2008年3月31日月曜日

ブツ

護国寺に用事があって、久しぶりになじみの和菓子屋の前を通ると、珍しく行列ができていない。こんなことは滅多にないので、慌てて飛び込んで手持ちの現金で買えるだけ注文した。例のブツは、何時の間にやら147円になっていて、手に入れたのはわずか2ダース少々。わたしの周囲にも大ファンが大勢いて、お裾分けの際に喧嘩にならないよう数を調達するのが大変なのだ。

最初にこの店を知った頃は、周辺はまだ高層ビルが建ち並んではおらず、古い民家や雰囲気のある喫茶店が並んでのどかな場所だった。店も木造平屋建てで、ブツの値段は60円とか70円程度。いつも店の外まで、行列ができているのを不思議に思って、試しに買い求めたのが切っ掛けだった。そして、味はむろんだが、家族一丸となって見事なチームワークで仕事をこなしているのに、強い感銘を受けたものだ。

それから年月が経ち、町並みは激変して息苦しくなり、用事がなければ行くことのない街になってしまった。それでもこの街に魅力があるとすれば、ずっとやり方を変えることなく、誠実な商いを守っているこの店の存在は欠かせないと思う。向かいにある大出版社など、仮に潰れたっていくらでも代わりはあるが、この店の代わりはないのだから貴重なのだ。

きょう、店頭に立っていたのは、初めて見る女性だった。もしかすると若女将だろうか、相変わらず注文毎に、ブツの仕切り紙をはさみで切っているのが愉快だった。どうして前もって切って置かないのか、初めてこの店で買い物した時からの疑問である。2番目の写真は、最初に食べて感激した、出来立ての豆餅。大福が人気商品だと気づいたのは、その後のことだった。

2008年3月23日日曜日

一周年


毎度ありふれた台詞だけど、あたらしい庇をお借りして早1年が過ぎた。近時光陰矢の如し、なのだ。そして、わたしの我が侭にも、黙ってつき合ってくださった皆さんに、深く感謝します。一向に進歩のない当ブログが、曲がりなりにもここまで続けられたというのも、なんといってもいつも定期的に読んでくださる方々の存在なくしてはあり得なかったと思う。だから、顔も名も知らない友人たちに、心から「ありがとう」と言いたい。

それだけでは素っ気ないので、土曜の午後の散歩で撮影したマンサクの花の写真を貼付けた。「マンサクの、はぁあ、花が咲く・・・」、と朝の連ドラで知ったこの花は、クリスマスローズと並んでわたしの大好きな春の花なのである。毎年撮影するいつもの木から、今年も素敵な写真が撮れたことを感謝しつつ。

2008年3月22日土曜日

イトデンワ

プリペイド携帯のことを、我が家ではイトデンワと呼んでいる。もっぱら家の固定電話と通話するだけの携帯だからである。特別な機能を持たない単純なものだが、散歩や買い物などの外出時専用として、それなりに重宝している。それに本機を紛失した場合の、予備機としても重要なのだ。

先日のこと、充電池が弱ってきたので、電池交換のため近所の店を訪ねた。5年前から使っているお古なので、本体丸ごと交換してもいいのだが、小さくて便利なので、結構愛着があるのだ。ところが古い製品なので取寄せに時間がかかり、しかも費用が馬鹿にならないことがわかった。店員は落胆したわたしたちの様子を察して、「今とてもお得なキャンペーンを実施しておりますので、宜しければ・・・」と、新しい機種を勧めてきた。それが写真の新しいイトデンワである。

驚いたことにプリペイドカード代以外はロハ。いくら販売促進とはいえ、これでビジネスが成り立つのが不思議なくらいだ。でも野暮ったいデザインが玉に瑕、新型なのに、どこかお下がり風の枯れた味わいである。いくらイトデンワとはいえ、それではちょっと詰まらないので、シャレのつもりでお気に入りの動物シールを貼付けた。

2008年3月21日金曜日

酔った勢いで

小学生の時の担任の教師が、よくホームルームの時間などで戦争中の話をしてくれた。まだ防空壕が残っていて、入り口を有刺鉄線で塞いで、「立ち入り禁止」の立て札があった時代である。「火垂るの墓」の舞台となった故郷で、山の中腹に設置された高射砲を任された若き日の先生は、アメリカの爆撃機を撃ち落とせなくて、成す術もなく市街地が燃え上がるのを断腸の思いで見ていたのだそうだ。そしてわたしの出身校の、あの時代の先輩たちが、戦渦に巻き込まれて半数近くが亡くなっているのを知るにつけ、それがどれほど悲惨な戦争だったかを想像する。

もちろん戦争の当事者でないわたしたちに、あの戦争の善悪を発言する権利はない。ただ、あの戦争を体験した世代の子孫として、戦争体験を直に伝え聞いた世代として、果たさなくてはいけない道義的な責任を想起するのだ。それは、いかなる理由があろうとも、武器を持たない無抵抗な人々に対して、武力を持って制圧することは絶対に許されないということを、明確に発言しなくてはならないということだ。そうでなくては、何ら抵抗するすべもなく亡くなった、何万という尊い犠牲者たちが浮かばれないからだ。

さて、チベットである。わたしは腑が煮えたぎる思いで、連日のニュースに接している。わたしに少しでも勇気があれば、大使館に抗議の電話をしているところだが、残念ながら腰抜けの小市民なのである。それ以上に腹立たしいのは、人権尊重を憲法上の国是とする我が政府のふがいなさである。政治上の混乱を口実として、騒ぎが治まるまで死んだ振りを決め込んだ、現政権の卑怯にほとほと愛想が尽きてしまった。

わたしたちにできることは何なのか。ひとつには、あらゆる場面における小市民としてのボイコットである。あの国で作られた製品は、たとえ日本企業のものでも買わない。似非平和の祭典、北京オリンピックなどは、絶対に見ない。あの国への観光旅行などは論外である。声高に主張する必要はない。黙って、日々の生活の中で、小さなボイコットをすればいいだけだ。たったそれだけのことでも、それを何千万人と行動すれば、必ずや政治的圧力となって効果を発揮すると思う。そしてもうひとつ。日頃から、人権だ環境だ、平和が一番だと主張する人たちが、この問題についてどのような発言をしているか、インターネットで慎重に観察してほしいと思う。「チベットの人たちに自由を!」それを願う世界中の人たちと、今は黙って連帯したい。

2008年3月18日火曜日

法則

電気製品が不調になる。いずれ直るのではと思って使い続けるが、不調は改善せず、仕方なくサービスセンターに電話して修理を依頼する。指定した日に係員が来訪し、「じゃ、ちょっと故障の具合を確認させてください」と言ってスイッチを入れる。するとどうしたことか、さっきまであれほど絶不調だった電気製品が、何事もなかったように動き出す。しきりに謝る私に対して、係の人は「いえ、よくあることですから。一応、掃除しておきましょう。」と言い、簡単な作業を行い帰っていく。そして暫くすると、再び言うことを聞かなくなるのだ、

1月の初旬にパソコンを購入した。なぜか最初から電源スィッチの調子が悪く、起動するのに手間がかかった。本来ならば初期不良として、メーカーに交換を要求するところが、切羽詰まった用事があって必要なくなるまで使い続けることになった。そして修理に出す余裕ができ、ようやくサポートセンターに電話して、状況を説明して修理依頼をした。そして、わたしは受話器を置いて、何気なくパソコンのスウィッチを入れると、こともあろうに、今までの不調が嘘だったように起動した。例の法則が、また働いたようである。

2008年3月14日金曜日

早春の旅 3

旅行の楽しみは、何といっても食事、とりわけ晩飯。宿に着いて真っ先に訪ねることは、伝統的な料理を出す、旨くて安いレストランの在処である。地元住民に人気があって、できれば飲んで歩いて帰れるくらいの近所が望ましいということも付け加える。勘のいい主人ならばたいてい、気働きの良いマダムが仕切る、家庭的な雰囲気のレストランを何軒か推薦してくれる。それをあらかじめ下見しておき、相性の良さそうな店を選んで食事することにしている。

そういう店の何がいいかというと、旨いというのは当たり前として、その土地の家庭料理を味わえるということがひとつ。そして珍しい料理を、傍目を気にすることなく分け合って食べられること。そして何より、テーブル同士が近いので、客同士で会話を楽しめるというのが貴重なのだ。テーブルにつく段で嫌でも挨拶する必要があるし、それが切っ掛けとなり、メニューに迷っているとたいてい世話を焼いてくれる。そして食事が進み酒も入ると、すっかり打ち解けてカタコトの世間話を始めるという案配だ。どちらも互いに中年夫婦、生活圏は違っても、意外に共通の話題に事欠かない。

今回の旅行でもよく食べたのが、内蔵系の料理。わたしが普段、肉料理をあまり食さないせいなのか、レアのステーキなどは鬼門なのである。その点、内蔵料理はしっかりと火が通っているし、加えて酒との相性がいいので、メニューにあれば必ず注文している。ただ、部位が部位だけに、これは何の肉と尋ねると、たいていひと騒動起きるのがご愛嬌だ。まあこの際、理屈はいい。安くて旨くて暖まる、それが内蔵料理の魅力なのである。

2008年3月13日木曜日

早春の旅 2

家から海岸まで海水パンツのまま泳ぎにいく子供時代を送ったせいか、海は自分にとって身近すぎて意識したことがない。むしろ、海のそばで暮らすより、緑深い山間の里で暮らすのが理想であるくらいだ。そのようなわけで、旅先では海とは無縁の土地を歩き回ることが多かった。しかし、春先の優しい海も良いものだ。たまには人の少ない静かな海辺を散策するのも楽しかろう。そこで思いついたのが、バスや電車を乗り継いで行く、早春の海岸を巡る旅なのだった。

ところが実際に来てみると、天候は一日のうちでコロコロと変わり、暴風が吹きヒョウが降るかと思えば、その後はうららかな陽光が射すという展開で、日本の穏やかな早春のイメージとはかけ離れていた。それでも道端のあちこちで水仙が咲き、モクレンやミモザの花が満開で、やはり日本と同じ春の景色を見ることができた。ただひとつの違いは、それらの景観を邪魔するようなものが、こちらでは何もないことだろうか。

湾に浮かぶ修道院まであとわずかだった。だが遮るものが何もない一本道で、突然の激しい風雨に打たれて、衣服も心もぐっしょりとなる。傘やレインコートも、少しの慰めにもならなかった。こんなに厳しい天候で、古の巡礼者たちは、どんな思いでこの修道院を目指したのだろうか。修道院のテラスに上ると、先ほどの雨雲は遠くに去って、わずかな晴れ間が私たちを歓迎してくれた。一瞬の幸福とシャッターチャンス。

この地方一帯は公共交通網が貧弱なので、できればレンタカーで巡るべきなのだが、どうしても自信が持てず諦めてしまった。しかしローカルバスに揺られ、その車窓から眺める風景は格別だった。牛の寝そべる牧草地を抜け、小川を何本も渡り、バスは窓辺を飾った家々が集まる小さな町に停車する。乗客の大部分は通学児童とお年寄り、そしてわずかに旅行者。子供たちのおしゃべりに耳を傾け、雨粒にぬれた窓越しに流れ去る木立を見送っていると、ふと自分が永遠の旅行者のように思えてくる。

最後に立ち寄った海辺の町は、堅牢な要塞の町だった。勇猛な海賊が礎を築き、その後海上交易で栄華を誇った町も、今では漁業と観光の町である。バスを降りると、砂まじりの突風が吹き付けて、たちまち目や口の中がざらざらになり、そして吐く息は白くなる。手荒な歓迎だが、さすがにもう馴れた。迷路のような街路を辿って、やっと小さなホテルを探し出し、通された部屋に荷を降ろすと既に夕暮れが迫っていた。

2008年3月12日水曜日

早春の旅

半日間の拘束状態から解放され、荷物を引きずるようにしてホテルを探す。腹は空くは、足は痛いは、目は霞むはで、次第にエコノミークラスが体に応えるようになってきている。次は絶対にビジネスクラスと誓いながらも、いざその段になると、やっぱりお得な席を選んでしまう性が悲しい。

今回はずっと、海沿いの地方を歩くので、入国初日は以降に備えて栄養補給と睡眠を取るだけ。食事の前に、通りがかった店でお揃いのバスケットシューズを買い、くたびれた革靴と履き替える。久しぶりの長期バカンス、いよいよ念願の土地を訪ねると思うと、妙に気分が高揚する。

運の悪いことに、機中では賑やかな学生さんに囲まれ、ほとんど眠れなかった。こういうときは、決まってホテルでも眠れなくて、しばらく辛い状態が続く。卒業旅行というと、当時は進路が決まった人から、勝手気ままに歩き回ってくるというのが普通だった。だから友達同士で海外旅行というのは記憶にない。今では隣町に行くのと変わらないくらい簡単になったのに、ご時世とはいえ、わたしにはちょっと過保護のような感じがする。

最初に泊まったのは、駅の近くの小洒落たホテル。白い陶器の洗面台に、赤いガラスコップがよく映えていた。このアイデアはいただき。