兎に角人呼べみたいな景気のいい時代だったころのことだ。羽振りの良さそうなアジアの旅行客が多く目につくフロアで、わたしにとってはデザインの今を感じるより、日本のあの頃と今の落差の大きさを再確認する皮肉なイベントになってしまった。

なかには楽しいイベントがあったのももちろんであり、たとえばここでの展示物は他で見たことがなかったので、今回は例外的に印象に残った。ただ専門的知識があればもっと楽しめたと思うので、そのあたりの工夫が足りないのが少し残念。