2009年5月27日水曜日

給付金と箒

区から給付金が振り込まれたが、後で増税されたのじゃ迷惑なだけである。しかも税金をより多く払う現役世代には少なく、逆に年金世代には上乗せ給付するのだから、要するに体のいい高齢者への所得移転である。おまけに税金を支払う時期に銀行振り込みにするのだから、ほんとに景気刺激策になるのかと疑っていたら、来日中のノーベル賞学者に最低の施策だと酷評されたそうな。

それでも国民の一人として給付金で不況打開に協力したいのだが、特別に欲しいものがあるわけでなく、結局近所のレストランで食事をして、ささやかに地域経済の振興を後押しをした。そして給付金の残りを何に使うか探したところ、ちょうど掃除機の調子が悪く、これを何とかしようということになった。というものの、過日の冷蔵庫の件と同じく、欲しくもない新品を無理して買い替えるのは気が咎める。

さてどうしようという段になって、先日読んだ「非電化」の本のことを思い出した。そもそも電気掃除機は西洋的な生活で必要になったものであり、日本の家庭ではそれほど必要ではないということ。思えば我が家、全面板張りの小住居にして、大人二人だけのひっそりとした暮らし。それこそ箒片手に、目についた埃を掃っていれば十分であり、騒音を出さないので夜中の掃除だって平気である。

ということで、電気掃除機はやめにして、銀座の老舗で箒と塵とりを購入した。むろん洋モノだって悪くはないが、給付金は深刻化する消費不況を打開するためのお金なのだ。やはりここは、「ばい・じゃぱにーず」でありたい、地産地消で行こうじゃないか、というわけ。実際に使ってみると、箒だけの生活でも全然困らないというか、むしろ余計な手間がかからずずっと便利で具合がいい。これならもっと早くそうすればよかったと、軽い後悔を感じたのである。

まあ、政策目的に忠実にというか、給付金相当額をそれなりに有意義に使ったつもりだが、実際に振り込まれたお金は一度も手にすることもなく、特別な支出をしたわけでもなく、嬉しくも楽しくもなく、そんな定額給付金に何の意味があったのだろう?

2009年5月25日月曜日

週末の散歩

商品券を頂戴したのはいいが、近所ではあまり使い道がなく、しかも商品券の使える書店は遠くの街にあった。このところ実際に書店を覗く機会が少ないので、運動不足の解消を兼ねて、目的の街まで歩いて行くことにした。日差しが強いため帽子とサングラスを身に着け、小さな布の手提げにタオルと財布を入れて家を出た。

遊歩道を伝っていけば大丈夫だろうと思っていたが、外は想像していたよりずっと暑く、歩きだしてすぐに汗をかき始めた。半袖にしておけばよかったと後悔しつつ、袖をまくり上げ、タオルでしきりに顔を拭いながら歩く姿は、映画に出てくる聞き込み中の刑事みたいだ。もっとも彼らが手にするのは黒革の手帳であり、間違ってもプリント柄の手提げ袋ではないが。

少し以前に改修された遊歩道には、新たにせせらぎが作られ、そこには水辺の植栽が育ち、浅い流れの中で鯉が窮屈そうに泳いでいた。人工的なものとはいえ、こんな暑い日には、緑の木陰と水音が何よりの慰めである。しかし、そもそも用水路だった所を遊歩道にして、その上に更に人工のせせらぎを作り、それって一体何なんだろうと首をかしげる。確かに、用水路じゃ見栄えは悪く、お上品な住宅地には似合わないのだけど、何もしなくても同じだったのじゃないだろうか。

小1時間かけて目的の書店にたどり着いた。店内はほどよい冷房が入り、シャツの下に籠った熱気が、みるみる抜けていくのが感じられる。ここは全国にチェーン店を持つ大書店だが、ちゃんと街の雰囲気を反映した品揃えになっているのがうれしい。たとえば、そうとう目立つ場所にArneのバックナンバーが並んでいたり、幸田文の紹介コーナーがあったりして、客層をかなり絞っている様子。出版不況が深刻化する中で、小売りもいろいろと知恵を絞っているのがよくわかる。そして私も、楽しい陳列につい釣られて、朝ごはんの本を手に取ってしまった。

書店から見える駅前市場の屋根。昔は食料品店が軒を連ね、雨が降る日は、いかにもアジア的なさまざまな臭いが通路を満たしたものだった。

2009年5月17日日曜日

「ヨシギュウ」

妻が、一度でいいから行ってみたいと言い続けていた店に行った。それは、「ヨシギュウ」なのである。これまでは、行ったってつまらないからと渋っていたが、自分で最寄りの店を探してきて、そこに昼飯に連れて行けと煩く言うので、熱意に押されて付き合うことにしたのだ。

「ヨシギュウ」に世話になっていたのはBSE騒動の前で、いつも朝食を抜いた早朝とか残業帰りの深夜であり、つまり普通の店が開いていない時間に、とりあえず空腹を満たすための駆け込み寺といった印象でしかなかった。決して不味いとは思わないが、だからといって誰かと食事を楽しむために行くようなところではないと思い込んでいた。

ところが、久しぶりに行って驚いた。看板は「ヨシギュウ」だが、駐車場には高級車が並び、店内は都心のレストランさながらに、都会的で落ち着いたインテリアに設えられ、カップルや家族連れで一杯なのである。中に足を踏み入れると、ゆったりとした4人掛けのテーブルに案内され、そこから周囲を観察すると年配の夫婦や外国人も珍しくない。あの、青白い蛍光灯の下で、疲れ切った男たちが、黙々と丼をかき込む「ヨシギュウ」と同じ店とは信じがたいほどの変わりようである。

注文したのは、お約束の牛丼と生卵。妻はどこで覚えたのか「つゆだく」を所望したが、それは店の雰囲気に合わないかもと言って諦めさせた。そして味のほうはというと、記憶していたものよりずっと上品で洗練されたものだった。これだけの質の料理を、二人でお腹いっぱいに食べて、しかも千円で釣りがくるのであり、まったく日本の飲食業界は大したものだと驚いてしまった。

妻は、長年の希望が叶って、やっと満足した様子だ。わたしは、あの慣れ親しんだ店をなくしてしまって、少しばかりショックを受けている。そして今度は、京都生まれの餃子専門店に行ってみたいと言い出さないか心配している。だって、洒落た音楽の流れる店で、餃子や中華丼を食べるなんて、想像しただけでも気味が悪いではないか。

2009年5月13日水曜日

残したカメラ

姪が本格的に写真を撮り始めたので、長らく保管していたフィルムカメラを出して、自由に気に入ったものを選ばせた。そうしたら、何の迷いもなく、ニコンの手動式のカメラと35ミリと105ミリのレンズを手にした。理由を聞くと、授業で使うカメラと同じだし、スタイルがさっぱりとして格好いいという。ああそうか、君の生まれる前に、ボクもそう思ってこのカメラを買ったのだっけ。金属の塊みたいで古めかしいけど、不必要なものが何一つない潔さが魅力だね。オートフォーカスのは要らないのと尋ねると、マニュアル読まないと使えないようなモノは失格なんだそうだ。一昔前の最新鋭カメラは妙にくたびれて加齢臭さえ感じるが、それに比べてクラシックニコンはシルバーに輝く万年青年。ごく自然の、当たり前の選択だった。

姪には秘密にしているが、その時出さなかったカメラが2台あった。それはオリンパスの古いコンパクトカメラ。5年前にデジタルカメラに切り替えるまで、一番出番の多いカメラだった。旅行に行くときは、重たい一眼レフではなく、この小さな28ミリと35ミリの単焦点カメラを2台を、それぞれ必ず持って出かけたものだ。チープだけど写りは悪くないし、一眼レフと違って周囲の人が警戒しないのが取り柄だった。それに、カメラ特有の大げささがないというか、所有欲の対象とはなりえないようなカジュアルさが気に入っていた。だから所有欲を拒絶する風のある姪の目に触れると、きっと取り上げられるだろうと思ったのである。

カメラと一緒に、とっくに期限切れになったアグファとコニカのフィルムも数本出てきた。そして思い出に残したカメラをポケットに入れて、ちょっと遠くの町まで散歩に行ってみようかという気になった。

2009年5月11日月曜日

コーヒー考 その2

最近になって、慣れ親しんだコーヒー粉が手に入らなくなり、コーヒーの味が微妙に不安定になってしまった。そこで対応策を考えるにあたって、最新のコーヒーの手引書『コーヒー「こつ」の科学』を読んでみた。これが、非常にバランスの優れた、これまでの自分自身の実感にも合う、素晴らしい内容の本だった。

なんといっても「ペーパードリップはポピュラーな割に、意外に複雑で難しく、慣れが必要だ」と述べている点に深く同意する。そして、その根本原因として、湯を注ぐと同時に成分抽出が行われるため、抽出時間がコントロールできない点を指摘する。更に、粉の大きさや分量、ドリッパーの形状によっても抽出時間が変動することから、なぜそうなるかを丁寧に解説している。そして結論的には、私と同じ方法、つまり粗挽き豆を分量を多めにして短時間で抽出することを勧める。

指摘されている問題点は漠然と自覚していたが、ペーパードリップが本質的に抽出時間を決められない方法だという認識がなかったため、いわば場当たり的に問題を解決していた。結局、「ペーパードリップは、誰にでもおいしいコーヒーを淹れることができる最適の方法だ」という先入観に縛られていて、不満があっても他の方法を試してみることまで思いつかなかったわけだ。この本は、コーヒーの基礎理論から、どのように考えたら自分に合ったコーヒーが淹れられるかという道筋をつけてくれる点で、妙なこだわりのない柔軟で素直な手引書だと思うのである。

そこで、すべてを白紙の状態に戻して、コーヒーの淹れ方を再検討した。要は、自分の意図したとおりに、成分の抽出をコントロールできるかということに尽きるので、ブレの出る不安定な方法は避けなくてはならない。とすれば、湯を逐次投入する方法、すなわちドリップ方式はひとまず諦めて、湯とコーヒーの粉を同時に混ぜて抽出する方法を検討すべきだ。その中では、サイフォンは沸騰水なので豆を選ぶし、しかも温度管理が難しい。すると、残るはフレンチプレスということになる。この方法、実は以前からひとり分だけ淹れるときにやっていた。少ない分量なら、ペーパードリップよりずっとうまく出来るからである。しかし、これは後片付けが面倒だし、少人数分しか作れないので、実用面から却下である。

結局、最後に残ったのは、湯の入った鍋に粉を放り込んで、時間を計って抽出するという単純な方法だった。これなら誰でも、いつでも、同じ条件下での安定した抽出が可能だ。手順は、鍋で湯を沸騰させて、これを一度ビーカーに戻して適温にする。そして鍋に湯と粉を投入して攪拌し、鍋に蓋をして待つこと約4分。鍋の中では安物の粉でも美しい褐色の細かい泡ができ、コーヒーらしい濃厚な香りを放っている。あとは、先ほどのビーカーに、コーヒーの上澄みを濾して注ぐだけである。鍋とビーカーさえあれば、誰でも上手にコーヒーが淹れられるし、特別な器具や慣れも不要で、片付けも簡単、今のところ我が家にはベストな方法だと思っている。最大の課題は、より安くて、ほどほどにうまいコーヒー粉を見つけだすことである。

2009年5月9日土曜日

コーヒー考



朝のコーヒーだけは、必ず自分で淹れる。10代の終わりからずっと、1年で300回以上、今日まで延々と続いている習慣だ。以前は定期的にお気に入りの豆を送ってもらい、挽きたての贅沢なコーヒーを淹れていた。しかし途中から忙しくなったり、また合理的にもなったりして、スーパーのPB商品のレギュラー・コーヒーを工夫して淹れている。本当にうまいコーヒーが飲みたければ下手に試行錯誤せずに、黙ってプロに任せるのが間違いないと思うからだ。

だから私の場合、せいぜいコーヒーメーカーで抽出するよりましなコーヒーを、いつも安定した状態で、コストや手間をかけることなく淹れることを目標にしている。気をつけていることは、きっかり4杯分の湯とその温度管理だけ。沸騰した湯を、必ず一旦ガラスポットに入れ、それを再び薬缶に戻して適温にする。金属フィルターに粗挽きの粉を多めにセットして、蒸らしも「おまじない」もなしで、湯をあっさりと注ぐだけ。新鮮で上等の粉であるならまだしも、安価なPB商品なので、手早く淹れるほうがずっとおいしいのだ。そして最後に、抽出されたコーヒーの濃度が均一になるよう、プラスチックのナイフでかき混ぜる。もちろんカップは暖めておく。

ポイントは、いつも同じ手順を守り、コーヒー粉の状態や室温などを勘案して、粉の分量、湯の温度を微調整し、味のブレをなくすこと。コーヒーの銘柄を頻繁に変えたり、抽出する分量がいつも違うと難しいが、毎日が同じだと加減が自然とわかるようになってくる。要するに、自分がおいしいと思ったコーヒーの条件を見つけ出して、適度に修正を加えるだけである。

しかし、そうやって淹れるうちのコーヒーがうまいかと問われると、絶対評価としては全然駄目だが、朝の気忙しい時間に流し込むコーヒーとしては、まあ悪くないと感じている。少なくとも、へぼ探偵がサイフォンでいれたコーヒーを噴いてしまうほどには、不味くはないだろう。そして自宅の味に飽きて嫌になったら、どこかお気に入りのコーヒーショップに行って、また機嫌を直して今までの習慣を続ければいい。そんなふうに思うのである。

2009年5月7日木曜日

連休の最終日



連休の最終日は、普段行く機会のない青山とか原宿を散歩する予定にしていたが、そんな日に限って雨降りである。このところ家事仕事と読書ばかりだったので、家にいるのも飽きてしまっていた。それで何もしないよりましだろうと、園芸用の土や材木を買いに郊外のホームセンターに出かけてみれば、同じように考えた人たちの車列が店外まで延びている。そういうこともあろかと思い、何枚か選んできたブロッサム・ディアリーのCDを聴きながら、ぼんやりと雨の景色を眺めて過ごした。

昼過ぎにホームセンターから帰宅すると、珍しく姪が遊びに来ていた。新生活にまつわる諸々のことや、学校のことなど、積もり積もった話をしゃべり始めると、もう止まらなくなる。おなかを空かせた彼女のために、いつもの倍の分量の焼うどんを作り、それを食べながら、こちらは「ふんふん、ホォー」と聞き役に徹する。食後はデザートとお茶を飲み、彼女の撮影してきた写真を眺め、その説明に笑い転げて、はや夕方となった。

お昼を山盛り食べていたのに、再びおなかを空かせた姪のリクエストに応えて、夕食はエビのチリソースと麻婆豆腐を作ることにした。私と妻、姪の三人がキッチンに一列に並んで、野菜を刻み、ソースを作り、鍋を振る。互いに味見をしては議論をし、指示を飛ばしあいながらの賑やかな料理。その楽しいことといったら、ここ最近ではちょっと思いつかないほど。夜遅くになって、彼女をアパートまで送り届け、その帰りの車中では言葉少なくなり、互いに小さなため息を吐いていた。どこにも出かけることはなかったが、それはそれでいい連休だったと思うのだ。

2009年5月3日日曜日

家事の毎日



例年、春の連休は忙しい。普段はなかなかできない、手間のかかる家事をしなくてはならないからだ。だからいつも通りに起床して、朝食をとりながら段取りの相談をして、それから徐ろに仕事に取りかかる。お互い家事は嫌いだけど、それ以上に家の中がきちんとしていないと嫌なので、どうしても大型連休が大型家事週間に化けるのだ。

昨日は、窓の周辺を片付ける日だった。汚れた網戸を洗い、手の空いた片方はその間に窓を磨く。リネンのカーテンを洗って、きちんと糊付けをする。その間に、もう一方はカーテンレールや窓枠を掃除する。連係プレーで速やかにカーテンのアイロン掛けをして、順々に窓に掛けていく。すべてが終わって、気持ちよく風に揺れるカーテンを眺めていると、もう夕方である。

夜になって、買い物から戻ってきた妻が、小さな袋を下げていた。袋の中身は、チーズの固まりが2個。ご褒美に、近所のチーズ専門店で買ってきたのだと言う。明日もまた、がんばって働けというサインでもある。

2009年5月2日土曜日

冷蔵庫のリニューアル

今の冷蔵庫では、冷凍食品の備蓄が不十分だということに気づき、インフルエンザ予行演習の仕上げとして冷蔵庫の買い換えを決めた。以前にもちょっと書いているが、うちの冷蔵庫は恐ろしく古い上に、特に冷凍庫の容量が小さいのである。それで近所の大型量販店に買う気満々で行ったのだけど、確かに種類は多いのだが、どれもこれも同じようなものばかりでがっかりする。古いアメリカのコマーシャルで、ソ連の商品を痛烈に皮肉ったものがあったが、それと全く同じ状況だ。メーカーが違うだけで、全部一緒、個性なし。そして購入意欲もなくす。

それで悩むのもばからしく、そのままmujiに行くと、安くてこざっぱりした冷蔵庫が数台並んでいた。ただ大きい方はちょっと手に余るし、小さい方は買い換えても今とあまり変化がない。最初の量販店で買う気を削がれ、冷静になって考えると、うちの冷蔵庫を工夫すれば、何とかなると思い至った。

翌日、冷蔵庫の内部を空っぽにして、外せるものはすべて外し、最低限必要な棚だけを取り付けて、不要の部品はすべて捨てた。その結果、余計な仕切りが消えて広く使えるようになって、おまけに掃除も簡単になった。そしてmujiで仕入れた奥行き25センチの容器で食品を整理すると、これが同じ冷蔵庫かというくらいのリニューアルである。もっと早く気づけばよかったのだが、どんなものでも工夫次第で何とかなるものだ。

それにしても、いつまでたっても横並びで同じものしか作れない電機メーカーに、将来大丈夫なんだろうかと、消費者としてつい余計な心配をしてしまう。それだったら、共産主義国みたいに国営の電機メーカーが一社あれば十分だし、私たちも悩まないですむし、同じものを使い続けるので、とてもエコだし。だだし内需は冷える一方だけど、それでもいいのだろうか。