2008年10月28日火曜日

ラッピング

日ごろから、贈答の習慣は失くした方がいいと思っている。むろん社交上の潤滑油という面もあるので、それを全廃しろとは言わないが、少なくとも虚礼に属すものはいらない。何が嫌かというと、虚礼の品には無駄が多すぎるのだ。たかだか食べ物類を包装するのに、中身より外見のゴミのほうが多いというありさまで、頂戴するたびに文句が口を衝いて出る。それなりに上等な品なのに、まるで中身の貧相さを取り繕うような大げさな包装では、かえって逆効果ではないか。

写真は、最近頂戴した品の包装紙。割れモノを包むような、薄茶色の質素な紙に、かわいいシールが貼られているだけ。とても素朴なラッピングだけど、贈った人の人柄が現われていて感じがよかった。

2008年10月26日日曜日

豪遊

最近評判の、「ホテルのバー」で豪遊した。仲良し4人組で会食した後、物足りないのでもうちょっとという話になった。バーにでも行こかと提案が出たが、馴染でないと面倒だし近所に知ったとこないし、じゃあホテルで一杯やろういうことに決まる。

入ったのは都心のホテル。従業員にバーまで案内してもらい、おっさんのグループなので、ラウンジ席を選ぶ。ちょっと低めの座り心地のいいソファに腰を下ろして周囲を見まわすと、広いフロアにゆったりとテーブルが配置されて、客同士の話し声はほとんど聞こえない。もちろん居酒屋でないので酔っ払って騒ぐ酔客はおらず、またタバコの煙で燻されることもない。少人数でテーブルを囲んで歓談するなら、やっぱりホテルを利用するに限る。

ワインリストを持ってきてもらい、つまみを少しと仲間が勧める銘柄をボトルで注文する。出されたワインはお勧めだけあって、そこそこに上質。グラス片手に談笑するうち、あっという間に時間が過ぎる。勘定を頼むと、割り勘で一人分がちょうど映画のチケット程度だった。いい年をした大人が使う金額としては、実にささやかなものである。いわゆる庶民がパチンコ屋に行ったって、その倍くらいは使っているだろう。まして首相の夜遊びが庶民感覚とかけ離れていると批判する野党の政治家は、いったいどういうところで遊んでいるのだろうか。おそらく自分の勘定書すら見たことがないはずだ。

2008年10月17日金曜日

ステイシー・ケント



最近お気に入りの歌手、ステイシー・ケント。声に独特の癖があるが、のびのびとして、肩の力が抜けた洒落た歌い回しをする。ジャズクラブの湿った空気の中で聴くというより、さわやかな高原で風に吹かれて楽しむ野外コンサートが似合いそうな歌手だ。

休日に料理をしながらとか、部屋の片づけをしがらとかしつつ、頭を空っぽにしてふんふんと鼻歌で応えながら聴くのがわたしの楽しみ方。心のマッサージを受けたみたいに、気持ちが軽くなるのが嬉しい。最新アルバムも悪くはないが、それ以前のジャズのスタンダード集の方が好みである。

元気でさえいれば

わたしは、駅のプラットホームでも横断歩道でも、決して先頭には立たない。車を運転している時は、前より、横や後ろを見ている時間が長い。列車は必ず2両目以降に。そして、いつだって、今、災害が起きたらどうしたらいいかを念頭において行動している。実際に、それで命拾いをしたことがあるので、仮に最悪の事態が来ても、それは運命だという覚悟もできている。もちろん、これまで他人や国に守ってもらおうなんて、これっぽっちも考えたことがない。

だから、自分がすべきことをした以上は、あとは思いきり楽観的でいるべきと思っている。個人の努力で対処できないことを、いくら心配しても無意味なのだから。そして、さらに言うと、どんなに恵まれなくても、生きているというそのことだけでも、それを感謝するくらいの謙虚さがあってしかるべきだとも思う。人類の歴史の過程で、どれほど多くの人たちが、理不尽な仕打ちを受けてきたかを考えると、現代に生きるわたしたちは、過去の人たちに比べていかに幸せかが理解できようというものだ。

さて、わたしはこれまで、といってもそれほど長くもないが、それなりに平和に過ごしていたつもりでも、結構いろいろな災難に遭遇している。思いつくだけでも、オイルショックがあり、原発が爆発し、交通時にあったり、大地震が起きたり、バブルが崩壊して銀行が次々潰れ、大規模なテロの危険にもさらされたりした。そういった事件を潜り抜け、今年の秋も、何時もと同じように、のほほんと美しい月を眺めている。

直感的には7対3以上。それくらいの確率で、いよいよ個人の努力ではどうにもならない大変な時代に入ったように思う。数日前までは、まだ認められなかったが、ここに至って見たくなかったものが否応なく目に入ったきた。自分のこれまでの生活を考えると、なんで海の向こうの連中のしりぬぐいをしなくてはならないのだという思いが強いが、まあそれが人生なんだ。「元気でさえいれば、何でもできるよ。」という、大先輩の言葉を噛みしめたい。

2008年10月14日火曜日

ジーンズ

ジーンズといえばリーバイスしか穿いたことがない。しかし、先日のことだが、久しぶりにいつものジーンズショップに行ったものの、意外に高い気がして手ぶらで戻った。それが原因で、妻はすこし腹を立てていた。「もう古いジーンズでは出歩かないで。」と厳命を受け、困り果てていたところに、タイミングよく衣料品店のバーゲンチラシである。「今日は絶対に買うからね!だから付いてきて。」と、強く言われて渋々幹線道路沿いにある衣料品店に行く。新聞で読んで知ってはいたが、店内は買い物客で予想以上に混んでいて、昨今の不景気とは無関係の繁盛ぶりである。

値段を見ると、おお!安い。これがデフレというやつだ。今までリーバイスに特別な拘りがあったわけでなく、あれこれと探すのが面倒なだけだったので、品質に問題がなければ何でも良かった。実際に商品を手にとって見ると、いつものと特段に違うというわけでなく、縫製もしっかりしている。これで文句を言ったら罰が当たる品質だ。平凡なデザインと色とサイズの、ありきたりなジーンズを選んで、すんなりと一件落着した。

ずっと前に、ここの経営者夫妻とすれ違ったことがある。街角の小さな洋品店で、わたしの後から入ってきたのが彼らだった。メディアで頻繁に見る経営者の方が商品を観察している間に、のんびりとした感じの奥方は品定めをしている。しばらくして奥方が、「いいのがあったけど、ユーロがあと少ないし、どうしよ。」と言うと、夫のほうが「ごちゃごちゃ言わんと、気に入ったなら買うたら?カードがあるでしょ、カードがっ。」と、夫婦漫談風ののりで会話していた。日本の勝ち組の代表のような人が、ありふれた普通の洋品店で、私たちと同じように買い物をしているのを、ちょっと面白く感じたものだ。それにしても、なんであんな店で買い物していたのか、今もって不思議である。

2008年10月11日土曜日

デジタル秤

この四半世紀の暮らしは、ずっとアナログからデジタルへの移行の歴史だった。子どものころに算盤から電卓へ置き換わったのが、この変化の始まりだった。レコードはCDに代わり、今は圧縮変換されたファイルを再生して聞いている。写真もフィルムを使わなくなって久しい。世間ではテレビやビデオもデジタルに、急速に置き換わりつつあるらしい。しかしいつだって、その変化を容易には受け入れ難く、最後まで無駄な抵抗をしている。

別にデジタル技術の有用性を否定しているわけではない。問題は、その変化のスピードに付いていけないだけなのだ。アナログで十分に熟成されているものを、謂わばハツモノ技術の製品に取り換えるのが、何か軽薄な調子がして嫌だった。そして格別に困っていなければ、従来のものを工夫して使うほうが、どことなく格好いいような気分もあった。

以前から台所用の秤が調子悪く、修理をしながら騙しだまし使っていたが、最後にどうにもならなくなった。料理だけならそれほど困らないのだけど、それ以外にも計量する必要があったので、とうとうデジタル秤に買い替えた。まず、容器を除外して内容だけの重さが簡単にわかることに驚いた。そして暗算や目分量に頼らなくても、たちどころに1グラム単位の正確で計量結果が表示されるのに、ひどく感心してしまった。すっきりと問答無用なところが、小気味いいではないか。

ただ、一つだけ気に食わないのは、秤のデザインが無味乾燥な点。自分で修理を重ねても使い倒したいというようなカワイゲがない。大量生産の日用品に愛着を求めるのは、前世紀の悪しき風潮なんだということは理解できるけど、そこまでハードボイルドには暮せないわけで・・・。結局、デジタル嫌いなのかもしれない。

2008年10月9日木曜日

映画を見る

歩道のハナミズキが紅葉して、枝の先に赤い実をつけていた。夜に近所の公園を散歩していて、毬栗を踏みつけた。夏嫌いには、ようやく待ちに待った楽しい季節の到来である。

例年この時期になると、決まって酒の肴代わりに映画「恋人たちの予感」見ている。物語としてはどうってことないけど、ニューヨークの季節の描写が素晴らしくて、それでお気に入りの映画になっている。特に、メトロポリタン美術館 を舞台とした場面で、館内からガラス越しに見えるセントラルパークの景色がたとえようもなく贅沢で心地いい。それから大晦日のラストシーン。シナトラが「君でなくっちゃ駄目だったんだ」と切々と歌う中、主人公が夜の町を駆け抜け恋人のいる場所に急ぐ場面にホロリとさせられる。

さらにこの季節、やっぱり外せないのが「月の輝く夜に」という映画。ニューヨークの秋はオペラの季節ということで、映画のクライマックスとなる舞台もメトロポリタン歌劇場である。しかしブラックタイでオペラ鑑賞も悪くはないが、それよりも下町のレストランで教え子に振られてしょげる教師と孤独な主婦が会話する場面が、いかにも都会的で気に入っている。甘ったれの中年男の誘いをぴしゃりと撥ねつける女の凛々しさが爽快。また老人がたくさんの飼い犬を引き連れ、ハドソン川の桟橋から満月に向かって吠えるエピソードも忘れられない。

さて、そういうことを書いていて、どうしても挙げたくなるのがウディ・アレンの映画作品のいくつか。一番人気「アニー・ホール」の軽妙で洒落たシナリオを楽しむのもよし、自分の一押し「マンハッタン」の愛情溢れるニューヨークの街角描写に浸るのもよし。とりわけ印象的なのが、ガーシュインだったかの曲をバックに深夜のブルックリン橋?の袂でデートする場面。黒々としたブルックリン橋のシルエットが、画面一杯にゆっくりと立ち上がるさまは、公開時に一度だけ見たきりなのに、その圧倒的な迫力が脳裏に焼き付いている。

友人たちの間ではアメリカ嫌いの偏屈で通っているが、実は映画を通じてみる一昔前のニューヨークは、わたしにとっては夢のような街なのである。もちろん映画の世界と現実は全然異なっているというのは承知の上。だけども一生に一度くらいは、直にニューヨークの街の匂いを楽しんでみたいと思う。そして、訪れるならやっぱり季節は晩秋がいい。何時のことになるかはわからないが、それまでには元気を取り戻してほしいと願っている。

2008年10月7日火曜日

燃え盛る秋に

「燃える秋」とかいうタイトルの邦画があったが、金融市場の火の手は一向に収まる気配がなく、世界中が燃え盛る秋になってしまった。人間のむき出しの欲望の前には、過去の体験や教訓のいかに無力なことか。だけど店頭からバナナが消えたことが目下一番の話題になるガラパゴス島に暮らしていると、このまま世界が丸焦げになっても気がつかずに済んでしまうような錯覚に陥ってしまう。何も気がつかずにやり過ごすことができれば幸せなんだろうが、気がついた時にはベッドの周りまで火が迫っているのが普通なので、いざという時の覚悟だけはしておきたいと思っている。

「覚悟」という言葉を使ったが、実はそれほど大袈裟なことではなく、何があってもいつもと変わりなく淡々と、穏やかに暮らしていこうという心構えにすぎない。金融恐慌は戦争や天災なんかではないのだから命を奪われるということはなく、最悪、空きっ腹を抱える程度の禍で、それだったらどんな時代でも当たり前に起きているので慌てる必要はどこにもない。現にわたしは、朝食に出るはずのバナナを長らく見ておらず(もちろん原因は別だが)、毎朝トーストとコーヒーだけの寂しい食事になっているが、それも次第に気にならなくなってきたところだ。金回りが悪くなっても、質素もいいねといえるくらいの心の余裕があれば、厳しい風景だって違って見えるだろう。

それにしても、改革が遅いと散々罵られ続けて、ジャパンパッシングという屈辱的な言い方までされて、気がつけば日本以外全部沈没の状況となり、また時代の流れにポツリと取り残されたわが祖国。たとえば生物の世界では、種の多様性を失うと、その種は絶滅しやすくなるらしい。人間社会も同じかもしれない。多様な経済社会があればこそ、世界経済の壊滅は防げるのではないか。前回の世界恐慌時にも、共産主義のソ連はほとんど影響を受けなかったと聞く。だけど資本主義化した新生ロシアは、今回は簡単にバブルに飲み込まれてしまった。ガラパゴス日本が、その不思議な進化ゆえ、世界経済の最後の防波堤の役割を負うことになったとすれば、それは歴史の壮大な皮肉でもある。